第36話 お忍びの旅はこれからだ
カーディフ。
川と海が交わるリアス式海岸の都市。
ルセテリの遊戯リストにも入っているカーディフは、川と海が交わる場所に位置しており、ミネラルを豊富に含んだ牡蠣の名産地として有名な場所だ。
牡蠣が有名なだけに牡蠣料理も発展し、「牡蠣天国」と称しても過言ではないほどだった。
頭の中に次々と食べたい牡蠣料理のリストを書き出していくルセテリの口の中には、すでに涎がたっぷりと溜まっていた。
レモンをギュッと絞った牡蠣に、ピリッと辛味の効いたクマトのソースをかけた生牡蠣も良いが、熱々のベシャメルソースにチーズをたっぷりと乗せて焼き上げたグラタンも絶品だ。
皇宮は内陸にあるせいか、牡蠣の姿を見てから随分と経つが……今、ルセテリの頭の中は牡蠣のことでいっぱいだった。
[ルッ様、涎拭いて]
[ん? 俺が何を?]
[今、食べ物のこと考えてるでしょ。違う?]
[ち、違うぞ? そんなの……]
ジアはルセテリに向けてジロリと目を細めた。
すでに目がとろんとしているのに、どうして分からないはずがあろうか。
まさに、ミエリアがルセテリのために毎朝スフレパンケーキを焼いてくれた時と全く同じ顔をしているのに。
[はぁ]
呆れたような溜め息が、ルセテリの頭の中に響いてきた。
勘の鋭いジアから逃れるように目をぎゅっとつむってしまったルセテリを見て、オーギュストは問題が深刻だと考えているのだと勘違いした。
「私の考えでは、この辺りなら皇宮からかなり距離も離れましたし、ルセテリ様とジア皇女様が単独で行動されるのがよろしいかと存じます」
万が一聞く耳があるかもしれないと警戒したオーギュストは、極力声を潜めてルセテリに意見を伝えた。
「ああ……。うむ、そうだな」
まさか牡蠣料理の妄想に浸っていたとは口が裂けても言えないルセテリは、しらばっくれて話を切り出した。
どうせ劇団にずっとついて回ることはできない。
もちろん劇団のフリをして人々に紛れ、そのままついて回ることも可能だが、人々の注目を集めなければならない劇団の性質上、できる限り身を隠さなければならないルセテリとジアにとっては、常に危険に晒されることになる。
劇団はあくまで帝国の首都であるリバーヒルから抜け出すための手段に過ぎない。
オーギュストの言う通り、ひとまず首都を抜け出した後は、劇団から離れて単独で行動する方が確実に目立たないはずだ。
二人は今、外見だけは中年の薬剤師のルとその弟子のプーなのだから。
「ルセテリ様?」
しばらく返事がないため心配になったのか、オーギュストが再びルセテリの名前を呼んだ。
「あ、いや。オーギュストの言う通りだ」
絶対に牡蠣料理に心を奪われて生返事をしていたわけじゃない。
そのアイデアが良いと思って考え込んでいたから、返事が遅れただけだ。
今ルセテリがどんな想像を膨らませていたのか全く見当もついていないオーギュストは、真剣な面持ちで目を閉じて頷くルセテリの姿に感動しているようだった。
わざわざ世界観クラスのドラゴンが、自分の些細な言葉を聞き逃さず真摯に耳を傾けてくれていたなんて!
感動の涙を流すような状況ではあったが……。
中年の男の目に浮かぶ涙は、ちょっと、かなり、重たい。
ルセテリは舌鼓を打ちながら、なんとなくオーギュストに対して申し訳ない気持ちになった。
城門を出てから半日ほど経った頃だろうか。劇団一行はリバーヒルの隣にある小都市ウムスカークに到着した。
首都であるリバーヒルから約120ゼロサムほど離れた田舎の村で、村人の大半が農作業をして暮らす非常に小さな村だった。
劇団が村に入れば、村中が騒がしくなりそうなほどの規模だった。
村に入るために劇団が詰め所の前で立ち止まると、詰め所を守る門番が村長らしき老人と共に姿を現した。
「どのようなご用件でここまで来られたのですかな?」
恭しく両手を前に合わせて礼儀をわきまえてはいたが、その眼差しには警戒の色が潜んでいた。
「我々はリバーヒルからカーディフの公演へ向かう途中、少しの間、一晩の宿をお借りしたくて立ち寄っただけです」
団長が村長らしき老人の方へ歩み寄った。
丁寧に帽子を取って挨拶をする彼の姿が気に入ったのか、ある程度警戒の眼差しは和らいだ。
隣に立つ歩哨兵に何かを囁いたかと思うと、歩哨兵が劇団に向けて槍を構えながら近づいてきた。
「先ほどリバーヒルから連絡があったのだが、もしかして皇女がこの一行に紛れ込んでいるのではないだろうな?」
歩哨兵の尖った質問に、一瞬オーギュスト一行は手に汗を握った。
情報が回るのがやけに早いな。
皇女が皇宮から姿を消したという知らせが、どうしてこんなにも早く伝わったのか不思議だった。
歩哨兵は隊列の先頭から順に、じりじりと後方へ近づいてきていた。
万が一の事態に備え、ローザとオーギュストが小声で炎と爆発の魔法の詠唱を始めている音が聞こえてきた。
アルとジュールは腰に隠し持った短剣に手を当て、ガチガチに緊張したまま息を潜めていた。
一方ルセテリは、ポリモーフを解かない限り自分が皇女のシッターであるという事実がバレることもなく、ドラゴンが魔法で変装させたジアが露見することもないため、ただのんびりとベッシーの背に座っているだけだった。
魔法がありふれた時代でもないし、ルセテリがドラゴンであることなど夢にも思っていないだろうから、当然といえば当然だ。
「どうやら、すでに首都は制圧されたようですな」
オーギュストが囁いてきた。
「まだ半日しか経ってないじゃないか」
「わざと皇帝陛下が早めに手を打ったのかもしれません」
オーギュストと共に、アルがルセテリの側にピタリと張り付いた。
「それにしても、『通信線』なるものを敷設したとは聞いていましたが、確かに早いですね」
ローザが周囲を警戒しながら囁いた。
通信線?
そうでなくても、皇女の失踪の知らせが半日しか経っていないのにどうやって伝わったのか不思議に思っていたところだった。
ローザの口から出た『通信線』という言葉が気になったが、歩哨兵が次第に近づいてきたため、ひとまず口を閉ざして一行に紛れ、大人しくしていた。
「こちらは全く劇団員には見えないが?」
怪訝な目で、歩哨兵はルセテリとジアを隈なく見回す様子だった。
「その二人は薬師です。薬草採集の旅に出るというので、うちの劇団に合流して一緒に行動することにしましてね。公演をしていれば大小の事故はつきものですから。我々としても薬師がいれば助かるじゃないですか」
疑いの目に満ちた歩哨兵がルセテリとジアを調べる前に、団長が駆け寄り、揉み手をして歩哨兵と村長の機嫌を取るように顔色をうかがった。
「薬師だと?」
「ええ。リバーヒルの貧民街ではかなり名の知れたお方です」
団長の説明にも歩哨兵は疑いを解かず、槍の穂先をルセテリに向けた。
「薬師。名前は何だ?」
たかが歩哨兵風情に脅される守護ドラゴンとは……。
「薬師のルです」
「その前にいるチビは?」
「プーです」
こんな田舎の村の歩哨兵にしては、かなり優秀な兵士だった。
気分は少し悪かったが、彼は自分の役割に忠実だった。
「ああ、時々ここに立ち寄るセンティから聞いたことがあります。北門近くの貧民街で尊敬を集めているお方だと」
意外にも村長が間に入って、事を綺麗に収めてくれた。
時々首都の外へ行商に出ると言っていたが、知らず知らずのうちにセンティの恩恵をこうして受けることになった。
後で会ったら、よくしてやらなきゃな。
村長の一言で、向けられていた槍の穂先は下ろされ、歩哨兵はようやく疑いを解いたようだった。
それに、見た目からしてもプーは少女ではなく少年の姿だったし。
歩哨兵の目が節穴でない限り、疑いを解くのが当然の理屈ではないか。
「すまなかったな。私の仕事というものが、まずは疑って調べることなもので」
謝罪はしつつも、自分のとった行動に間違いはないというように堂々としていた。
「さあ、お通りください」
これ以上用はないとばかりに、歩哨兵は背を向けて自分の配置へと戻っていった。
検査のために立ち止まっていた劇団の隊列がゆっくりと動き出し、村の中へと入っていった。
「何事もなくて何よりでした」
「思いのほか歩哨兵が仕事熱心で、ビビりましたよ」
馬の上でジュールが身震いして身を縮めた。
彼は歩哨兵の槍の穂先がルセテリとジアに向けられた瞬間、懐に忍ばせていた短剣を取り出して投げつけるところだった。
幸い、間一髪でアルが止めたおかげで短剣を抜くことはなかったが、危ういところだった。
村の中は、外から見るのとは違い、温かい人情に溢れる村のようだった。
すれ違う村人たちの顔は決して裕福そうではなかったが、幸せそうな微笑みでいっぱいで、劇団が通る道々、彼らに温かい挨拶の言葉を投げかけてくれた。
おそらく、歩哨兵がしっかりと役割を果たしているからこその安心感なのだろう。
かなり多くの見知らぬ人間が村に入ってきているというのに、向こうから近づいてきて何か必要なものはないかと尋ねて回っていた。
「この村はそれでも皇帝派であるモンペリジュ男爵領なので、人情が厚いようですね」
「他の地域は違うのか?」
「公爵派の地域は、領民たちをどれだけ搾取したのか、スケルトンが歩き回っているという噂ですよ」
ジュールが皮肉っぽく言った。
「そして、その分だけ領民たちの人情も薄情だそうです」
オーギュストが念を押した。
「それでも、ル先生のおかげで大した疑いもかけられず村に入ることができたようです」
全くその通りだ。
危うく疑われて歩哨兵に捕まるか、追い出されるところだった。
ひとまずジアが皇女であるという事実がバレることはないので後者になっただろうが。




