第143話 三十六計逃げるに如かずです
ガサゴソ。
深夜、星明かり一つ差さない暗闇の中を忙しく動いている両手があった。
素早く、しかし正確な動作でテキパキと荷物を運び出す動作が、プロフェッショナルそのものだった。
[どうして夜逃げみたいに荷造りしなきゃならないんですか?]
慎重に鞄を渡しつつも、今のルセテリの行動が理解できなかったジアは、首を片方にコテッと傾げて尋ねた。
いや、常識的に少し考えてみてもおかしいでしょ。
早く発ちたいのなら、まだ日のある朝早くに発ってもいいものを、あえてこんな真っ暗な夜中に動かなければならないのか。
まるで夜逃げでもする人間のように……。
ふと何かに気づいたように、ジアはベッツィーの背中に荷物を積んでいたルセテリの手首をガシッと掴んだ。
[ルッ様! 何かしでかしましたね?]
どう考えても、こんな風に慌てて追われるように逃げる理由はたった一つ、それしかない。
ジアに不意打ちで手首を掴まれてしまったルセテリは慌てたが、すぐに落ち着きを取り戻したように声を潜めた。
[しでかすって何が……。そんなんじゃないからな?]
[嘘おっしゃい。今の状況がまさにその通りじゃないですか]
しらばっくれるルセテリの竜言にも、当然のことながらジアは素直に騙されるような子供ではなかった。
ジアに掴まれた手首を振りほどこうとしてみたが、ピクリともしなかった。
わざとふざけたふりをして負けてやっていたのがつい一昨日のことのようだが、今やルセテリの通常の力だけでは到底敵わなくなっていた。
[クッ……! 昨日ソラレティ様の言葉を聞かなかったのか?]
[どんな言葉ですか?]
密かに掴まれた手首が痛かったルセテリは、努めて涙を飲み込んだ。
とても痛いとは、ジアには言えなかった。
[魔力が十分に安定したっていう言葉、聞いてないのか?]
[それがどうしたんですか?]
[一日も早くフォンテンの森へ来て魔法の練習をしなければならないとおっしゃってただろ]
[それで?]
ジアは魔力が安定してフォンテンの森へ行かなければならないということと、ルセテリが急いでテランカナを発とうとしている理由との関連性が理解できないというように、しきりに首を傾げた。
意外にもなかなか自分を理解してくれないジアに、ルセテリは寂しくなった。
[それで?って……一日も早く行くに越したことはないだろ]
そうしなければ、ソラレティ様から通信球で毎日いびられることになるのに……。
うわっ、考えただけでも恐ろしい。
[そうだとしても、朝早くお世話になった人たちに挨拶でもして発つのが礼儀というものじゃないんですか?]
わざと厳しい表情を作って、ジアはルセテリに向かって人差し指を立てて左右に振った。
いくら忙しいからといって、今まで散々お世話になった人たちに別れの挨拶もできないほどソラレティ様が薄情なわけではないだろうに、ジアの立場からすれば、明らかにルセテリの過剰反応だとしか思えなかった。
[じゃあ、お前はここでナビルやカイランに足首を掴まれて、市民解放軍だか何だかいう所に入るつもりなのか?]
ルセテリはジアの両肩に両手を乗せ、わざと深刻そうに両目をギュッとつぶってジアを説得し始めた。
説得というよりは、万が一の場合という手を考えた時のことだが、ほら、あるだろ?
どんなことになっても完璧というものはないのだから。
[バレなければ、それも悪くないような気もしますけど]
いや、俺の知ってるあの理性的で緻密なジアで合ってるか?
その間にカイランに感化されたのか??
ジアの答えが大きな衝撃だったのか、ルセテリの口がぽかんと開いたまま塞がらなかった。
[万が一の場合もあるだろ、万が一。もちろん俺の魔法は完璧だから、そんなことは絶対に起きないだろうがな]
[じゃあ何が問題なんですか?]
真剣な表情で説得しているルセテリの顔が、ジアは妙に見慣れなかった。
普段どこかネジが外れたような姿でフラフラと市場をかき回し、食べ物に夢中になっていたあのドラゴンで合っているのかと疑いたくなった。
[何が問題かって! 大問題だろ! カイランはお前が帝国の皇女だってことを知ってるじゃないか!]
あ……! すっかり忘れていた。
あまりにもジアが1年以上もプーの姿に変身していたせいで、カイランがすべてを見通す真実の目を持っているという事実を忘れていた。
これまでは何もなかったが、もしカイランが口を滑らせてナビルやアーク、最悪の場合シェイク・ミルザにでも知られるような日には、スパイだと疑われても弁明の余地がなかった。
信頼を築くのは難しいことだが、その信頼が崩れるのは一瞬なのだから。
[それも、そうですね]
真剣に顎に手を当てたジアは、今になってようやく納得したのか呟いた。
[お二人とも、何か重要なことを忘れていらっしゃいませんか?]
大人しく荷物を積むルセテリに背中を貸していたベッツィーが、突然二人の間の会話に割って入った。
[何が?]
[何を?]
二人は同時に、二人の間でフンフンと鼻息を荒くしているベッツィーを振り返った。
[カイラン若君にかかっているという禁制のことです……]
[それがどうした?]
[禁制の副作用で聞こえるそうじゃないですか、竜言が]
だから? という思いで、ルセテリの首がコテッと片方に傾いた。
ベッツィーの言いたい要点が何なのか把握できなかったためだ。
[だから?]
[これまで話していた竜言、カイラン若君にも聞こえるんじゃないですか?]
[……!]
思いもよらなかったため、ルセテリは竜言で短い感嘆を漏らしてしまった。
確かに、ベッツィーの言う通り二人は禁制の副作用でカイランが竜言を使えなくても聞こえるという事実を完全に忘れていた。
もちろん会談が決裂して以降、いつ始まるか分からない戦争に対する緊張感はあったものの、平和な日々が続き、大半はジアとカイランと共に過ごす日が多かった。
そうなると、自然と竜言を使う機会も減り、カイランが竜言を聞こえるという事実さえも記憶の彼方に消し去ってしまっていたようだ。
[忘れてた……]
[どうしてそんなこと忘れるんですか?]
[いくら俺だってミスくらいするさ]
ブツブツとルセテリはジアに向かって言い訳を並べ立てたが、なぜか偏頭痛がやってきたように片方の額がズキズキと痛み始めた。
指でじっと痛む部分を押し付けながら、もしかしてと思い、部屋を抜け出す前の状況を振り返ってみた。
城内の部屋を出る前、ルセテリは間違いなく城内の全員が深く眠りについているのをすべて確認していた。
確認するだけでは飽き足らず、万が一の用心のために城全体に睡眠魔法までかけて出てきたのに、まさか……。
いや、いや、まさかが人を殺す(まさかと思っても油断大敵)という言葉があるにしても、自分はドラゴンだった。
一度や二度ではなく、完璧を期すために徹底して睡眠魔法の上に気絶魔法まで重ねがけしてある。
そんなルセテリの魔法を打ち破ることなど、普通の人間には不可能なことだった。
そう、普通の……。
ゾクッ。
なぜだか分からない寒気が背筋をかすめていった。
[だ、大丈夫だろ。きっと……]
言葉を濁すルセテリの竜言に、なぜか不安が滲み出ていた。
そのスッキリしない態度に、ジアは眉間を思い切りひそめた。
[確かなんですか?]
[た、たぶん……?]
たぶんおぉ?
ここでたぶんって言葉が出ちゃダメでしょ!
表情だけで、ルセテリはジアがどんな小言を言いたいのか分かる気がした。
久しぶりのジアの小言に慌てたルセテリは、無駄に頭を掻きむしりながら大丈夫なふりをして努めて余裕を見せた。
[違う。出てくる時、間違いなくカイランのいびきまで聞いて出てきたところだぞ]
[本当ですね?]
[いや、なんで俺がカイランが寝てる時にいびきかいてたなんて嘘をつくんだよ]
二度三度と確認までしようとするジアの質問に、ルセテリはなぜか悔しかった。
間違いなく全員が眠っているか息遣いまで確認してから部屋を出たというのに、腕まで組んで尋問でもするかのようなジアの態度に、ルセテリはすっかり萎縮してしまった。
[そうですか。いくらなんでもルッ様の睡眠魔法を破って起きるはずがないですよね]
長いため息をついたジアは、チラリとルセテリを見たかと思うと、そのまま鐙を踏んでベッツィーの背中の上へとピョンと身を乗せた。
今更カイランが起きたところで、大きく変わることはなかった。
目覚めたのを確認した瞬間、すぐに三十六計逃げるに如かずとばかりに逃げ出せばいいことだから。
躊躇うことなくルセテリは鐙も踏まずにヒョイと飛び上がり、ベッツィーの背中に乗った。
[こういう時の答えは一つだ。ぐずぐずせずに逃げればいいんだよ]
[それが答えですか?]
[当然だろ。どうするつもりだ、いくら名ばかりでも公国の後継者がすべて投げ出して俺たちを追ってくるわけがないだろ、違うか?]
確信に満ちたルセテリの竜言に、ジアはなぜかツッコミを入れたくなった。
そしてジアが知っているあのカイランなら、機嫌を損ねてその気になれば本当にすべてを投げ出して追いかけてくる人間だったから。
ジアはどうしてもその考えを口に出してルセテリに言う勇気が出なかった。
そうしたら予感だけでは終わらないような気がしたからだ。
それだけは御免だ。
[こんなこと言ってる時間があるなら、さっさと出発しましょうよ?]
何ともないふりをしてすました顔でジアは前を見つめ、ルセテリを急かした。
突然急かされて、ルセテリはまじまじとジアの後頭部を見つめた。
なぜかジアらしくなく急ぐ様子が、どうしても何かを隠しているように見えたが、あえて理由は聞かないことにした。
いや、聞かなくてもなぜかジアの言いたいことが何なのか分かるような気がしたからだ。
[ああ、出発するとしよう]
ルセテリは勢いよくベッツィーの手綱を引き、出発した。
「ル先生? プー? みんな一体どこに行ったんだ!」
案の定、出発して間もなく、静寂な夜明けを切り裂いてカイランの叫び声が風に乗って二人の耳に届いた。
やはり、ただ者じゃないな。
「チッ、やっぱり起きたか」
ルセテリは軽く舌打ちをして、ベッツィーへの拍車を強めた。




