第120話 力の均衡
俺、お前に勝ったこと一度もないんだけど?」
カイランは自分が何を言い間違えたのか理解できなかった。
事実として自分はジアに一度も勝ったことがなかったし、時々ジアがカルと手合わせをしていることも知っていた。
その度にカルでさえも手こずっていたのをカイランははっきりと覚えているのに、なぜ……?
[私が強いことと帝国軍がゴミだってことは、全く別の問題でしょ?]
「別の問題? どういうことだよ?」
まさか「別」という意味を聞いているのか、それとも「別の問題」というのが何なのか聞いているのか、ジアはカイランが発した質問の意図が掴めなかった。
ゆっくりと瞬きをしながら、ジアがカイランをじっと見つめた。
時々意外にも核心を突いてくることがあるが、今回は絶対に後者ではない。
[ただ私が強いだけで、帝国の騎士たちとは何の関係もないってことよ]
それでようやく理解したように頷くカイランを見て、自分の考えが正しかったことを悟った。
[期待を裏切らないわね?]
[もしかしてと期待した私がバカでした]
黙って二人の会話を聞いていたカイランは悔しかった。
ただ分からないから聞いただけで、そこまで小言を言われなきゃならない理由があるのかと思えた。
「分からなくて聞くことだってあるだろ、何を……」
「はあ?」
その間にもブツブツと文句を言うカイランの愚痴を聞いたジアの眉が、ピクッと吊り上がった。
「いや、そうだろ。そんなことちょっと知らないからって大ごとになるわけでもないし……」
「大ごとじゃない? じゃあ戦争の時にも同じこと言ってみる? どうなるか」
「急に何で戦争……。何で戦争が起きるんだよ?」
カイランの呑気な言葉に、ジアは口をギュッと結んだ。
皇宮を離れて少し旅をしただけでも、ジアには今大陸に漂っている戦雲の緊張感が感じ取れていた。
ましてや自分よりも自由に方々を商団と共について回っていたカイランの方が、もっと早く気づくべきではないのか?
「ハハハ、若君には世の中がまだ真っ白に見えるようだな」
突然現れた大きな手がカイランの頭に乗り、髪をくしゃくしゃにかき回した。
ジアとカイランの会話を聞きながらガッハッハと笑っていたカルの手だった。
「ま、真っ白ってどういう意味……」
「ククッ、こんなに純粋な十歳の子供を見るのも久しぶりだな。ここで働いてる子供たちも、若君よりはもう少し汚れてるぞ。そうだろう、ヘゼル?」
悪口なのか褒め言葉なのか分からないカルの言葉にカッとなろうとしたカイランは、自分をじっと見つめるヘゼルの眼差しに、グッと口を閉ざすしかなかった。
その眼差しがあまりにも真剣に見えて、いくら空気を売り飛ばしたカイランであっても大人しくするしかなかった。
ヘゼルの視線はカイランから再びジアへと移り、今度はジアもまた緊張で体をこわばらせた。
「シェイク様がなぜル先生とカイラン様に(あなたを)くっつけたのか、分かるような気もしますね」
「ハハ、そうでしょう?」
「片方は世情に疎く、片方はとても詳しい。混ぜ合わせればちょうどいいだろうね」
ふむ、俺も全く同じことを考えてたんだけど。
なぜかルセテリとヘゼルの考えがぴったりと一致する。
偶然かもしれないが、最初にシェイクにティシャールへ行きたいと言った時、快く送り出してくれた。
ルセテリは、シェイク・ミルザの狙いが何だったのか分かるような気がした。
「ところで、お前はそれをどうして知ってるんだ?」
「え? 何をですか?」
急に低くなったヘゼルの声に、ジアは凍りついた。
もしかして正体がバレたのだろうか?
チラリとルセテリを見たが、ヘゼルやカルに気づかれないように軽く首を横に振ってみせる。
少なくともジアが帝国の皇女だという事実がバレるはずがない。
カイランが口を滑らせない限り。
それに見たところ、カイランが漏らしたようでもないし。
「戦争が起きそうだということさ。確信しているようだったから。普通の人は『まさか』と言って起きないことを願うものだが、お前は違うみたいでね」
一瞬緊張したのはルセテリも同じだった。
幸い心配していた方向ではなく、戦争の話にため息をつくことはできたが。
「大抵の人々は希望的な方向にだけ考えようとするじゃないですか。私はただ、見て感じた通りに考えただけですけど」
何でもないことのように、ジアは肩をすくめた。
特に難しい問題でもなく、実際少し観察すれば誰でも予想できることではないか。
「確かに、大半の人間は不幸を考えようとしないからな。それにしても随分と鋭いじゃないか?」
「鋭いんじゃなくて、現実がそうじゃないですか」
十歳の子供がするようなレベルの答えではなかった。
「それを分かっているということ自体がすごいんだ。まだ十歳(?)くらいにしかならないのに」
「十歳じゃないわ……七歳よ……」
がっかりしたようにガクッと首をうなだれたジアが、不満いっぱいの頬をピクピクさせながら呟いた。
「えっ……? 七歳……?」
十歳でも十分に幼い年齢なのにすごいと思っていたが、それよりさらに幼い七歳だなんて……!
ヘゼルとカルの顔には驚きの色が広がっていた。
「ご、ごめん。七歳だったのか。コホン」
「カイラン若君と同じ十歳かと思ったよ」
すぐに二人は、初めて赤ん坊をあやすようにオロオロしながら、すねたジアをなだめすかし始めた。
良かった……。
片隅でルセテリは胸を撫で下ろした。
ジアに、自分より年上に見えるように姿を変えたと、少なくとも怒られずに済みそうだった。
カイランが十歳だから、ただジアも十歳だと当て推量しただけで、ルセテリのせいではなかった。
ジアがルセテリに向かって一度睨みつけただけで、他に何も言わないのが証拠だった。
とにかく……。
「戦争において最も重要なことの一つが、相手の戦力をよく知ることだ。おまけに個人の戦力が強いからといって、その国全体の戦力だとみなすことはできないんだよ」
ヘゼルの親切な説明に、頭が石のカイランであっても理解はしたようだった。
首をコクコクと縦に振りながら、一生懸命ヘゼルの説明を聞いているところを見ると。
「じゃあ国の王が強かったら? そしたらどうなるんだよ?」
「ふむ。それはまた別の話になるな。一国の王の力が強ければ、その下にいる軍隊の力も強くなるからな」
「話が違うじゃないか。個人の強さと軍隊の強さは違うって言ったのに」
「個人も個人次第さ。それぞれの置かれた立場によって、全体的な実力にも差が出るものなんだ」
「それはどうしてだよ?」
「それは、上に立つ者であるほど強さに対する執着が強いからさ」
その分かりやすいヘゼルの説明でも、この部分だけは理解するのが難しかったのか、カイランの顔にはクエスチョンマークがいっぱいだった。
確かにあの部分は説明だけでは十分に理解しがたいかもしれない。
何か適切な例えが……あ!
指でトントンと顎を叩きながら悩んでいたルセテリが、何かを思いついたようにポンッと手を打った。
「アークは、プレシア公国で一番強い騎士団長だろ?」
ルセテリの質問に、カイランが頷くことで答えに代えた。
「じゃあ、その強い騎士団長の下でしごかれている騎士たちはどうだ?」
「うーん、かなり強い方だろ? 団長ほどじゃないにしても」
「どうしてそう思う?」
「そりゃ、アークが下の騎士たちを徹底的にしごき抜いて……あ!」
そこでようやく何かを理解したように、カイランの顔が明るくなった。
上の者が強ければ強いほど、しごかれて苦労するのは下の者たちだった。
それが軍人であれ政務に就く官職であれ、いつだって苦労するのは上司を選べずにすり減らされていく下っ端の宿命というものだ。
もちろん、無能な人間が上司ならその逆になるだろうが。
こういう言葉があるじゃないか、上流の水が澄んでこそ下流の水も澄む(上が良ければ下も良い)って。
「なるほど。アーク様がいらっしゃいましたね。プレシア公国第1騎士団長」
「ああ~ あの訓練の鬼」
幸い二人もアークをよく知っているようで、カイランと共に頷いていた。
でも訓練の鬼ってまた何だ、どうして知ってるんだ?
気になってじっとカルを見つめていると、視線を感じたカルが軽くルセテリを見ながら話を続けた。
「俺もあの方の下で訓練を受けたことがあるんですよ。あ、もちろん騎士としての本格的な訓練ではありませんでしたが、それがかなり、一筋縄じゃいかなかったんですよ」
「それが普段騎士たちがやってる訓練の3分の1だなんて……公国騎士団が強いのは当然さ」
カルに続いて身震いするヘゼルを見ると、かなり過酷だったようだ。
ところで、ただの農場の人々がなぜ訓練を?
「アーク様がここに来て、直接訓練をつけてくださったんですか?」
「ええ、ここが国境と一番近い場所なもので、軍隊を配置するのもそうですが、万が一の時に備えて自分たちの身は自分たちで守れるようにしなければならないと、基礎的な軍事訓練をしてくださったんですよ」
「でもどう見てもあの人、俺から見たらただ帝国から来た連中と手合わせしたくて口実を作っただけなんじゃないか?」
「ふむ……あのアーク様なら当然そうかも……」
訓練にかこつけた手合わせってことか?
アークらしいと言うべきか、その部分においては南部の人の特徴なのか、カイランも似たようなもんだけど。
「その方の訓練ってどんなだったんですか?」
何も知らないというように、ジアが天真爛漫に二人に尋ねた。
もちろんジアは、商団についてテランカナに到着してからも時々アークと手合わせをしたりしていたので、アークの実力を知らないわけではなかった。
むしろその逆というか。
それなのにあんな無邪気に質問する意図を、カイランは激しく疑ってやまなかった。




