第135話 盤はひっくり返すために存在するもの
「では決まりですね。この会談はここで終了です」
あまりにも過熱していく雰囲気に、カイランが前に出た。
どう考えても、この場で一番理性的でまともなのは自分だと思ったからだ。
顔は笑っているものの頭に角が生えている(怒り心頭の)ナビルや、すでに怒りでメラメラと燃え上がっているアーク、存在感はないが後ろで手におやつを持って『最高の見世物観戦モード』に入っているルセテリが、自ら乗り出して止めてくれそうにはなかった。
むしろ喧嘩をけしかけるならまだしも、絶対に引き下がるような連中ではなかった。
何よりも対話のための会談である以上、収拾をつけるためにカイランが前に出たのだ。
「フン! 自分がビビッてるから逃げるんだろ? 身の程を知れよ、どこの馬の骨とも分からない奴らが調子に乗りやがって」
そう、ジェレミアのあの生意気な暴言さえなければの話だが!
カイランもさすがにこの言葉にはカチンとこざるを得なかった。
「ハッ! 誰が誰に? あのへなちょこな騎士のチンピラどもが、うちの公国の騎士たちに? 筋の通ったことを言えよな」
「何だと? へなちょこ? チンピラ? 畏れ多くも公国のような小国ごときが帝国を……!」
カイランの挑発にジェレミアはカッとなり、今にも飛びかからんばかりの勢いだった。
その身の程知らずな虚勢に、カイランは呆れてものが言えず、心臓が爆発しそうだった。
男ならこういう時、正面からやり返すくらいできなきゃな!
「体がデカけりゃいいってもんじゃないだろ、中身が詰まっててこそ本物って言うんだよ」
タンク(壁役)キャラだとばかり思っていたカイランが、口実(口喧嘩)でジェレミアを圧倒した。
まさか中身がすり替わったとか、そういうわけではないだろうが……。
その間に随分と成長したな、カイラン。
人知れずルセテリが、そっと目元を流れる一粒の涙を拭うような仕草を、ジアは見逃さなかった。
[ルッ様、それわざとらしすぎませんか?]
ジアは不満そうな顔でルセテリの目元をじっと凝視した。
涙はおろか湿り気すら見当たらない、サラサラの目元を。
[な、何が?]
[何がって? それ、わざわざやる必要あるんですか?]
ジアの指が、涙を拭うようなルセテリの手を指差した。
どう考えても無駄な行動だった。
特に、ルセテリがカイランの成長を喜んで涙を流すなどあり得ないし、想像もつかない。
だからジアの目には、その姿が演技しているように映るしかなかった。
[弟子の成長を師匠として当然喜んでやらなきゃだろ]
[……まるでルッ様が全部教えたみたいに言いますね?]
ギクッ。
ドラゴンハートの片隅がチクッと痛んだ。
他の人間が言う分には全く何ともないのに、どうしてジアに指摘されると痛むんだろうな。
今度ソラレティ様に会ったら、一度相談でもしてみなきゃならないか。
そこまで思い浮かべたルセテリは、首を横に振ってその考えを振り払った。
ソラレティ様に悩み相談だなんて……とんでもない話だ。
「畏れ多くも帝国を導く僕に向かって、そのような不遜な態度とは! 跪け!」
「はあ? 跪け? なんで俺が?」
「当然だろ! お前ごときが僕と同等だとでも思ってるのか? 将来僕の下で働くことになる小物のくせに!」
小物(小人輩)って、そういう意味でも使われる言葉だったのか?
カイランの頭でも、ジェレミアの強引な理屈は理解しがたかった。
毎日ジアに理屈でボコボコにされていたことで鍛えられたのか、前後の見境もない幼稚な言葉には首を傾げるしかなかった。
ますます話が通じないと感じたのか、ジェレミアは神経質そうに席からガバッと立ち上がり、手袋を脱いでカイランの顔に狙いを定めて投げつけた。
手袋はカイランに届く前に力が足りなかったのか、床にボトッと落ちた。
「ええいっ! 決闘だ! 剣でお前のその生意気な尻に火をつけてやる!」
ジェレミアは角の生えた仔馬のようにピョンピョンと跳ね回ったが、さて……。
どこからどう見ても鍛え上げられた筋肉体型のカイランと、関節すら見えないほどのぶよぶよの脂肪を全身に纏ったジェレミアの勝率を比較してみることすら時間の無駄であるほど、結果は見なくても火を見るより明らかだった。
外見だけでも圧倒的な差の勝敗が目に見えているのに、あえて? という疑問が全員の頭をよぎったが、誰一人として口を開いて親切にその事実をジェレミアに教えてやる者はいなかった。
あんな風に前後不覚に暴れ回っている奴に言ったところで、自分の口が疲れるだけだということをみんなよく分かっているからだ。
ここまで来て面倒な喧嘩は避けたいのだ。
「決闘? サンドバッグじゃなくて?」
ジェレミアを見下ろすカイランの目が細くなり、ついに堪えきれなくなったようにプッ、と唇の間から嘲笑が漏れ出た。
その露骨な蔑視に目を血走らせたジェレミアが、勢いよくカイランに向かって飛びかかったが……。
「おっと? 何か豚が一匹ブーブー言いながら走ってきたかと思ったよ?」
巨体でドシドシと走ってくるジェレミアを避け、カイランはスッと横に避けた。
たったそれだけで見事に足がもつれたジェレミアは、バランスを崩して前のめりに転んだ。
「卑怯だぞ! お前も騎士なら正々堂々と勝負を受けろ!」
「ブッ!」
顔を真っ赤にしてキーキーと叫ぶジェレミアの姿に、ルセテリはついに堪えきれずに爆笑してしまった。
静かな会談場の中をいっぱいに満たしたルセテリの笑い声に、全員の視線がルセテリとジアへと集まった。
特にルロア伯爵とアングロ子爵の視線は非常に不遜極まりなかったが、気にするルセテリではなかった。
「プハハハハ! クククク!」
一度始まった爆笑は、なかなか止む気配がなかった。
転んだジェレミアがウンウンと唸りながらようやく立ち上がるまで、ルセテリの笑いは続いた。
「おい、この野郎! お前何なんだ!」
フンフンと鼻息を荒くし、真っ赤に染まった顔でルセテリに向かって走ってくるジェレミアは、本当にカイランの言う通りピンクの豚だった。
その姿に、再びルセテリは笑いがドカンと弾けてしまった。
「ククッ、その例え本当にピッタリだな。まさにその通りだ」
「何だと? この卑しい奴め!」
その短い足でピョンピョン飛び跳ねながら、届きもしないルセテリの胸ぐらを掴もうと足掻かなくても、十分に笑えるってのに。
「無礼者! 畏れ多くも貴様らごときが口にして良いようなお方ではない!」
遅れてアングロ子爵が我に返り事態の収拾に乗り出したが、お腹を抱えて大爆笑するルセテリを止める者は誰もいなかった。
なぜかって?
ジェレミア本人は気づいていないようだったが、今会談場の中にいる全員が、吹き出しそうになる笑いを必死にこらえるために様々な顔面筋肉を使うのに大忙しだったからだ。
それでもルロア伯爵やアングロ子爵がどうにか正気を取り戻し、ルセテリに飛びかかろうとするジェレミアを力ずくで止めていた。
「貴様! 帝国人だな!」
ルロア伯爵が青筋を立てた目でルセテリを恐ろしく睨みつけ、やがて怒りに満ちた声で怒鳴りつけた。
「だから何ですか?」
「何だと?」
「私は今、ここ公国側の代表として出席しているのですが?」
ルセテリは両肩をすくめてみせた。
まるで『だから何だ』と言わんばかりのそのジェスチャーは、ルロア伯爵の血圧を上昇させるのに十分すぎるほどの厚かましさだった。
「畏れ多くも平民ごときが、帝国の公子を笑うだと?」
「ですから。私は今、帝国ではなく公国側の使節ですが?」
平然としたルセテリの態度は、ルロア伯爵の首の後ろをカチコチにするのに十二分だった。
帝国民の身分で公国側の代表として出席しているのなら、帝国民である伯爵が手を出すことはできなかった。
抗議くらいはどうにかできるかもしれないが、伯爵が勝手に処罰することはできなかったのだ。
伯爵の立場からすれば、生意気なルセテリの態度が癪に障ったが、他に打つ手はなかった。
ただ罪のない伯爵の歯だけがギリギリと鳴った。
「決闘だ! 畏れ多くも僕が直接貴様らの性根を叩き直してやることを光栄に思え! その口から助けてくれという言葉が出るまで、徹底的にボコボコにしてやる!」
フンフンと鼻息を荒くし、なかなか怒りが収まらないジェレミアがルセテリとカイランに向かって指を差し、唾まで飛ばしながら興奮した。
誰が誰をしつけるって?
ルセテリは、ここまで悪あがきをするジェレミアが滑稽を通り越して哀れに思えてくるほどだった。
「今、誰が誰に教えるって言った?」
「当然貴様らだ! 畏れ多くも帝国の未来に歯向かうとは、いい度胸だな」
「帝国の未来? 随分と都合のいい夢を見てるんだな」
カイランが冷ややかな目でジェレミアを無言で侮蔑した。
名ばかりでも皇室の名前があるというのに、自分が帝国の後継者だと吹聴して回っている様が滑稽だったからだ。
「いつから帝国皇室の名前がアルメニアからアウレリアに変わったんだ?」
骨身に染みる(痛いところを突く)カイランの一言は、ジェレミアの顔色を土気色に変えた。
「そ、そ、何の冗談ですか、公子」
慌てた伯爵が青ざめた顔でジェレミアの前に立ちはだかり、万が一に備えてジェレミアの口を塞いだ。
「皇室に子孫がいないわけでもないのに、アウレリア公爵家の小公爵が帝国の後継者だと吹聴するなんて……おかしくありませんか?」
カイランの後ろに立っていたアークとナビルでさえも、カイランの言葉に同意するように頷いた。
敵陣で口にするには危険な発言だった。
「や、やがて皇女と結婚する仲なのだから、間違った言葉でもないだろう!」
いくらジェレミアといえども、今回ばかりは失敗を認めるように努めて冷や汗を流しながら言い訳してはいたが、さて……。
[えっ……! 嫌よ!]
即座にジアは嫌悪感を露わにして飛び上がった。
俺でも嫌だわ、あんな豚。
いや、ただの豚なら可愛いか、人間の食料にでもなってくれるけど……あれはただの公害だ。
「よし! やろう、決闘!」
なぜか怒りに満ちた顔のカイランが腰に差した月刀を抜き放ち、ジェレミアに向けた。
「勝った方が先に謝ることにしようぜ」
これまで見たこともなかったカイランの毒気を含んだ殺伐とした気迫に、ジェレミアはビクッと体を震わせた。
しかし覆水盆に返らず、先に決闘を申し込んだのはジェレミアだった。
断りたくても、もはや後戻りできないルビコン川を渡ってしまったのだ。
その川の向こうには、カイランの冷ややかな微笑みが待ち構えていた。




