第139話 密かな提案
ナビルは核心を突くカイランの意外性に答えることも忘れ、ポカンと見つめた。
これまでとは全く違うカイランの姿が新鮮だった。
まさか別の人間がカイランの真似をして座っているのではないかと、ナビルは眼鏡をいじりながら見ても、また見直しても間違いなくカイランだった。
「当然、既存の旧貴族たちの間では、こういう風に家門を買い取った新興貴族たちは目の上のたんこぶでしょうね。すべての対立の発端はここからですよ」
「それが悪いことなのか?」
「悪いというよりは、旧貴族たちの主張では正統性がないというのが大きな理由なんだそうです」
「正統性? それがそんなに重要なのか? 餓死してもいいくらい?」
「私の考えをお聞きになるのでしたら、そうですね……私は実用主義者ですので」
「実……何だって?」
「実用主義、つまりご飯を食べて自分一人が生きていくことが先だということです」
「それは……つまり、お金が一番だってこと?」
「その通りです。もちろんお金がすべてではないでしょうが、それだけ重要な部分を占めています。名誉が私に飯を食わせてくれるわけではありませんからね」
なぜかナビルの答えが理解できるような気もした。
今すぐルセテリを見たって、ご飯と言えば目を輝かせて飛びついてくるじゃないか。
人間である以上、ご飯は生存に直結する重要な問題だ。
カイランが考えてみても、お金を重要視するからといって大きな問題になるようには見えなかった。
「じゃあ旧貴族たちはどうしてお金をそんなに嫌うんだ?」
「お金が嫌いというよりは、死んでも名誉の方が大切だという連中だからだよ」
今度はナビルの代わりにルセテリが前に出て、カイランの疑問に対する答えを出した。
「名誉の方が大切だって? よく理解できないんだけど……」
うーん、カイランには理解するのが少し難しいか?
ルセテリはジアとは違い、十歳の子供の目線でどう説明してやるのが良いか少し迷った。
ジアならこういうこと一々説明する面倒くささをすっ飛ばすだろうにな……。
「うーん……何と言うか。人それぞれ違うだろうが、もしお前の目の前に今すぐ食べられる食料と剣があるとしよう。その剣は仕える君主から下賜された名誉ある勲章のようなものだとすると、二つのうちお前はどっちを選ぶ?」
ルセテリの問いにカイランは簡単に答えを出せず、しばらく言葉を濁した。
確かに簡単に答えられる問題ではない。
誰が正しいか間違っているか判断できない、各自個人の価値観に関わる問題だからだ。
「俺は……分からない。どっちも重要そうに見えるけど、もし今お腹が空いてるなら食料を選ぶような気がする」
「人間だから当然、生存が一番重要な問題ではあるよな。でも旧貴族たちにとっては、生存よりも餓死する羽目になったとしても名誉が重要だと考える部類が大半なんだ。飯は食わなくても、家門の名前を輝かせた歴史を守る方が良いってことさ」
「でも、生きてなきゃ歴史も続けていけないんじゃないか?」
うん、俺もそう思う。
死んで守る名誉なんて、虚しく忘れ去られるのがオチだからな。
「あの融通の利かない連中に、実利なんて概念があるわけないだろ。自分たちが考える価値以外はすべてゴミだと思ってる人間たちなんだから」
「それじゃあ……当然、身分をお金で買った新興貴族たちが気に入らないだろうな」
「その通り。対立はまさにその部分から始まるのさ」
大正解だ。
予想以上に満足のいく答えを導き出したカイランが、誇らしくさえ見えた。
もちろん、ジアのレベルに達するにはまだまだ遠い話だろうが、少し前まで九九の一つもまともに覚えられなかったことを考えれば、長足の進歩じゃないか?
「その通りです。その対立は再び新たな対立を生み出します」
説明を静かに聞いていたナビルまでもが、ルセテリの意見に同意するように手で顎を支えたまま、熱心に頷いた。
「そしてそれが積み重なっていくと……どうなるかな?」
「何の爆弾だよ? 爆発するって」
「爆弾だよ。それもいつ爆発するか分からない時限爆弾」
カイランの答えを聞いて、これまで大人しく口を閉ざしていたジアが堪えきれなくなったのか、一言口を挟みながら前に出た。
なぜか低く冷ややかな声に、カイランは不吉なものを感じた。
「時限爆弾だって? じゃあもうすぐ帝国内で大事件が起きるってことか?」
「この対立問題が解決されなければ、そうなるかもね?」
「何だよそれ」
「何って、変化する時代の流れに帝国がついていけていないってことよ。今の世の中がどの時代だって言うのに、未だに名誉だの名前だのそんな虚飾にこだわっていること自体が時代遅れだってことなのよ、若君」
呆れているカイランに向かって、アークが目をキラキラと輝かせていた。
まるで美味しそうな獲物を見つけた一羽の鷲のような眼差しだった。
「新興貴族だけではありません。一般市民たちもまた同じです。領地に縛られて農業ばかりしていた状態から抜け出し、商売をしてお金を稼ぐということがどういうことなのかという概念について、目覚め始めたんですよ」
「え? それって市場だか何だかっていうやつじゃないのか?」
順調だったのに急に方言が出た(急にバカになった)わけでもなく、わずか数日前に教えてやった市場経済という用語を忘れるとは……。
ルセテリは手で額を押さえた。
それでもここまで頭を回したのなら、カイランにしては努力した方だ。
その部分は褒めてやらなきゃ……。
コツン。
「市場経済。つい数日前にル先生から教わったばかりなのに、そんなにすぐ忘れてどうするのよ?」
頼もしいジアがルセテリに代わって、カイランの頭を軽く小突いた。
力もこもっていなかったし何でもなかったが、ジアからゲンコツを食らったのが悔しかったようだ。
頭を抱え込みながらカイランの口がツンと尖った。
「口に馴染まないんだからどうしようもないだろ。俺なりに努力してる最中なのに」
「そうね、そうは見えないけど。それで?」
「ちょっとド忘れしただけだよ。すぐに思い出せるところだったんだからな」
情けないというように腰に手まで当てたまま、拳を握りしめた手を振り上げたジアを避けようと体をビクッとさせるカイランだったが、自分でも避けられないその拳をカイランごときが避けられるはずがない。
「その通りです。そうやって次第に不満を抱く市民たちは増えていくものですよ。それでなんですが……」
突然ナビルが声を潜め、密かに囁いた。
「お二人はもしかして、帝国市民解放軍にお入りになるおつもりはありませんか?」
「市民解放軍?」
ラバンダ家が先頭に立った独立連合は聞いたことがあっても、市民解放軍という言葉は初めてだが?
一瞬、鋭いルセテリの眼差しがナビルとアークの二人を素早く上から下まで見定めた。
公国民である二人が帝国市民のためになるというのは矛盾していたし。
ルセテリとしては十分に疑うに足る状況だった。
「お気づきかと思いますが、農場をご覧になられましたよね? 大半の農場民たちは、帝国から流れ込んできた領地民たちです」
大半どころか、ほぼ全員……ではないかという気はするがな。
ナビルとアークがあんな風に慎重に言葉を選ぶのには理由があるのだろう。
「今は彼らが良い環境でしっかり食べて人間らしく暮らしていますが、まだ帝国には彼らの家族が残っています。彼らにも教えてやりたいのですよ。自分たちは犬や豚のような獣以下の存在ではなく、皆人間扱いを受けて生きていく価値がある存在だという事実をです」
「ん? どういうことだ? 人間がどうして家畜より扱いが悪いなんてことがあり得るんだ?」
不意に飛び出したカイランの質問に、ナビルは苦笑いを浮かべた。
どうやらまだ小さな自国の君主は、汚い世の中の裏側までは見たことがないようだ。
世の中にはせめて家畜扱いでもされる人々と、それ以下の家畜扱いすらされない人間が腐るほど(山ほど)いるという事実を。
比較的公国では基本的にすべての民が平等に最低限の人間扱いを受けて生きていけるため、まだ視野が広くパッと開けてはいないようだった。
「誰もが公国と同じではありませんからね」
「じゃあ一体どんな生活だって言うんだ?」
カイランには簡単に想像できなかった。
家畜以下の生活……今にも崩れそうなボロ小屋で粗末な服を着てうろついているような人々しか頭に思い描けなかった。
「帝国で一番底辺にいる人たちの境遇は、お前が想像する以上の悲惨さだよ」
スラム街のバラック小屋で薬師をやっていたルセテリは、貧民街の生活がどんなものか痛いほどよく知っていた。
ましてやまだ都市は皇帝の目があるため、最悪とまではいかなかった。
一部の領地の中には、泥水(クソ水)をかぶって生きる方がはるかにマシだという噂が飛び交うほど最悪な場所も多いと、頻繁に耳にするほどだった。
泥水だなんて……それはもう人間じゃなかった。
いやむしろ、家畜の方が人間より良い扱いを受けているということと同じだ。
そして帝国は今、その危うさの上でギリギリ持ちこたえているし。
「分からないよ。それ以上の悲惨さだなんて……」
「若君が分からないのも無理はありませんよ。プレシア商団が出入りする場所は、それでも我々のおかげで事情が良くなった方ですから」
良くなったってことは、その前はどうだったってことだよ?
簡単に想像できないというように、カイランはポカンと口を開けたまましばらく動けなかった。
そんなカイランをじっと見つめながら、ルセテリがゆっくりと口を開いた。
「お前の頭の中には常に、お前が見る以上の良いことも、そして最悪の状況よりもさらに悪い状況もあるということを覚えておくべきだな」




