第134話 だから帝国は泥棒だと言うのです
公国の予想外の動きは、ルロア伯爵やアングロ子爵が全く予想していた方向から二百億ゼロサムほどかけ離れたものだった。
少なくともある程度圧力をかければ公国は折れてくるだろうと思っていたが、全くそうではなかった。
むしろ圧力をかければかけるほど、その強さがどんどん強くなってきたというか。
とにかく今の帝国には、プレシア公国にまで気を回す余裕がないということだ。
加えて帝国の流通の半分以上を担っているプレシア商団の恨みを買ったところで、良いことなど一つもないということだ。
『チッ! 事がこじれてもとことんこじれちまったな!』
最後にジェレミアがこじらせてくれたおかげで、クソみたいにこじれてしまった状況に、ルロア伯爵は内心で怒りを飲み込むしかなかった。
大したことはないと大見得を切ってジェレミア公子まで連れてきたのに、成果はおろか水を飲まされる(ひどい目に遭う)羽目になったのだから、伯爵としては焦るしかない。
「コホン。そ、そう急がずとも、ゆっくりと確認する時間を持つのも良いのではないか」
いざとなれば、まさか本当に引きずり出されて処罰されるとは思ってもみなかったようだ。
いざアークが再び捕縄で縛られた帝国軍たちを引き連れて外へ出ようとすると、慌てて呼び止める伯爵の姿にナビルは失笑した。
しきりに空咳を吐き出しながら公国側の顔色ばかりうかがっている伯爵は、未だに虚勢を張った態度を捨てきれずにいた。
事実上、彼らが帝国軍であることを認めたようなものなのに、しらばっくれているのを見れば、抜け殻だけが残った虚飾も同然だった。
「ゆっくりと確認する? 何をですか?」
「帝国軍ではないからといって、帝国民ではないという法はないではないか」
「それで?」
「彼らが帝国民であれば、帝国法に従って処罰するのが当然の理ではないか」
なんだこの、頭のおかしい戯言は?
伯爵の戯言を聞くともなしに聞いていたルセテリは鼻で笑った。
本当にあり得ない強引な主張に、耳も塞がり鼻も塞がる(呆れてものが言えない)ほどだった。
どこのどいつがこんな奴を特使として派遣したのか、アウレリア公爵の胸ぐらでも掴んで理由でも聞きたくなるほどだった。
いや、その前に帝国にそれだけの人材がいないという反証だろうか。
[うわあ、いくらなんでもあれはないんじゃないですか?]
ジアでさえもドン引きして身震いするほどなら、もう言うまでもないだろ?
「公国で起きたことを……帝国に行って判断するんですか?」
理解できないというように、カイランが首を傾げて尋ねた。
これはカイランが考えてみても、理にかなわない詭弁だった。
「フッ、公子はまだお若いので理解できないようだが、当然帝国民である以上、帝国法に従うべきでしょう」
伯爵が見るにはまだ子供に過ぎないカイランの言葉が滑稽だというように、鼻で笑いながら答えた。
「おかしいですね。帝国で起きたことでもなく公国で起きたことなのに、帝国法で処罰するようにするだなんて……。帝国にそんな法があるなんて初めて聞きましたが?」
目を丸くして、カイランは本当に知らないのかとでも言うように伯爵を真っ直ぐに見つめた。
子供だと見くびっていたようだが、伯爵の背中からは今頃冷や汗がダラダラと流れ落ちているだろう。
「それは公子がよくご存じないからで……」
「よくご存じないから、か……。ここへ来る前に帝国と協約した内容はすべて目を通してきましたが、そのような内容はどこにもありませんでしたよ。ここのどこにそのような内容が書かれているというのですか?」
カイランは伯爵の目の前に分厚い本を一冊突きつけた。
帝国と公国の間の協約が書かれた協約書だった。
「そ、それは間違いなくここのどこかに……」
思わぬ伏兵に出くわした伯爵は、冷や汗をかかなければならなかった。
震える声を努めて落ち着かせ、意気揚々と本を広げてみたものの、伯爵も分かっていた。
そのどこにもそのような文言は書かれていないという事実を。
むしろ帝国で起きたことは帝国法で、公国でのことは公国法でというような属地主義の原則に従うという条項があるだけで、伯爵が主張する「帝国人は帝国法に従って処罰する」という項目はどこにもなかった。
「それはそれは、不思議なことですね。私も知らない協約だとは……。どこにそのようなことが書かれていますか?」
ナビルでさえも伯爵に近づき、顔を突き出した。
本を開く伯爵の手がブルブルと震えた。
すでに公国側ではすべてを把握しているに違いなかった。
今更になって捕まった者たちは皆帝国民であり、誰よりも輝かしい優位を占めるべき帝国の騎士だと騒ぎ立てるには、すでに時遅しだった。
こんな状況でも、呑気にジェレミアはあくびをしながら、無駄にページばかりをめくっている伯爵がもどかしいというように眉間をひそめて見守っていた。
「もっとよく探してくださいよ、伯爵。そうしないと早く終わらないじゃないですか?」
まともな会談は始まってもいないのに、早くも帰ることばかり考えているジェレミアが伯爵は恨めしかった。
「フン! あるはずがない。俺もここへ来る前に何十回も目を通したが、どこにもそんな奇天烈な文言は書かれていなかったがな」
帝国軍を引きずり出そうとして伯爵の制止に足を止められていたアークは、伯爵を振り返り、軽蔑に満ちた冷たい嘲笑を漏らしながら一言吐き捨てた。
「そうでないなら、最初から民間人に偽装してピスタチャを盗むという口実で公国を侵略しようという魂胆だったのではないですか?」
アークの発言は、それこそ会談場の中を焼け野原にするほどの威力を持った強烈な一撃だった。
仮に最初からそのつもりではなかったとしても、軍人の身分で許可なく国境を越えたことに関しては、帝国側には言い訳の余地がなかった。
ゴクリ。
緊張した伯爵の喉の奥で生唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえてきた。
「そんなわけがあるか!」
悲鳴に近い子爵の金切り声が会談場の中に響き渡った。
それと同時に、伯爵は両目をギュッと閉じ、ページをめくるのをやめてパタンと本を閉じてしまった。
ないものを探すふりをしたところで無駄なことだというのは、伯爵もよく分かっていた。
ただあるふりでもして公国を脅迫でもしてやろうと思っていたのに、全く通用しなかった。
これ以上言い張ったところで、笑い者になるのは帝国側だという事実を伯爵はすでに知っていた。
少しでも時間を稼いで別の姑息な手でも考えてみようとしたのに、あの二人のせいで台無しだ。
「フン! 公国ごときが! 我が帝国軍と比べれば下っ端レベルなのは目に見えているのに、何が偉そうに」
黙っていれば汁でも作れただろうに(黙っていればよかったのに)、ジェレミアのこの一言が、会談場の中で見張りに立っていた公国の騎士たちの剣を一斉に抜かせた。
あちこちでシャキンと音を立てて月刀を抜いた騎士たちの目には、怒りがメラメラと燃え上がっていた。
まさに一触即発。
会談場の中は張り詰めた緊張感で薄氷を踏むようだった。
誰か一人が間違って少しでも物音を立てようものなら、即座に総攻撃を浴びせるような態勢だった。
[ルッ様。出なくていいんですか?]
[俺がなんでえ?]
[ここで流血の事態でも起きたら困るんじゃないですか?]
困るどころか、むしろ好都合だとばかりに思い切りボコボコにしてやるだけだろ?
その最中に頭がカチ割れるのは帝国だろうし、公国が損することは絶対にない。
あえて売られた喧嘩を断る理由はないだろ? 違うか?
[困るのは帝国の方だろうさ、公国が損することはないと思うぞ?]
殴り合いの喧嘩を見物できると思ってはしゃいだルセテリが口元をピクピクと動かした。
「な、何だ? お前ら一体何なんだ?」
「まさか今の発言、帝国全体を代表する発言ではないでしょうね?」
挑発は自分たちからしておきながら、公国の騎士たちの殺伐とした気迫にすっかりビビってしまったジェレミアは、こっそりと帝国第1騎士団が立っている方へと足を動かした。
第1騎士団もまた、月刀を抜いた公国軍に対抗して剣を抜いてはいたが、さて……。
なぜだか構えがひどくぎこちなく見えるのは、ルセテリが自分の目にだけそう見えているのかと両手で目をこすった。
結論は?
目をこすって見ようがそのまま見ようが、ただ剣を持って立っているだけの初歩的な構えすらプルプルと震え、基礎体力の不足を露呈している奴らを語るまでもない。
それでも幸い(?)なのは、誰かさんとは違って身の程をわきまえるのが早く、簡単に公国の騎士たちに飛びかかろうとはしない点くらいか?
「神聖な会談場の中で何たる真似だ!」
遅ればせながら伯爵がナビルに向かって抗議をしてみたが、それだけだった。
公国は絶対に引き下がる気配すらなく、ナビルやアークもまた止める気など毛頭ないようだった。
他のことはともかく、これは公国の騎士たちのプライドがかかった問題だった。
騎士であれば、売られた喧嘩から逃げることはしない。
それが騎士が持つべき誇りだった。
「先に喧嘩を売ってきたのは帝国側ではありませんか?」
腕を組み、余裕たっぷりに状況を見守っていたナビルがゆっくりと口を開いた。
ナビルとしては、この会談が上手く終わろうがそれとも破談になろうが、失うものは何一つない泥沼の戦いだった。
だとしたら答えは一つだった。
正面突破。
密かにナビルもこの中で一番理知的に動きそうに見えたが、売られた喧嘩は断らないのがやはり公国民だった。
「喧嘩だと! なんという軽薄な!」
「では、違うとおっしゃるのですか? どこからどう見ても因縁をつけているようにしか見えませんが」
「ここが市井のゴロツキどもが殴り合う闘技場だとでも思っているのか!」
伯爵はフンフンと鼻息を荒くしてナビルに向かって指を差したが、彼自身も分かっているはずだ。
頭数で押し切ったところで、ここで有利なのは公国だという事実を。
そういえば、どこかで聞いた言葉だが、本来臆病な犬ほどやかましく吠え立てるというんだったか?
今の伯爵の姿がまさにそれだった。
尻尾を巻いて逃げる寸前の、一匹の野良犬だ。




