第41話 落花する花は種となって
指で頬を掻きながら、ルセテリは少し考えてみたが、あえて言う必要もないだろう。
わざわざ訂正しなくても構わないはずだ。
このまま勘違いさせておくのも悪くない気がした。
運動がてらひとっ飛びしてくるついでに、現在のリバーヒルの状況を覗いてくるのもいいだろう。
再び荷台の中へと入っていったローザを最後に、四方はひっそりとして静寂が訪れた。
不寝番に立つ数名の団員たちを除いて、皆が深い眠りにつく時間だった。
野営地から抜け出したルセテリは、草原の奥深くまで入り込んだ。
周囲は高く育った雑草が生い茂り、所々で目につく小さな生命以外には何もない土地だった。
強烈な光がルセテリの頭頂部から降り注ぎ始め、次第に全身へと光が広がっていった。
長い銀髪は徐々に光となり、淡い月明かりに煌めく鱗へと変わり、光が消えた場所には、夜空色の雄大なドラゴンが姿を現した。
[世界の大行者様にお目にかかります]
草むらの中からカサカサと近づいてくる足音が聞こえたかと思うと、ベッシーだった。
周囲の雑木林でも隠しきれない巨大なルセテリの本来の姿に向けて、ベッシーは恐れる素振りも見せず近づき、頭を垂れて深い敬意を表した。
[ちょっと風に当たってくるから、その間よろしく頼む]
[遠くまで行かれるのですか?]
[羽にカビが生えそうだからな。少し動かしたらすぐ戻ってくる]
ボキボキと、その巨大な腕と脚を伸ばし、人間であった時に縮こまっていた筋肉のストレッチを始めた。
周囲の雑草がかなり高く育っていたとはいえ、ドラゴンのその巨大な本体を隠すには無理があった。
しかも、一歩足を踏み出すたびに地面がドスンドスンと振動し、草むらで眠っていた小鳥たちが夜中にバサバサと飛び立つほどだった。
最後に首を回して緊張した筋肉をほぐすと、バキボキという音が周囲を恐怖に陥れた。
[私が居なくても、お姫様は大丈夫な気もしますがね]
[分からないだろう。周りに脅威となるものはなくても、万が一ということもあるじゃないか]
[確かに、あの魔力量なら何を引き寄せるか分かったもんじゃありませんからね]
ベッシーの不吉な一言に、ルセテリの冷たい瞳が縦に細くなった。
口は災いの元だというのに、なんという不吉な言葉を吐くのだ!
ヒヤリとした空気を読んだベッシーは慌てて口を閉ざしたが、ひんやりとした気配が全身を舐めるように通り過ぎていくのは防ぎようがなかった。
抗うことのできない巨大な捕食者の前で、一介の微小な生き物になったような気分だった。
[だからお前に近くを守れと言っているんだ。ユニコーンの保護膜で守っていろ]
[は、はいっ! 承知いたしました]
自身の身を守ることに特化したユニコーンは、周囲の危険要素から身を隠すための隠蔽技術に特化した種族だった。
魔物を引き寄せないために当然魔力を隠すことにも長けていたため、古くから魔物から身を守るための材料としてユニコーンの角が使われることもあった。
そのせいで絶滅の危機にまで瀕し、フォンテンの森の奥深くに逃げ込んで住処を構えたおかげでどうにか危機は免れたものの、すでに人間たちの間ではただの童話や伝説に出てくる動物となっていた。
それを知っているルセテリは、ベッシーにジアの側から離れずにピッタリとくっついているようにと、命令のようなお願いをしたのだ。
万が一自分がいない間に、ジアの魔力に引き寄せられた魔物たちから守るためにベッシーをつけておいた。
ルセテリの言葉を痛いほど理解したベッシーは、震える脚で極力頭を地面に向けて平伏した。
[いってらっしゃいませ]
[長居はしないから、その間うちのチビをよろしくな]
翼を羽ばたかせてみたのがいつぶりだったか分からない。
久しぶりに動かしたせいか、ゆっくりと動かしたにもかかわらず、周囲の草木が巨大な嵐に巻き込まれたように地面に倒れ伏した。
明日の新聞の第一面に「首都郊外の平野に謎の巨大生物現る」という見出しで大々的に報じられるのではないかと心配になった。
特にあのロアンという侍女ならすでに知っているのではないかと、ベッシーでさえロアンの情報力を恐れていた。
よもや地上では、ドラゴンという存在が空を飛んでいるなどとは夢にも思っていないだろう。
こんな夜中に飛行船なるものを空に浮かべることもないだろうし、仮に地上からルセテリを目撃したとしても、気の遠くなるような高さであるため、ただの通りすがりの鳥だと思う程度の高度で、ルセテリはリバーヒルに向けて翼を羽ばたかせた。
劇団があまりにもゆっくりと移動していたせいもあったが、巨大な翼を羽ばたかせて飛ぶルセテリの飛行速度であれば、皇城までかかる時間は大したことはなかった。
一時間も経たないうちに、遥か眼下にリバーヒルのアルメニア帝国皇宮に掲げられた旗が見え始めた。
空を大きく旋回しながら高度を下げてみると、点のように小さかった皇宮の姿が、おもちゃの箱くらいの大きさにまで広がった。
一目見ただけでも、皇宮のあちこちから黒い煙が立ち上り、至る所から鬨の声と共に剣が激しくぶつかり合う音が聞こえてきた。
皇宮を繋ぐ回廊の隙間からは光が点滅し、人間たちがアリのように群れをなして動き回っている様子までが、ルセテリの深く透き通った目に映り込んだ。
皇宮では現在、ミエリアとジョゼフ皇帝が危惧していた事態が起きていた。
あちこちで兵士たちが大声で誰かを探す声が聞こえ、至る所で刃物がぶつかり合う音と共に悲鳴も聞こえてきた。
むせ返るような匂いも煙や炎と共に立ち上っているところを見ると、火薬のようなものも使ったようだ。
公爵派の騎士たちが容易く皇宮を掌握していく様子は、数百フィートの上空から見下ろしているルセテリにもはっきりと見えた。
無数の光が本宮の方へ集まっているのが見えた。
そのうちの一部は北へ向かっているのも。
光は何かを探しているように、切迫した動きを見せていた。
北宮の最も高い尖塔の頂上、アルメニア皇室を象徴する紋様が刻まれた旗がはためく下で、ルセテリの目にひらひらと舞う白い布が入ってきた。
空中で羽ばたきながら留まっているルセテリに見せつけるかのように、強風に煽られてはためく白い布は、まるでパッと咲き誇る一輪の花のようだった。
大きく、濃厚な香りを漂わせるクチナシの花。
風にはためくその白い布から、ルセテリはコーセン公国を象徴するその花を思い浮かべることができた。
高潔さと純潔を象徴するクチナシのように、その正体を確かめる間もなく、白い布は長い尾を引いて空中でくるくると舞い、花が散るように尖塔から飛び降りていた。
それに続いて、尖塔に登った人間たちの絶叫する声がルセテリの耳にも届いた。
近づくことさえ許されていないルセテリは、ただ遠く離れた場所から、一輪の花となって美しく空からひらひらと落ちていく光景を見守ることしかできなかった。
それが大行者のルール。
彼が介入して割り込むことのできない世界の均衡だった。
ただ固く唇を噛み締め、今皇宮で起きている一連の出来事を、その両目にしっかりと焼き付けるしかなかった。
凄絶な叫び声が北宮の方から聞こえてくるようだった。
声を限りに泣き叫ぶ声がルセテリの心をズタズタに引き裂くように痛んできたが、偉大なる彼であってもできることは何もなかった。
ただこうしてしばらく見守った後、皇宮の上を一周して引き返すこと以外には。
豪快に帝国を一周し、存分に風に当たって戻ってきたルセテリは、久しぶりに完全体で闊歩し飛び回ってきたせいか、強張っていた筋肉に溜まっていた疲労がすっかり吹き飛んでいた。
爽快な気分で再びポリモーフをしてル先生となって戻ってきたが、久しぶりに味わった解放感のせいで、すぐには眠りにつけそうになかった。
こんな風に眠れない時に一番良い方法が一つある。
まさに、本を読むことだ!
これまで亜空間にしまっていたせいで人前で取り出すことができなかった本を取り出すため、周囲をキョロキョロと見回した。
深夜、人々は静かに眠りについており、ジアの側を守るよう遣わせておいたベッシーでさえ、荷台の前に陣取って横たわり、イビキをかいて眠っていた。
あれ、本当にユニコーンか?
亜空間から取り出した本を手に持ったルセテリは、ベッシーを一度睨みつけると、ため息をつきながら荷台の中へと入った。
ユニコーンが近くにいるだけでも魔力が保護される効果は十分にあるので、二人を乗せて一日中歩き続けなければならなかったベッシーの事情を汲んで、これくらいは許してやることにしようか。
スヤスヤと布団を被ってよく眠るジアを見て、ルセテリは本を開いた。
ジアの反対側に寝袋を広げていたローザも、規則正しい寝息を立てて熟睡していた。
亜空間から取り出した本のタイトルは、曰く付きのあの『全大陸美食紀行』。
眩しくない程度に弱いライトの呪文を唱え、すぐに帝国西部のブリトルに関する記述があるページを探し始めた。
確かにブリトルの項を読んだ時、豚の脂以外にも何か別のものを見た記憶があるのだが……。
「ブリトル、ブリトル……ああ、ここだ」
眠っている他の人間たちを起こすつもりのなかったルセテリは、口の中でモゴモゴと呟きながら指でなぞり、ブリトルに関する内容が書かれたページを見つけ出した。
「古くから硬い花崗岩石地帯であるブリトルという都市は、石の都市らしく石を使った調理技法が発達した」
おお、思いもよらない新しい話を発見した。
石を使った調理技法とは……、なかなか興味をそそる一節だった。




