第136話 決裂
ドサッ。
「ヒィィッ!」
練武場の硬い石畳に無様な格好で尻餅をつきながら転んだジェレミアの目の前で、剣先がキラリと光った。
すでにジェレミアが持っていた剣は、はるか彼方に飛んでいって久しかった。
正確に急所を狙って突いてくるカイランの鋭い剣撃に後ずさりしようとして、自分の足にもつれて転んだのだ。
「カイランの勝ち!」
「ひ、卑怯だ! 剣も持っていない相手に攻撃を仕掛けてくるなんて!」
審判を務めていたアークの判定に不服なジェレミアが、すかさず叫んだ。
剣を持っていようがいまいが、そう大きな違いはないように見えるが。
「じゃあ剣を持ってやり直してみるか?」
ジェレミアに向けていた剣を収め、肩に担いだカイランがジェレミアをじっと見下ろした。
なんだこれ、朝起きて練武場を一周することもできないままナビルに首根っこを掴まれてズルズル引きずられていくよりもひどい。
全く体をほぐす前に終わってしまった勝敗に、カイランはすっかり拍子抜けしてしまった。
「うっ……」
ただでさえ薄っぺらかったプライドまで無惨に打ち砕かれたジェレミアは、自分の前に立ちはだかるカイランを睨みつけた。
帝国では誰もが自分に向かって剣術の天才だと持ち上げてくれていた。
誰一人として自分と剣を交えようとさえ思わなかったというのに……。
唇をギリギリと噛み締めながら、ジェレミアはとっくに遠くへ弾き飛ばされた剣を横目で睨んだ。
間違いなく剣に問題があったのだろう。
そうでなければ負けるはずがないじゃないか。
「別の剣を持ってこい!」
「はあ? 剣を替えたら何が変わるんだよ?」
「貴様がその剣にどんな細工をしたか分かったもんじゃないからな!」
弘法筆を選ばずと言うが、なんだこれ、思い通りにいかないからってすぐに剣のせいにするとは。
カイランから見れば、剣を何百回替えようと結果が変わるようには思えなかったが。
「まあ、好きにしろよ。準備運動くらいにはなるだろ」
シラけた表情でカイランが言い終えると、何人かが堪えきれずに笑いを吹き出した。
全員公国側の騎士たちだった。
顔が熱くなったジェレミアは声を荒げた。
「剣を持て! 早く!」
ジェレミアの怒声にアングロ子爵がこそこそとどこかから剣を持ってきた。
一見しただけでも、蔓草の模様が浮き彫りにされた柄が非常に華やかな剣だった。
こんな決闘などに使われるものではなく、どこかの貴族の家の応接室にでも飾ってありそうな芸術品の登場に、カイランの眉間がひそめられた。
「そんなもんでかかってくるのか?」
「そんなもんとは何だ! 畏れ多くもラピエラ職人の剣を前にしてそのような戯言をほざくとは! 剣を見る目がないな!」
「……ラピエラ? 誰だよ、それ?」
再び公国の騎士たちの間からクスクスと笑い声が漏れたが、カイランの知ったことではなかった。
聞いたことも見たこともない名匠の剣という言葉に、プッと笑いが耳にかかるだけだった。
「名匠ラファエラも知らないとは。やはり未開な小国らしいな!」
「ラファエラだかラジャナだか知らないが、かかってくるならさっさとかかってこい。時間を引き延ばすな」
侮辱されたと思ったのか、ジェレミアの耳たぶが真っ赤に染まった。
アングロ子爵が差し出す剣を受け取ったジェレミアがウンウンと唸りながら重いお尻を床から持ち上げ、両手で剣を握りしめた。
「帝国の剣術がどういうものか、しっかりと見せてやる」
カイランはトロンとした目で構えをとったジェレミアを見た。
どう見ても中心をしっかりと保つどころかフラフラしている格好が、今すぐ蹴り一発でひっくり返って吹っ飛びそうに見えるのに、何が帝国の剣術だ?
「ああ、一度しっかり見せてみろよ」
相変わらずカイランはまともに構えもとらず、剣は肩に乗せたまま大あくびを連発していた。
隙だと思ったのか、ジェレミアが目を輝かせながらカイランに向かって飛びかかった。
ジェレミア本人が思うには、かなり素早い身のこなしだと自負しているようだったが、実態はと言うと……。
ドカッ! ボカッ!
よちよち歩きのアヒルどころか、亀が走ってくるような速度でぶつかってきては、やけくそでむやみやたらに剣を振り回せば……。
「グエッ! や、やめろ! やめろ!」
本当にカイランは指一本動かさなかった。
自分から走ってきて勝手につんのめってスライディングしたくせに、手を出すなと言う。
この広くて(ボコボコに)アイロンがけするのにピッタリな広い背中を目の前にして、なんで俺が?
少なくとも刃じゃなくて峰で叩いてやってるじゃないか?
一生懸命カイランはジェレミアの広い背中を叩きまくり、蹴りはおまけだった。
剣術もクソもなく、市場の喧嘩どころか一方的なリンチに他ならなかった。
「こ、降参!」
結局、目や鼻の穴に埃と涙、そしてよだれまみれになって無惨な顔になったジェレミアが降参を叫んだ。
手で急いで床をタップして(叩いて)から、ようやくカイランは剣を止めた。
「降参って言っておいて、またかかってくる気か?」
「ち、違う! 今回は本当に違う!」
ジェレミアの丸々と太ったお尻に最後にもう一発蹴りを入れてから、ようやくカイランは一方的なリンチをやめた。
今回は動いた手応えもなかなかで、体をほぐすにはちょうどよかった。
「これから俺の前で一度でも帝国の未来がどうだの、皇女がどうだの言ってみろ。ガッ! その口を両脇に引き裂いてやるからな」
「ヒック」
あまりにも殺伐とした気迫で脅すものだから、後ろでのんびりと泥仕合を楽しんでいたルセテリが、もしかして気の弱いジェレミアが小便でも漏らしているんじゃないかと心配になるほどだった。
「おい、分かったら返事」
「う、うぇぇん……」
「おや? 泣けば何でも解決すると思ってんのか? 返事しろって」
「ヒック、わ、わかった」
「ピーピー泣かずにちゃんと返事しろよ?」
ジェレミアの背中を足で踏みつけ、髪の毛を掴んだカイランの殺伐とした脅迫に、ルロア伯爵とアングロ子爵は仰天して抗議し始めた。
「こ、これは帝国への冒涜だ!」
「冒涜? どこがですか?」
わざと何も知らないというように腕を組み、しらばっくれているナビルが、怒ってフンフンと鼻息を荒くしているルロア伯爵に向かって無関心な様子で一言ポツンと投げかけた。
「いくら幼いとはいえ、帝国の小公子だぞ!」
「だから何ですか?」
「会談に特使の資格で参加した以上、このような犬……いや、根も葉もない喧嘩は冒涜ではないか!」
確かに、騎士の礼儀もクソもない喧嘩ではあった。
伯爵の言葉にルセテリは頷いて納得した。
一方的にボコボコにされたのがジェレミアだというのが問題ではあるが、それは自業自得じゃないのか?
「いや、根本を論じる前に、最も基本的な剣の構えすらとれないそちらの公子様の責任ではないでしょうか?」
「何だと?」
ブツブツと文句を並べ立てたアークの言葉が、伯爵の神経をかなり逆撫でしたのか、伯爵の口からは金切り声が飛び出した。
「そうでしょう? 何かまともにやってみたくても、そちらがすでにめちゃくちゃな状態で飛びかかってくるのに、どうしろと? 豚が口に剣をくわえてブーブー飛びかかってきても、あれよりはマシですよ」
「ブフッ!」
公国の騎士たちの間で堪えていた笑いが、ついに堰を切ったように溢れ出した。
[容赦ないですね、アーク様]
アークの直説的な物言いが帝国側には気に入らないかもしれないが、ジアはつかえていた胸がスッと通るように爽快だった。
[ククク、容赦ないだなんて……ただ事実を言ったまでだろ]
[確かに、私が見ても通りすがりの乞食に剣を投げてかかってこいと言っても、あれよりは上手くやりますよ。あれのどこが帝国最高ですか]
どう見ても甘やかされて、チヤホヤと持ち上げられて育ったのが見え見えだった。
当然、ジェレミアがまともな騎士教育を受けたはずがない。
ただでさえ少ない練習時間に、取り巻きを引き連れて問題ばかり起こして回っていたのは火を見るより明らかだった。
同じように授業をサボっていたカイランは、それでも剣術の練習だけは欠かさずきっちりとこなし、決定的なのはカイランが市場で転がり回って実戦に明るいということが違うと言えば違うだろうか。
同じ放蕩息子でも、カイランとジェレミアは天と地ほどレベルが違った。
「決裂だ! この会談はなかったことにする!」
堪えきれなくなったルロア伯爵がギャーッと叫んだ。
「あ、そうですか? とでも言うと思いましたか? 望むところです」
「何だと?」
「計算がうまくできないようですが、我々としては損することは一ベラもないのですよ」
「畏れ多くも公国ごときが……!」
「ええ、その畏れ多い公国ごときが、帝国の全般的な流通網を握っているという事実をお忘れのようですが?」
「イーッ!」
伯爵の真っ赤になった顔が、すべてを物語っていた。
この場で口喧嘩でナビルに勝てるのは、ルセテリくらいのものか?
理屈で理路整然と詰め寄るナビルに、理性を失って正気ではない伯爵が飛びかかるには力不足だ。
歯を食いしばった伯爵の両頬がピクピクと動いた。
「我々は構いません。謝罪など受け取っても受け取らなくてもどちらでもいいですし。ピスタチャを盗もうとして捕まった帝国軍、いや、帝国人か……とにかく公国法に従って処罰すれば済むことです。まだ何か言いたいことはありますか?」
指を一つ一つ折りながらナビルが伯爵に理由を並べ立てると、伯爵は苦虫を噛み潰したような顔に歪んだ。
伯爵も分かっているのだろう。
今の破綻がどんな結果をもたらすのか……。
それでも一度吐いた言葉は飲み込むことはできないのだ。
「それに、今のこの犬……いや決闘は、間違いなくそちらの小公子様が先に申し込まれたものです。責任はしっかりと取っていただきますよ」
反論する言葉を失った伯爵は、未だに床に座り込んでピーピー泣いているジェレミアをじっと見つめた。
剣術の訓練もまともにしないのを知っていながら持ち上げてやったから、調子に乗っているのは知っていた。
まさかこれほどまでとは思わなかったのだ。
伯爵は大きく息を吸い込んだ。
「よかろう。戦争だ」
結果がどうなろうと、もはや避けることはできなかった。




