第137話 予想された誤差の範囲内
テランカナへ戻る馬車の中は、やけに静かだった。
普段なら一刻も休まずに喋り続けていたはずのカイランでさえ、周囲の顔色をうかがうのに忙しく、ただ静かだった。
「あの……」
「はい、カイラン様」
爽やかな笑みを浮かべるナビルが、なぜか恐ろしくてたまらない。
「いや、ごめん。瞬間的にカッとなって我慢できなかったんだ」
思い切り肩をすくめたカイランが、珍しく消え入るような声で謝罪した。
「誰が何か言いましたか?」
「いや、ただ……」
「結構です。どうせ会談がまともに進まないことくらいは予想していたことですから」
ナビルの笑みが深くなればなるほど、馬車の中の温度はなぜか1度ずつポタポタと下がっていくようだった。
「どうしたのですか、問題でも起こしたとでも?」
「い、いや、そうじゃない……ですけど」
返答に少し言葉を濁しながら、カイランはらしくもなくナビルの顔色を思い切りうかがっていた。
帝国の皇女、つまりジアと結婚するという言葉に、思わず血が逆流して理性を失ってしまった。
適当に相手をしなければならないことは分かっていたが、我に返ってみると目の前には無様な姿でおもらしをしているジェレミアが伸びており、カイランはその時になって初めて『しまった』と思ったのだ。
その直後に続いた帝国との会談が決裂したことで、カイランの罪悪感は一層強まった。
いくらカイランでも、それが何を意味するのかくらいは分かっていた。
結局のところは、戦・争、ということだ。
「……そんなに顔色をうかがう必要はありませんよ。ある程度は予想していたことでもありますし。一方では胸がすーっとしましたからね?」
アークがカイランに向かって人差し指を立てながら、ニヤリと笑ってみせた。
「え?」
「若君じゃなくても、誰か前に出て思い切り殴ってやりたいと思ってたはずですよ?」
アークの言葉に全面的に同意することはできなかったが、ナビルもまた帝国側の露骨な無視に、何度となく怒りを鎮めなければならなかった。
特に堂々と公国を見下すような発言を繰り返す小公子という奴は、口を開くたびに一度ガツンと殴ってやりたくなるほどだったからだ。
「ある程度、帝国側から送られてきた会談出席者の名簿を見て、シェイク様も予想されていたことでもあります。カイラン様が責任を感じられる必要はありませんよ」
「その通りだ。若君のせいで戦争が起きるだなんて……そんな無駄なことは考えちゃいけない」
アークとナビルの説明にも、カイランの気はなかなか晴れないのか、しょんぼりしたひよこのように静かだった。
それだけ、戦争という単語が与える重圧感がカイランを押し潰していたのだ。
チラリと、静かに馬車に乗っていたルセテリが閉じていた片目を開け、カイランの状態を観察した。
[まあ、お前が出なくても俺が出て、あの丸々と太った尻を力一杯蹴っ飛ばしてやりたかったところだがな]
おお……耳がピクッと動いた(興味を引かれた)?
[悪くなかったぞ]
ルセテリの竜言の一言に、うなだれていたカイランの口元に笑みがスッと広がった。
[だからってよくやったってわけじゃないがな]
再び、首がガクッと……。
[私も……ちょっと、スカッとしたわ]
今度はジアの竜言に、ニッコリと……。
[聞いてるだけじゃあまりにも腹が立ってきたからね……。でも、少なくとも会談中だったんだから、少しは自制した方がよかったかもしれないけど……]
[確かに、最後におもらしまでさせたのはちょっとやりすぎだったな]
二人が代わる代わるカイランを持ち上げたり落としたりして、すっかり翻弄していた。
おかげで今カイランは、熱湯と冷水を行ったり来たりするサウナの中にいる気分だった。
「悪かったよ……」
なぜか少し元気が戻ったように見えたカイランが、干からびた草のように再びぐったりと萎れるのが不思議だったナビルは、怪訝な目でカイランを見た。
「何かありましたか?」
「いや……別に何でもないです」
別に何でもないわけじゃないだろ?
ナビルが首を傾げた。
普段ならピョンピョン飛び跳ねて大騒ぎしていただろうに、大人しいのが不思議だった。
「普段と違ってもあまりにも違いすぎませんか?」
「お、俺が何か?」
カイランがムッとして声を荒げようとしたが、ビクッとして誰かの顔色をうかがい、再び首をすくめた。
そんな場面を、目端の利くナビルが見逃すはずがなかった。
「そういえば……」
何かを思い出したように、ナビルが腕を組んだ手の人差し指でトントンと頬を叩いた。
「やけに帝国の皇女の話に過剰反応されていたようですが、もしかして何かご存知のことでも?」
「そ、そんなわけないだろ! 見たこともないのに……」
「ふむ、そ〜うですか??」
「ただ話し方がムカつくじゃないか。皇女と結婚さえすれば何でもできるみたいに言うのが」
再び思い出すだけでもカッと怒りが込み上げてきたカイランが、席からガバッと立ち上がろうとした。
しかし、ジアの強烈に睨みつける視線に気づき、キャンと尻尾を巻いてそっと中腰のままお尻をクッションに戻した。
「自分の手では何一つまともにやったこともないくせに……」
ブツブツとこぼすようなジアの呟きに、瞬く間に馬車の中が水を打ったように静まり返った。
キョロキョロとカイランの目が動く音だけが聞こえるようだった。
「そういえば……ル先生とプーは帝国でアウレリア小公子を見たことがありますか?」
さすがナビル、小さな手がかり一つ見逃さないその繊細さたるや。
「遠くから一度だけ見たことはありましたよ。スラム街で薬師をやっていた時、皇女殿下の生誕祭に流浪劇団を呼ぶと言って来たことがあったんです」
密かにジェレミアの言葉に終始低血圧(機嫌が悪かった)だったジアの顔色をうかがいながら、ルセテリは別の言葉が出る前に急いで答えた。
もちろんルセテリもまた、気持ちとしてはその場でジェレミアの息の根を半分くらい止めてやりたい気持ちでいっぱいだった。
身の程知らずに誰を狙ってるって?
思い出すだけでもブレスを一杯浴びせてやりたくなった。
「皇女の生誕祭に流浪劇団をですか?」
「ええ、まあ……まだお若い殿下のレベルに合わせるとか言って、恩着せがましくしていたことといったら」
ナビルが考えても呆れたのか、口を開けたままパクパクとさせて言葉を継げなかった。
そうだろう、いくらなんでも皇室の宴に流浪劇団とはどういうことだ……。
「あまりにもスラム街でもその件で恨みの声が絶えませんでしたからね、ハハ」
それ以外にも語るエピソードはたくさんあったが、いちいち話したところで口が疲れるだけだ。
ナビルもバカではないのだから、それくらいの情報力は持っているだろうしよく知っているはずだ。
だから今回の会談にカイランも参加させたんじゃないのか?
「今回の会談、すでに破談になるだろうと予想していたんじゃないですか?」
ルセテリの質問に、ナビルとアークが互いの顔を見合わせ、意味深な笑みを浮かべた。
「それなりに帝国側では頭を使ってどうにか避けようとはしていたみたいですがね」
「あれのどこが? ただ言い張ればすべて通ると思っているようだったが」
「まあ、思った以上に図々しかったから事がスムーズに進んだよ」
ナビルとアークの会話を聞いているうちに、ルセテリは何かおかしいと感じた。
ん? まるで戦争を望んでいたかのようなこの雰囲気は何だ?
「ああ、そうだ。ル先生とプーに話すのをすっかり忘れていましたよ」
白々しく今思い出したというように、手のひらに拳をポンと打ちつけてナビルが口を開いた。
「ずっと前から我々が準備してきていることがあるんですよ」
急に周囲をうかがうナビルの声が低くなった。
つられてルセテリも慎重に体をナビルの方へ屈めた。
「こと、ですか?」
「帝国のあちこちを回られたのならご存知ではありませんか。帝国の貴族たちに対する市民たちの不満がどれほど激しいか」
答える代わりに、ルセテリは頷いた。
「帝国の貴族たちは変化を恐れます。もしかするとご存知ないかもしれませんが、今帝国で最も活発に売り買いされているものが何かお分かりですか?」
「ピスタチャ……?」
途中で空気を読まずに割って入ったカイランの戯言に、一瞬馬車の中に静寂が漂い、全員の視線が冷たく集まった。
堪えきれなくなったジアがカイランの後頭部を引っぱたいた。
かなり強く引っぱたかれたのか、涙目を浮かべたカイランが手で頭を抱え込み、悔しそうにジアを振り返った。
「……なわけないだろ!」
「今帝国で一番ホットな物はピスタチャじゃなかったのか?」
「少しは空気読みなさいよ。こういう場合、そんな物なわけないでしょ」
腰に手を当てたジアが、大きなため息をついた。
やっと少しはまともに頭も回るようになったかと思いきや、すぐ元通り……。
3秒しか記憶がもたない金魚じゃあるまいし。
「もちろん、ピスタチャも帝国で最も人気のある品物ではありますが……」
大きく息を吸い込んだナビルが、カイランのために落ち着いて説明を続けた。
「帝国の中央貴族まではいかずとも、辺境にいる貴族たちは現在深刻な資金難にあえいでいる家門が後を絶ちません。家財を売り払っても身分を維持するどころか、農民以下の暮らしをしている貴族たちも多いのです」
「どうして?」
「まあ、大きく二つの分類に分けられるでしょう。一つは身の丈に合わない贅沢を繰り返す場合、そしてもう一つは……」
説明の途中、ナビルはジアに視線を向けた。
「……高い税金のせいですね」
「その通りです。ただでさえ凶作で不作だというのに、それに加えて中央では毎回税率を上げてばかりいるので、耐え難くなっているのです」
「え? 凶作の時は税金を減免してくれるんじゃないのか?」
カイランは理解できないというように眉間をひそめた。
「それはあくまで常識ではそうだってことさ。聞くところによると、最近帝国の財政にアウレリア公爵が首を突っ込んでから状況が悪化したと聞いた。それでも皇帝が健在だった頃は、皇帝が阻止して最悪の事態にまでは至らなかったが……」
ナビルが言葉を濁すと、目を閉じてじっと聞いていたルセテリが静かに口を開いた。
「その皇帝が最近行方不明だという話だが?」
馬車の中の空気が重く沈み込み、ナビルの表情が瞬く間に硬直した。
ルセテリのその一言は、馬車の中の全員を巨大な台風の目の中へと突き落とした。




