第127話 上には上がいる
皇帝の執務室は、今や主である皇帝ではなくアウレリア公爵の個人執務室へと変わって久しい。
かまどに乗せたヤカンのように赤く染まり、頭から湯気を吹き出している公爵が怒鳴り声を上げた。
その前でどうしていいか分からず頭を深々と垂れているのが、名ばかりでも帝国の重臣という輩だというのが情けなかった。
侍女はアウレリア公爵が上げる怒声にも少しも動じることなく、静かに机の上にお盆を置いた。
「あれほど注意しろと警告したではありませんか! これは何の恥さらしですか! 泥棒? 帝国軍が泥棒とは何事ですか!」
なかなか怒りが収まらないアウレリア公爵が、フンフンと鼻息を荒くしてしきりに鬱憤を飲み込めずにいた。
「そ、それがよりによってその時、シェイクの息子である小公爵が出てきたせいで……」
「それが今、言い訳だと並べ立てているのですか?」
「申し訳ございません」
ピカピカのハゲ頭をした男が一人、しきりに公爵の前で平身低頭して謝罪した。
「おまけに、アングロ子爵。あなたの息子が逃げようとして捕まりまでしたそうですが、息子の教育をどうなすっているのですか!」
ハゲ頭からダラダラと流れる汗をハンカチで拭き取る男、すなわちアングロ子爵は、公爵の猛烈な非難にどうしていいか分からなかった。
さらには息子の教育を持ち出して家柄まで問題視しているというのに、一言も反撃できなかった。
「三男だと言いましたか?」
「外で育ったせいか、教養が足りておりませんで」
「チッ! 卑しい血が混ざった者どもめが!」
未だに怒りが収まらないのか、アウレリア公爵は顔をクシャクシャにしかめたまま椅子にドカッと座り込んだ。
「それで、公国側は何と言っているのですか?」
白髪の神経質そうに痩せこけた老人が一人、恐る恐る公爵の機嫌をうかがいながら質問を投げかけた。
チラリと老人に視線を向け、公爵は額のシワを思い切り寄せながら机の上に投げ出された紙を手に取った。
「ただでは済まさないとのことです」
「それならば……」
「責任ある者の直接の謝罪と共に、賠償を要求してきました」
「賠償ですか?」
「……200億ベラ」
「えっ?」
金額を聞いた老人の目が丸くなった。
国家レベルでは払えない金額ではなかったが、今は一銭でも惜しい時だった。
特に皇室を完全に手中に収めていない今、皇室の資産に手をつけることもできず、アウレリア公爵はさらに経済的に四面楚歌に直面していた。
封臣たちに約束していた金額を支払うことができず、ずるずると先延ばしにしていたところだったのに、賠償金だなんて。
いっそ外部へ目を向けさせ、勝手にうまく食い繋げと外へ追いやったのに、問題ばかり起こして座り込んでいる。
「ルロア伯爵。この件、伯爵が適当に処理しなさい」
面倒くさそうにアウレリア公爵は、前で頭を下げていたガリガリに痩せた老人、ルロア伯爵に向かって紙を投げつけるように差し出した。
「えっ? これをですか?」
「では、私の手で直接解決しろと言うのですか?」
不満そうに片眉を吊り上げるアウレリア公爵の気迫に抗議しようとした伯爵が、不貞腐れたように口を閉ざした。
「公国側から抗議が来る可能性もあります」
書簡で要求している内容は明確だった。
皇帝あるいはそれに準ずる者が直接頭を下げなければならないという露骨な圧力。
アウレリア公爵はまさにその点において気分を害していた。
「私が赴くのは構いませんが……」
ルロア伯爵が言い出しにくいのか言葉を濁し、公爵の顔色をチラチラとうかがった。
「何ですか?」
「私が赴くだけで、奴らを納得させられるか分かりません」
「チッ」
公爵は短く舌打ちをした。
よりによってプレシア公国の機嫌を損ねてしまったこの状況が、公爵のイライラ指数を高めていた。
特に公国くらい……とすぐに押し潰すつもりで軍を送ったのに、予想以上に公国の軍事力は強固だった。
もし今の事態を収拾しなければ、帝国は南部を失うことは火を見るより明らかだった。
「いっそ、公国に攻め込んではいかがですか?」
どこかの考えなしの貴族が公爵のご機嫌を取ろうと一言言ったようだが、それがさらに公爵の機嫌を損ねた。
「では、その費用を君がすべて負担するというなら、私が真剣に考えてみてもいいがな」
金の話に即座にキャンキャンと平伏す重臣を見て、アウレリア公爵はズキズキと頭痛が押し寄せてきた。
度重なる計画の失敗に、公爵は胃がヒリヒリするのを通り越して火照っている最中だった。
だからといって、公爵の面子にかけて金がないと泣きつくわけにもいかないし。
「ジェレミア公子はいかがでしょうか」
公爵の顔色をうかがいながら機会を狙っていたルロア伯爵が、恐る恐る口を開いた。
「ジェレミア?」
「公子ほどの方であれば、帝国を代表する資格は十二分におありではないでしょうか?」
口先だけの甘いおべっかだったが、それでもアウレリア公爵の気分はそう悪くなさそうだった。
やはり、子供を褒められて気分を良くしてそびえ立つ(誇らしくなる)のは皆同じようだ。
「今回の件、上手く収めれば公子様の手柄にもなりますし、良いのではないでしょうか」
「その通りです。これでジェレミア公子様のお名前が帝国にさらに広まることでしょう」
今だと思った重臣たちの媚びへつらうような称賛が、堰を切ったように溢れ出した。
ピクピクと動く口角を隠しきれない公爵の耳がパタパタと動いている(喜んでいる)のはおまけだ。
「今後皇室において、ジェレミア公子様が優位に立つためにも良いのではありませんか」
「ふむ。確かにそうだな。今後ジェレミアが正式に皇位継承者となれば、役には立つだろう」
こっそりと公爵は、すでにジェレミア公子が正式な後継者にでもなったかのような傲慢な態度で、口元に満足げな笑みを浮かべ、しきりに下顎を撫でた。
今、執務室で起きているすべての出来事を見守っている者がいた。
あまりにも平凡すぎて誰も気づいていないようだったが、間違いなく少し前にアウレリア公爵にティーカップを運んだ侍女の一人が、隅に立ってすべてを見守っていた。
視力が悪いのか、度の強いぐるぐるメガネをかけた侍女のポケットに入れた手は、見えないように忙しく動いていた。
『出席者はルロア、アングロ……そしてジェレミア』
ポケットの中の小さな紙に、びっしりと執務室での内容を書き綴っていく侍女は、まさにロアンだった。
かなり変わった姿にすぐ彼女だと気づく者はいなかったが、認識阻害魔法のおかげで誰一人としてロアンに気づく者はいなかった。
おかげでロアンは、アウレリア公爵と帝国の重臣たちが交わしていた重要な話を一つ残らずバレることなくすべて聞くことができた。
特にジェレミア公子が今回の会談に同行するという事実は特ダネだった。
本格的なアウレリア公爵の皇室乗っ取り作戦に突入したとも言えるのだから。
少なくともどちらにせよ最も必要な情報だったため、今こそロアン通信が動く絶好のタイミングだった。
「ヒューイッ!」
目立つことなく無事に城門の外まで抜け出したロアンは、口笛を吹いた。
しばらくすると、空中にはぐるぐると円を描きながら飛んでいる一羽の鷲が現れた。
再びロアンが低く口笛を吹くと、鷲は羽ばたきながらロアンが差し出した腕にふわりと舞い降りた。
腕から肩へとよちよちと歩みを進めた鷲は、嬉しいというようにくちばしをロアンの頬にスリスリと擦り付けた。
「お疲れ様。何もなかった?」
「ピーピー」
羽をばたつかせた鷲は、小さな筒がぶら下がっている自分の足をロアンに差し出した。
「よしよし、いい子だね。今確認してみるよ」
慎重に筒の中に入っているメモを取り出して広げてみたロアンの顔は、目に見えて明るくなった。
メモには、ルセテリとアークが会話を交わしていたコーセン公国と帝国軍の間の衝突に関する話が書かれていた。
「ふーん、ふーん。なるほどね。そう簡単にやられるコーセンじゃないもんね」
これまでコーセン公国の独立連合が破竹の勢いで進撃できたのは、ロアンが送ってくる迅速で正確なロアン通信のおかげだった。
帝国の中心で起きている些細なすべての話が、彼女を通じて独立連合側へと伝達されていた。
これを知らない帝国軍は、虚を突いて攻め込んでくるコーセン独立連合の攻撃に為す術がなく、南部と共にアウレリア公爵の予想を裏切り、帝国軍の士気を削いでいる主犯でもあった。
「着いたばかりで悪いんだけど、今回は東じゃなくて南の方へお願いね」
ポケットから、ゴマ粒のような文字が書かれた丸めた小さな紙切れを取り出し、足にぶら下がった筒に入れた。
隙間なく密封されたことまで確認を終えるや否や、任せておけとばかりに鷲は羽をパタパタと羽ばたかせた。
ご褒美として用意しておいた鳥の肉切れをいくつか口に咥えさせるや否や、消化する暇もなくガツガツと飲み込み、そのまま再び空へと飛び立った。
「ドラゴン様も皇女様も無事かしら……?」
遠ざかる鷲を見つめながら、ロアンが恋しそうな顔をして呟いた。
***
今、ジアとルセテリはアークと共にティシャールの外郭、プラヤ川を挟んだ帝国と公国の国境にある要塞城、ラカンに来ていた。
公国から帝国に抗議の書簡を送るや否や、即座に返信が来たところによると、このラカン城に死者を送るという内容が含まれていたからだ。
「思ったよりかなり素直に出たな?」
「そうですね。てっきり怒って帝国第1騎士団でも送ってくるかと思いましたよ」
当然のことだが、帝国で一番実力のある騎士たちだけが集まっている第1騎士団を送るはずがないだろうが。
公爵もそこまでおバカじゃないし。
「軍隊を送るよりは謝罪の方が安上がりだろうさ」
手を眉毛の上に乗せて川の向こうを観察していたルセテリが、突然指で空を指差してジアに尋ねた。
「さっきからあそこをぐるぐると回っている鷲が一羽いるんだが……やけに見覚えがあるな?」
顔を上げて空を見ると、確かにいつか見たことがあるようなシルエットだった。
ポケットを探ったジアは、ブリトルを発つ日にオーギュストが自分の手に握らせてくれた笛を取り出した。
「ピーッ」




