第140話 束の間の休息
よく月日は矢のようだと、矢に例えられることが多いが本当にその通りだった。
テランカナに到着するや否や立て続けに行われた会議の連続に、ナビルも疲れ果てアークも脱落し、やることのない子供たちだけを集めて死ぬほど勉強ばかりさせた。
いや、勉強だけさせたわけではなく、適度にバランス良く剣術の練習もさせてはいたが。
そうやって過ごしているうちに、いつの間にか1年がサッと過ぎていた。
子供らしいあどけなさが残っていたぽっちゃりとしたカイランの乳児脂肪が日を追うごとにスッと落ち、すっかり男らしく逞しい筋肉質の体を誇示しながら剣術の練習に邁進中だった。
午前の座学の授業がよほどストレスだったのか、すべてを吐き出すかのような猛烈な勢いでアークに飛びかかっていた。
「あいつ、なんで毎回勝てそうにもないのに必死になってかかっていくんですかね?」
カイランの動きを綿密に観察していたルセテリの横に、ジアが近づいてきた。
ちなみに、急成長中のカイランとは違い、変身魔法を維持しているジアの場合、去年も今も外見には大きな違いがなかった。
変身を解けばまたどうなるか分からないが。
「おや、それは分からないだろ。いつか一度くらいは、あの刃がアークの首筋に向かっているかもしれないぞ?」
ルセテリの言葉が終わるや否や、カイランの剣身がアークの首に向かって飛んでいった。
もちろん、飛んでいっただけだが。
「トイヤァッ!」
カシャーン。
雄叫びのような気合いの声が虚しく響き、カイランの剣が宙をクルクルと飛んでいき、地面にドスッと突き刺さった。
「あまりにも性急すぎると何度言えば分かるのですか?」
「それでも今のはほとんど当たりそうだったじゃないか!」
「あくまで言葉通り『ほとんど』なだけで、全部お見通しだと言ってるでしょう? そんな隙だらけでは、まともにプーと手合わせすることさえできませんよ?」
ああ、あれは結構傷つくだろうな?
ルセテリはアークとカイランの対決を見ながら、のんびりとテーブルを持ち出してきて、ジアと一緒にお茶を飲む時間を楽しんでいるところだった。
パラパラとページをめくりながらジアは読書に夢中で、ルセテリは顎を撫でながらカイランの剣術訓練を見守っていた。
サクッ、サクサクッ。
授業が終わった後、大急ぎで市場からカイランが買ってきたグラブジャムンの中に、ジャレビという薄い小麦粉の生地を油で揚げたお菓子も買ってきていたが、こいつが実に曲者だった。
サクサクしながらもネチッとした食感に、舌がヒリヒリするほどの強烈な甘さで手が止まらない。
「ち、違う! 十分いけるだろ!」
いや、むしろギャーギャーと強情を張っている方が、かえって違うと言いふらしているように見えるんだけど?
ジャレビをボリボリと噛みながら、ルセテリはティーカップを持ち上げてバラ茶を一口、優雅にズズッと飲み込んだ。
やはりこの身震いするほどの強烈な甘さは、ほろ苦く香り高いバラ茶で中和させるのが正解だ。
「どこがですか? これまで一度でも私にまともに剣が届いたことでもありましたか?」
カイランが吠え立てる声に呆れたような顔で、アークが剣を鞘に納めながら舌打ちをした。
その言葉が嘘ではないため、カイランはただ顔を真っ赤にしてフンフンと鼻息を荒くしながら、地面に突き刺さった剣を引き抜くことしかできなかった。
ギリギリの差でかすったことは何度もあっても、決定的な一撃はまだだ。
「分かってる! すぐに追いつけるからな!」
「その言葉も毎回おっしゃっていますが?」
うわあ、憎たらしい。
からかうように鞘に納めた剣を肩に担ぎ、ニヤニヤと笑っているアークの表情に、カイランはなぜかカチンときた。
「違う、もう一回だ!」
「今のままじゃあ、もう一回やったところで変わることはないと思いますがね。それより今日はシェイク様の会議に出席してみる日じゃありませんでしたか?」
「もう?」
アークの言葉を聞いたカイランは、そこでようやく慌ててポケットから懐中時計を取り出した。
「まだ30分くらい残ってるじゃないか」
「少なくとも汗くらいは流してから行くべきでしょう。汗臭い匂いをプンプンさせながらお入りになるおつもりですか?」
「それがどうしたんだよ?」
何も分かっていないというように首を傾げるカイランに向かって、アークは露骨に顔をしかめた。
自分の匂いだから気づかないのだろうが、朝から走り回っていたカイランの体からは、そろそろ思春期特有の体臭が強烈に立ち上っていた。
カイラン、本人だけが気づいていないだけで。
「汚らしいです。少し洗ってきてはいかがですか?」
「ええっ? アークがそんなこと言うなんておかしいだろ? アークだって洗わないのは同じじゃないか?」
「……それは商団の仕事をしている時は洗うのが不便だからそうしているだけでしてね。今はそうではないでしょう? これでも私、毎日汗をかいたら綺麗に洗っていますが?」
瞬く間に自分を洗わない不潔な男にしてしまったカイランに、アークは呆れ果てた。
そう言いながらも、まだもう一回くらい手合わせする時間はあるとでもいうように、剣を構え直す姿勢も全く気に入らなかった。
まるで厄介なものに捕まってしまったというように。
「まだそこで何をされているのですか?」
ちょうど重そうな書類の束を抱えて通りかかったナビルが、眼鏡をカイランに向けてキラリと光らせた。
「まだ時間があるじゃないか。まだまともに体もほぐれてないのに」
不服そうに思い切り眉間を寄せたカイランがブツブツと文句を言ったが、ナビルにそんなワガママが通用するはずが……。
「一時間もやれば十分です。今は会議に出席される時間ですよ」
「30分前じゃないか。それくらい……」
「それくらいではありません。前もって準備する姿勢こそが君主の徳目、事前に読んでおかなければならない書類が山ほどあるのですが?」
一寸の譲歩もないナビルの断固とした態度は、見栄を張って堂々としていたカイランの肩を、瞬く間に水を含んでだらんと垂れ下がった洗濯物も顔負けの状態にしてしまった。
そこまで言われて、理解できないカイランではなかった。
ジアの前でずっとカッコつけたい気持ちは分かるが、良く見られたいなら肉体美じゃなくて知性美を少しアピールしろっての。
ズズッ。
ルセテリは余裕たっぷりにバラ茶を一口含み、分かるような分からないような意味深な笑みを浮かべてみせた。
[ルッ様? 何か勘違いしているようですが、私、知性美だろうが野生美だろうが、最初から全く興味ありませんけど?]
いつの間にか目の前で、ツンとした目でルセテリを睨みつけるジアが近くに寄ってきていた。
[それ、カイランが聞いたら地面を叩いて号泣する言葉だぞ?]
[号泣しようが狂ったように笑おうが、私と何の関係があるんですか?]
分かってないのか、それとも分かってないふりをしているのか?
ルセテリはジアを見つめながら、ゆっくりと瞬きをした。
最近になって感じるのだが、ジアの考えや感情を読むのがだんだん難しくなってきているような気がした。
何を考えているのか、どんな感情なのか表情一つ変わらないので、これが噂に聞く人間の思春期というやつなのか?
「行けばいいだろ、行けば。今行けばいいんだろ?」
ナビルとアークの小言にうんざりしたように文句を言いながらも、カイランは剣を鞘に納めた。
納めながらもチラリとジアの顔色をうかがうのが……こいつめ、密かにジアの反応を気にしていたんだな?
「だから、行かれる前に少し洗ってから行かれませんか? 臭いって言ってるんですよ?」
トボトボと、そのままの状態でナビルの後を追って会議室に入ろうとするカイランの首根っこを、アークがひっつかんで一言浴びせた。
瞬く間にカイランの顔が、よく熟れたトマト(クマト)のように真っ赤に染まった。
「違う!」
「何が違うんですか……今もカイラン若君の強烈な汗の匂いがここまで漂ってきているのですが?」
わざと大げさに、アークは指を洗濯ばさみのようにして鼻をギュッとつまみ、手でパタパタとあおぐ仕草までしてカイランをからかった。
もちろんカイランは、カチンときて怒り狂いそうになっている最中だったし。
「違うってばぁ!」
「……確かに、その状態で会議室にお入りになっては、どこかで化学兵器テロでも起きたのかと思われますよ。軽く水ででも流してこられたらいかがですか?」
カイランが声を張り上げて反論したものの、その努力も虚しくナビルまで一言添えたせいで、ガクッと首をうなだれてしまった。
「洗えばいいんだろ、洗えば……」
蚊よりもさらに小さな声で、カイランはブツブツと呟いた。
よほどジアの前で恥をかかされたのが恥ずかしかったようだ。
トボトボと歩いていく後ろ姿が、なぜか少し可哀想に見えなくもないような?
それでも、去年初めてカイランに会ってテランカナに来た時に比べれば長足の進歩を遂げた。
あのカイランが文句も言わずに会議を見学すると言って自分の足で歩いて入っていくなんて……まさに天地がひっくり返るほどの出来事ではないか。
随分と大きくなったな、うちのカイラン。
それなりに上手く育てたような気がして、ルセテリは誇らしげな眼差しで、ドナドナと屠殺場に引きずられていく鶏のようにトボトボと奥へと消えていくカイランの後ろ姿を見つめていた。
そしてそんなルセテリの姿を、ジアは呆れ果てたように見つめていた。
[罪悪感も湧かないんですか?]
[何の罪悪感?]
[他の人が見たら、ルッ様が全部やったように見えるじゃないですか。肝心のあいつをまともな人間にしたのは私なのに]
口を尖らせてジアが不満そうにルセテリを睨みつけた。
ジアからすれば悔しく思うのも当然で、毎日ルセテリがやったことといえば、ただカイランに市場を案内させて朝、昼、晩とご飯を食べに出歩いただけだったのだから。
逃げ出そうとするあいつを捕まえて机の前に座らせ、本を読ませ、数字を教え、勉強させたのは八割がジアの力だった。
それなのになぜルセテリが誇らしげに座っているんだよ、と。
[それはまあ……一応、お前の保護者が俺だから?]
厚かましさを顔に張り付けたルセテリの答えに、ジアは耳も塞がり鼻も塞がりそう(呆れてものが言えなくなりそう)だった。
骨折り損のくたびれ儲けとは言うが、まさにこのケースのことじゃないか……。
[もういいです、あっちでもどうにかしてください]
ため息混じりの竜言を終えたジアが指差した先には、眼鏡をキラリと光らせたナビルが熱い視線をルセテリに送っていた。
ひえっ……あいつ怖い。




