第52話 バイバイ、ブリトル
朝になっても簡単には諦めきれないのか、ルセテリのすすり泣きは続いていた。
そろそろイライラしてもおかしくない頃だったが、ジアは難なくそんなルセテリの姿を見て見ぬふりをした。
オーギュスト一行は少し気まずそうに顔色をうかがっているようだったが、どうせカーディフに行っても食べられないのだから仕方ないじゃないか。
[あの、昨夜何かあったんですか?]
おいおい、とうとうベッシーまで気になって聞いてきたじゃないか。
[なんでもない。ただ俺たちがカーディフへは行かずにお別れするっていうから、名残惜しくてな]
[私たちは別の方向へ向かうのですか?]
[ああ。劇団とは別れて、別行動でフォンテンの森へ向かうことにした]
牡蠣がちょっとばかり食べられなくなったからといって、世界が終わるわけでもあるまいし。
グスグスと鼻をすすりながらベッシーの背中に鞍を乗せているルセテリの目の下は、真っ赤に腫れていた。
まさかベッシーに、「本当はカーディフで牡蠣が食べられなくなったから、ドラゴンが号泣した」だなんて事実を教えるのは忍びなかった。
「うぅぅ……」
まだ涙が完全に止まっていないのか、ルセテリの口からは小さく嗚咽が漏れていた。
ああ、頭が痛い。
まだ七歳にしかならない私に、どうしてこんな試練をお与えになるのでしょうか。
「はぁ、ルッ様。もう泣き止んで。あとでまた来ればいいじゃない」
「で、でも……」
「どうせ今の季節には食べられないって言ってるでしょ。取れないんだから。諦めなさいってば」
「ヒック……」
このドラゴン様を捕まえて、なんて言い草だ!
ジアはまたしてもカチンと怒りが込み上げてきそうだった。
切れそうになる理性の糸をかろうじて繋ぎ止め、ジアはルセテリの肩をポンポンと叩いた。
「絶対に牡蠣じゃなくても、南西地方にも美味しいものはたくさんあるはずだよ」
「そ、そうかな?」
「南の方には、熱帯の気候でしか取れない珍しい食べ物がたくさんあるって聞いたよ」
「熱帯……!」
ルセテリの目に徐々に生気が戻ってくるのが分かった。
やれやれ、この食いしん坊ドラゴン様ときたら!
ジアは誰かに見られないようにこっそりとため息をつき、ベッシーの鞍の上によじ登った。
「ル先生」
遠くから団長がルセテリを呼びながら近づいてきた。
「今回の都市までしか同行されない予定だと伺いました。我々としては、先生とご一緒にこのまま旅を続けられれば嬉しいのですが……」
チラリと、団長がベッシーの上に跨っているジアに視線を向けた。
「先生にも先生のご予定がおありでしょうから、無理な相談ですよね。残念です」
団長は本当に、嘘偽りなく顔から名残惜しさを滲み出させていた。
もちろん、劇団とこれからもずっと旅を共にしてカーディフまで行ければ言うことなしではあるが、うむ。
すでにそうすると決まったことなのだから仕方ない。
ルセテリは舌なめずりをしてから、団長に手を差し出して握手を求めた。
「我々も残念ですが、事情が事情ですので仕方ありません。これまで快適に過ごせるようお気遣いいただき、ありがとうございました」
本心だった。
見ず知らずの人間が突然合流して移動しているというのに、団長は他の団員たちと同様に、ルセテリとジアにも終始優しく接してくれた。
団長だけでなく、他の団員たちも同じだった。
見ず知らずの人間が突然加わって不便だったはずなのに、文句一つ言わずに温かい家族のように扱ってくれた。
それだけでも、ルセテリは非常に感謝していた。
「我々こそ、ル先生のおかげで大いに助かりましたよ。久しぶりに味わう平穏な旅路がどれほどありがたいことか。すべて先生のおかげです」
団長の称賛は尽きることがなかった。
だからといって大袈裟すぎず、ちょうどルセテリの歓心を買うのに適度なほどにうまく機嫌を取っていた。
ジアは団長の姿をもう一度、じっとまじまじと観察した。
人の良さそうな温和な笑みを浮かべた印象の、清潔で整った中年の紳士の姿からは、彼が到底放浪する劇団などを率いて歩き回るような人物には見えなかった。
なんというか、もっと大きな計画を隠し持っている巨大な組織のトップ?
そんな怪しい点が潜んでいるような気がしてならなかった。
「ル先生の残りの旅路に、女神デメステルの祝福が共にあらんことを」
ルセテリが差し出した手を両手でしっかりと握りしめ、団長は祈るように祝福の言葉を贈った。
女神デメステルという言葉に、ルセテリの口元に微かな痙攣が走ったように見えたのは、おそらく気のせいだろう。
ニコッと笑みを浮かべ、団長に向けてこんな言葉を返したのだから。
「劇団の前途にも祝福があふれんことを」
なんだかものすごく不自然極まりないんだが?
それでもジアは見て見ぬふりをして、そのままやり過ごすことにした。
ドラゴンなんだから、むやみに祝福の言葉なんか口にしたら大変なことになるんだろうな。
そう考えることにした。
朝早くにもかかわらず、街は慌ただしかった。
いつもほぼ同じ時間に出発する劇団のことを考えれば、早い時間であることは確かだった。
[さっきはなんであんなこと言ったの?]
[何が?]
[女神様の名前を言わなかったじゃない。その女神様の代理人なのに]
[ああ、あれか? 当然だろ。俺が女神の名前を口にして祝福の言葉を言ったらどうなると思う?]
[ただの言葉じゃない]
[俺が女神の名前を口にした瞬間、それはもはやただの言葉じゃなくなるからな]
そうむやみに乱発するような祝福ではない。
デメステルの名において口から発した瞬間、それは女神の祝福となって付き纏うことになるのだから。
ルセテリは口を固く結んだ。
ジアもまた、予想通りだった彼の答えに軽く頷き、理解したという意志を示した。
「ここの人たちはかなり働き者ですね」
周囲を見回していたアルが、肩に鷹を乗せて近づいてきた。
「農夫だってこれより早く起きることはできないでしょうね?」
ジュールの一言に、一行全員が激しく同意する反応を見せ、目を丸くして周囲をうかがいながら慎重に行動した。
ルセテリもジアも、背中についているフードをさらに深く被り直した。
村の入り口に近づくにつれ、兵士たちの動きが尋常ではないのが肌で感じられた。
「止まれ!」
入り口で劇団を遮る兵士の制止に、全員が一斉に立ち止まった。
「通報があった。お前たちが皇都を離れた後、皇女様が姿を消されたとな。それでここを出る前に、全員の顔を確認する必要が生じた」
劇団員たちの間に小さなざわめきが起こった。
これまで何の問題もなく城門を通過してきたのに何事かと、あちこちから囁き声が聞こえてきた。
問題はないはずだ。
それは確かだが、より厳しくなった城門での検問には緊張せざるを得ない。
兵士たちは手慣れた様子で団員たちの顔を一つ一つ素早く確認しながら、ルセテリの一行へと近づいてきた。
「次!」
ゴクリと、オーギュストが唾を飲み込む音が聞こえてきた。
彼が真っ先にフードを脱ぎ、兵士の前に顔を晒した。
鋭い兵士の視線がオーギュストを舐め回すように見つめ、次の順番を待つアルとジュール、ローザへと向かった。
「見かけない顔だが?」
ルセテリとジアを観察していた兵士の言葉に、一瞬一行の間に緊張が走った。
この前ウムスカークに入った時と同じ状況が繰り広げられた。
「リバーヒルの貧民街で薬師として働いておりました」
「身分証」
無愛想な兵士は表情一つ変えずに手を差し出し、ルセテリの身分証明を要求した。
一歩間違えれば生意気だと思われかねない行動だったが、ルセテリは無言で懐から身分証を取り出して差し出した。
これもまた、センティが用意しておいてくれた抜かりない準備物の一つだった。
チラリと身分証を確認した兵士が、今度はジアの方へ視線を移して入念に観察した。
少し首を傾げながらも何も言わないところを見ると、なかなか人を見る目はあるようだったが、ルセテリの魔法を見破るには力不足だった。
無言のまま、兵士は身分証を再びルセテリに返した。
「異常なし!」
兵士の叫び声と共に、ゆっくりと劇団は動き始めた。
絶え間なく何かしら喋り続けるのが好きだったジュールの口さえも固く閉ざされ、ザクザクと足音だけがしばらくの間響いていた。
[なんか、徹底してるね?]
[そうだな。ローザの言葉に従って正解だったみたいだ]
[うん。その通りに別行動にしてよかったよね?]
確かにジアの言う通り、ローザの言葉に従うことにして正解だったと思った。
想像以上に物々しくなった警戒の中、目立つ劇団と一緒に旅を続けるのはギャンブルを続けるのと同じことだった。
だからこそ、オーギュストたちの判断は正しかった。
万が一の不祥事に備え、ルセテリとジアは城門を出てからも、しばらくの間ベッシーに乗って街道沿いに劇団と行動を共にした。
一時間ほど経った頃だろうか、道を進む劇団の前に分かれ道が現れた。
オーギュストと昨夜計画した通り、北東と南西に道が分かれる地点だった。
劇団は足を止めることなく北東へ向かって道を進み、団員たち一人一人が振り返ってはルセテリに向けて目配せで挨拶をしながら通り過ぎていった。
最後にオーギュストとローザ、アル、ジュールが黙々と馬を進めながら、ルセテリとジアに向けて軽く頭を下げて挨拶をした。
おそらく当分の間、少し寂しさを感じるかもしれないな。
砂埃でも口に入ったかのように、ルセテリは口の中がザラザラとした。
そんなルセテリを見て、ジアが一言投げかけた。
「どうしたの? 寂しいから?」
「これから誰が俺のご飯を作ってくれるんだ?」
……結局、またご飯の話?
この食欲にまみれたドラゴン様をどうしてくれようか。
呆れたような眼差しで、ジアは首を上げてルセテリを見上げた。
自分が自分で作って食べるっていう選択肢はないわけ? そういうこと?
「俺、料理できないぞ?」
「じゃあ私に作れって言うの?」
ジアは少しばかり呆れ果てそうになった。
いくらなんでも七歳の子供にご飯を作れと命じるドラゴンだなんて……それはちょっと、あんまりじゃない?
「その母親にしてその娘ありって言葉があるから、もしかして?」
「もしかして、何? 私にやれってこと?」
「ア・ハ・ハ。まさか……」
ぎこちなく笑う姿が、どうにも怪しいんだが?




