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第61話 香辛料の国

分かりやすく絵まで描いて一つ一つ説明してやると、完全な馬鹿ではなかったのか、カイランはすぐに掛け算の原理を理解した。


「つまり、九九をこうやって使えば、規則的な計算が簡単になるっていう、一種の人と人との約束みたいなものだな」

「あはあ、これでやっと少し理解できたよ」


コツンッ!


ルセテリは持っていた木の枝でカイランの脳天を叩いた。


「何するんだよ!」


頭を押さえたカイランの目に、うっすらと涙が浮かんでいた。


「何するんだよとは……年長者に対する礼儀が全くなってないな?」

「俺はプレシア公国でたった一人の後継者……」


カイランが言い終わる前に、木の枝の攻撃が立て続けに食らわされた。


「公国なら準公爵に相当する地位を持つ者の後継者が、礼儀はどこへ売り飛ばしてきたんだ? 公爵がこうしろと教えたのか?」


礼儀の欠片も見当たらないカイランの行動に対し、恐ろしいほどに怒鳴りつける代わりに、顔いっぱいに笑みを浮かべながら木の枝を振り回すルセテリは、ジアから見ても恐ろしかった。

あんな表情をしているということは、ルセテリが本当に頭の先まで怒っていることを意味していたからだ。


「こんなのが後継者だと威張っているようじゃ、公国の未来も知れてるな」

「あ、なんだと!」

「なんだとぉ?」


口では笑っていても、冷たく鋭いルセテリの眼差しに、カイランはすっかり気が削がれてしまった。


「いや、それでも俺は公子で……」

「公子だろうが公爵だろうが、それに相応しい礼法というものがどうしてあると思ってる?」

「いや、平民の分際で……」

「平民の分際で何だ? まだ爵位も受けていない青二才の分際で」


木の枝は休むことなくカイランの脳天を攻撃し、ついに降伏を引き出した。


「俺が悪かった! 悪かったからもうやめてくれ!」

「こいつ、まだ懲りてないな? どこの大人が未だにタメ口を聞いてるんだ?」

「ヒイッ!! 申し、申し訳ありませんでした! もう二度としません!!」


地面に這いつくばって必死に許しを乞うようになって、ようやく木の枝の乱打は収まった。

名門家の公子とかいう名ばかりの子供が泥だらけになって地面を転がっている姿とは……代理満足のカタルシスを感じるな?

ジアの口元にうっすらと笑みが浮かんだ。


「あんたみたいな奴のことはよく知ってる。家柄を信じて何の努力もせず、世界が優秀な自分を中心に回っていると勘違いしている奴ら。一度くらいは世間がどれほど厳しいか思い知る必要がある」

「グスン、グスン」


少し前まで虚勢と見栄にまみれていたカイランが、今はすっかり毒気を抜かれた純粋な姿になっており、ナディルは自然と手を叩かずにはいられなかった。

数年間手塩にかけて教えてみても全く改善の兆しが見えなかったカイランだったが、通りすがりの薬師という人物は、ほんの数分で一気にへし折ってくれた。

ナビルは決心した。

これは絶対に逃してはならない天運の機会だと!

同時に、あの無計画にトラブルばかり起こして回る公子から逃れる絶好の機会だった。


「ハートプールまで行かれるとおっしゃいましたよね? 少々お待ちください。商団の責任者にすぐに聞いてまいります」


止める暇もなく、ナビルは素早く荷馬車の方で荷物を確認している人物に近づいて何かを説明すると、まっすぐルセテリの元へと戻ってきた。


「はい。やはりむしろこちらから薬師様にお願いしたかったところだとのことです。同行、よろしいでしょうか?」


ナビルの速戦即決の行動力に、カイランが止める暇もなくルセテリとジアのプレシア商団との同行が決定した。

自分の意見は無視されて決定されたことにカイランの顔は虫を噛み潰したような表情になったが、カイランもよく分かっていた。

自分にはこの商団を牛耳るいかなる決定権もないという事実を。


「ちぇっ、別に一緒に行きたくないんだけど……」


何やらブツブツと不満げな声が聞こえてきたが、ナビルはあっさりと無視して進むことにした。

どうせ不満を漏らしたところで、シェイクの前ではぐうの音も出ない器だった。

それに今回の件について詳細な報告を聞けば、無事に済むはずもなかった。


「カイラン様のご意見は特に聞いておりませんので」

「俺の商団なのに、俺の意見なんか誰も聞いてくれないんだ」

「それはまだカイラン様の商団ではありませんし、カイラン様に相続されるという保証もありませんからね。当然でしょう」


ナビルは断固としていた。

カイランのことなど眼中にないというように無視すると、ナビルはルセテリとジアを連れて商団の管理者がいる荷馬車のところへ二人を案内した。


「副商会主のアカンと申します。お助けいただき、ありがとうございました」


副商会主という人物は、日焼けした肌に引き締まった筋肉がついた逞しい男だった。

あらかじめナビルと話をつけていたのか、アカンはルセテリとジアに向けて嬉しそうに手を差し出した。


「ちょうど食事をしようと馬車から降りて準備していた最中に、灰色狼の襲撃を受けたものでして」


食事という言葉にルセテリの目がギラリと光ったのを、ジアは見逃さなかった。

ルセテリにとっては、ついにジャガイモ地獄から抜け出せる絶好のチャンスが訪れたのだ。


「食事! 何を召し上がろうとしていたんですか?」

「え、ええ? あ、ただ簡単に私たちが持ち歩いているパンと、ガラムマサラで作るアルーゴビというジャガイモカレーを……」


一瞬またジャガイモかという顔になったが、すぐにルセテリは興味津々な表情でアカンが差し出した手をギュッと握り、彼に向けてキラキラと目を輝かせていた。


「カレーですか?」


ルセテリだけでなく、実はジアも好奇心を露わにせずにはいられなかった。

それもそのはず、本でしか見たことのなかった南部の香辛料を使った料理だということだけは知っていたものの、実際に自分の目で見る機会がなかったからだ。


「ああ、帝国から来られたとおっしゃっていましたね? それなら耳慣れないのも無理はありませんね。時間がないので今日はただのパンとヤギの乳で済ませなければなりませんが、私たちが持ち歩いているガラムマサラをお見せしましょう」


荷馬車の覆いをめくると、アカンは金属でできた小さな容器が入った箱を一つ取り出した。

蓋が閉まっているにもかかわらず、生まれて初めて嗅ぐ香りが漂ってきた。

スパイシーでありながらも異国情緒あふれる香りに刺激され、ルセテリはそのカレーというものを今すぐにでも食べてみたかった。


「それで、今日はそのカレーというのは召し上がらないのですか?」


食べるって言え、早く!


香りだけではどんな香辛料がどう使われているのか想像もつかず、ルセテリのプレッシャーを与えるような眼差しはさらに輝きを増し、アカンへと近づいていた。


「ル先生?」


もう少しでアカンと唇がぶつかりそうな距離まで近づく前に、ジアは慌ててルセテリの服の裾を引っ張った。

アカンも思ったより近づきすぎたせいで、思わず一歩後ろへ下がるほどだった。


「先生。近すぎますよ」


ジアの指摘にも、ルセテリはなかなか興奮を抑えきれない様子だった。

指が蓋の閉まったガラムマサラの容器を開けてみたくてたまらず、行き場を失って彷徨っていた。


「時間がなくて、今日はお味をお見せできなくて申し訳ありません」


渇望に満ちたルセテリの眼差しに、なぜかアカンが謝っていた。

考えてみれば、彼が全く謝るようなことではないにもかかわらずだ。


「いいえ。うちの先生が失礼いたしました」


ジアは丁寧にもアカンに頭を下げて謝罪した。


「とても独特な匂いがしますね?」

「でしょう? うちの商団のガラムマサラは、すべて最高級の材料だけを厳選して作った特別品なんです。商団主であらせられるシェイクが特別に気を配っていらっしゃる部分ですからね」


ジアに服の裾を掴まれているルセテリが大丈夫かそっと様子をうかがいながら、アカンはジアに蓋を開けたガラムマサラの箱を見せてくれた。

箱の中には可愛らしい金属製の小さな容器が10個ほど綺麗に並んでおり、その横に小さなスプーンが整然と置かれていた。


「これは胡椒……ですよね?」


ジアが灰色の粉が入った容器を指差した。


「はい。これほど質の良い胡椒は見つけるのが難しいですよ。新鮮でスパイシーな香りがするでしょう?」

「ええ……ハックション」


スパイシーな匂いが鼻先をくすぐり、ジアはくしゃみをした。

その姿にアカンがガハハと笑い声を上げ、他の容器に入っている香辛料も見せてくれた。


「こちらはシナモン(桂皮)、アニス(八角)、カルダモン、ターメリック、ナツメグ(肉豆蒄)、ベイリーフ(月桂樹の葉)、クミン、コリアンダーシード(パクチーの種)を乾燥させてそれぞれ挽いたもので、こうして持ち歩けば簡単にガラムマサラが作れるんですよ」


初めて嗅ぐ香りに酔いしれたルセテリは、正気を保てなかった。

あんなに香りの強い材料が合わさったカレーというものがどんな味を生み出すのか、我慢して待つことなどできそうになかった。

舌の下から涎が湧き出てきて、理性を失いそうだった。


「じゃあ、もし今カレーが無理なら、このガラムマサラを少し分けていただけませんか?」

「ガラムマサラをですか?」


アカンはジアの頼みに戸惑った。

それもそのはず、今初めて見る香辛料を使って何かを作ってみようと考えているようだが、一度も触れたことのない見慣れない材料を使って何をするのか気になったからだ。


「それなら、うちの商団特製の秘伝の配合で混ぜて分けてあげましょう。少し待っていてください」


半分は好奇心から、素直にアカンは空の金属容器を一つ取り出し、小さなスプーンで箱の中に入っている粉をすくってジアに手渡した。


「香りが独特でスパイシーみたいだけど、なんだか食欲を刺激するような匂いですね!」

「そうでしょう。これは私の特製ガラムマサラでね……他のものよりさらに特別なんです。これで一体どうするおつもりで?」

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