第119話 帝国と公国
え? そこまで言うの??
しきりにルセテリからゲンコツを食らい、次々とたんこぶができてしまった頭を抱え込んだカイランが、チラリとジアの顔色をうかがった。
しかしジアは、カイランの予想に反して全く何ともないという表情だった。
むしろ無表情ですらあった。
「何? どうしたの?」というようにカイランに向かって小さく小首を傾げた。
皇女だろ。
帝国の話だぞ……。
ポカンとした表情で慌ててカイランはルセテリの方へ顔を向けたが、返ってくるのはデコピンだけだった。
「ピスタチャのこと、何一つ分かってないんだな?」
「ハハ。分かっていればここまで来たでしょうか? 現場学習じゃないですか。学びに来たんですよ」
「まあ、確かにそうですね」
ヘゼルに向かってハハッと愛想笑いを浮かべながら、ルセテリは代わりに言い訳を並べ立てた。
[お前、後で覚えてろよ]
「ヒィッ」
カイランの口から何か人間のものではないような悲鳴が漏れたが、ルセテリは1ミリも気に留めなかった。
間違いなくここを発つ前に予習しろと言って本を投げて渡しておいたのに、読んでいなかったのは明らかだった。
「緑色のダイヤモンド。確かに帝国の首都ではピスタチャをそんな風に呼んでいると聞いたことがあります。古風で香ばしい味がするナッツだとかで、流行しているそうですね」
「ええ。ピスタチャの木は育てるのが難しくて、毎年収穫量が一定しないんですが、それをうちの農場では成し遂げたんですよ。もちろんシェイク・ミルザ様の支援があったからこそ可能なことでしたが」
「なのに帝国では何も知らずに、ただこの農場さえ自分たちのものにすればすべて手に入ると思って、虎視眈々と狙っているってわけさ」
拳を握りしめたヘゼルが、怒りを抑えきれずに体をブルブルと震わせた。
考えるだけでも血が逆流しそうになったからだ。
「たかがそんな理由でですか?」
この子、まだアウレリア公爵という人間をよく分かってないわね。
タダならドブの泥水でも飲むような人間が、まさにあの公爵っていう人間なのよ。
「時に人間の欲望というものは、その『たかが』という理由だけでも戦争の火種になり得るものさ」
「うわあ、じゃあそのアウレリア公爵って人の欲はどれくらい深いんですか?」
おそらく世界中の富をすべて手にするまで?
ルセテリは口がうずうずした。
思い切り陰口を叩きたいのに叩けないのは悲しいことだ。
「よくご存知ですね。まるで帝国の皇室で過ごしてこられたかのように」
「ヒック」
ヘゼルの目がギラッと光り、ルセテリに向けられた。
ルセテリの予想以上に、ヘゼルの勘ははるかに鋭かった。
間違いなくこの程度では気づかれないと思っていたのに、これは予想を遥かに超えている。
労働で鍛え上げられた肉体的な能力もさることながら、策士としてこれ以上ないほど優れた才能を持っていることは間違いなかった。
これからはヘゼルの前では、もっと身の振る舞いに気をつけなければな。
ルセテリはこれ以上ミスをする前に、大人しく口を閉ざした。
そしてジアに気づかれないように、素早くクフタドッグを一口かじってモグモグと噛んだ。
今回のは特別に、クフタの上にオニョンと細かく刻んだクマートを乗せ、白いヨーグルトソースをたっぷりかけてナンでぐるぐる巻きにしたものだった。
これで早くも十個目のクフタドッグだということは、ジアには内緒だ。
「まあ、今すぐ帝国から軍隊を送ってきたとしても、指一本触れさせるつもりはありませんがね」
「貴族を除けば、一般の兵士たちは日常茶飯事で飢えているそうですから」
「貴族も貴族次第だそうですよ、おそらく? 下級貴族の何人かは一般兵士以下の暮らしをしているという噂も耳にしましたからね」
あの偉大なるアウレリア公爵が指揮する軍隊なんだから、見なくても目の前にありありと目に浮かぶわ。
ドケチが帝国の軍隊だからってポンポン金を使うはずないでしょ?
当然軍費をちょろまかして裏金でも作ってるに決まってる。
見なくても火を見るより明らかじゃない。
「それに比べれば、我らがシェイク・ミルザ様はどれほど素晴らしいお方か」
カイランの耳がピクッと動いたのが、ルセテリの目に留まった。
関心がないふりをして耳を塞いでいるのかと思いきや、そうでもないようだった。
さりげなく体が傾いている様子に、ルセテリは自然と鼻で笑ってしまった。
いつだかはシェイクなんかに関心はないとか言ってたのにな。
「どうしてそう思うんですか?」
唐突に割って入ったカイランの質問に、一瞬賑やかで騒がしかった人々の視線が、一斉にカイランへと注がれた。
ヘゼルはなぜか誇らしげな顔でカイランを見つめていた。
「二つの国を見ていて、何か感じることはないか?」
「感じることですか? 卵で岩を叩く(蟷螂の斧)?」
「ほう、じゃあどこが卵でどこが岩なんだ?」
「それは、帝国が卵で公国が岩?」
カイランの答えに満足したのか、皆が豪快な笑い声を上げて大爆笑した。
さらにはクワランの目尻には涙が少し滲み、膝までパンパンと叩きながら豪快に笑いさえした。
「さすがシェイク・ミルザ様の息子さんだけあって、的確に例えるもんだ! ガッハッハ!」
「的確に見てるじゃないか。その通り、例えるなら今の帝国はいつ粉々に割れるか分からない卵も同然さ」
いつ粉々に割れるか分からない……か。
ルセテリが見る限り、腐り果てていつ爆発するか分からない腐った爆弾じゃないかと思うが、あえて口には出さなかった。
もろい卵だろうが腐った爆弾だろうが五十歩百歩だが、いちいち突っ込んで無駄にヘゼルに正体がバレるのも厄介だ。
「若君から見て、公国の騎士団のレベルはどうだと思いますか?」
カイランの目がキョロキョロと動き、ルセテリへと向けられた。
誰を基準にすべきか、カイランは混乱した。
おこがましくもルセテリと比較することはできないから、ジアと比較すべきなのかと思った。
しかし、自分より幼い、それも女の子と公国軍を比較するのは無理があるのではないかと思えた。
帝国の騎士たちが皆ジアと同等の実力を備えているかそれ以上だと言うなら、いくら公国騎士団の実力が優れていようとも勝てるはずがなかった。
それほどまでにジアの実力は越えられない壁(넘사벽)だったのだから。
それを分かっているからこそ、カイランは答える前にジアとルセテリの顔色を先にうかがったのだ。
[なんで私を見るのよ? 私を帝国の騎士と一緒にしないでくれる?]
[あいつは論外だ。他に比べるものがなくて、よりによって帝国の騎士なんぞとあえて比べようってのか?]
同時に二人の竜言が、カイランの頭の中にダイレクトに突き刺さってきた。
特にジアの表情は見ものだった。
他に比べるものがないからって、あんなゴミどもと私を一緒にひとまとめにして比べようとしてるの? というような顔でカイランを見ていた。
[帝国からジアは除外しなきゃな。あいつだけは別格だ。残りは見る価値もない]
皇帝から始まってね。
いや、まあ……皇帝だから当然なのかしら。
ある程度クフタに満足したルセテリが腹を叩きながら、これまでに帝国で見てきたいくつかの騎士たちのことを思い出した。
彼らが帝国の騎士を代表しているとは言えないだろうが、思い出しただけでもすでに帝国軍は公国に負けていた。
顔が綺麗なことだけを武器に女をたぶらかすことしか知らず、訓練といえば豆粒ほど、汗一滴流したことのないような連中と、息が喉まで詰まるほど基礎体力訓練に剣術の練習、体術に戦術訓練まで一日中転がり回っている公国とが比べ物になるはずがない。
「他の場所はよく分かりませんが、公国騎士団に入団するだけでも大変な名誉だと聞きました」
ルセテリの気迫に押されたカイランが、体を小さく丸めたまま小さな声で答えた。
「騎士団に入団するだけでも相当な大仕事さ。それだけ実力が保証されていなければ入ることすらできない場所が、公国騎士団だからな。ましてやテランカナのシェイク直属となれば言うまでもない」
「公国騎士団、それも第1騎士団なら認めるね。公国を超えて大陸最高だと」
クワランは誇らしげに唾まで飛ばしながら熱心に語った。
公国第1騎士団という言葉に、ルセテリは騎士団長であるアークを思い出した。
無駄のない引き締まった筋肉、自由自在に曲刀を扱う腕前、たとえジアの活躍に押されて活躍の機会を失ったとはいえ、基本がしっかりとした剣術の実力。
公国であれ帝国であれ、大陸最高と評するには無理のない実力であることは確かだった。
参考までに、大陸最高はルセテリ本人であり、その次がジアだ。
[コホン!]
場違いな空咳に、ジアはルセテリを不思議そうな目で見た。
[いや、アークの実力が大陸で指折りの実力なのは確かだってことさ]
言い訳めいた言い訳に聞こえるだろうが、とにかく正しいことじゃないか。
ジアの疑いの目を避けるため、ルセテリはそっとカイランの背中の後ろに身を隠した。
ジアの鋭い視線から逃れるためだった。
[怪しいわね]
[何が? 何が怪しいって言うんだよ]
しらばっくれるルセテリをジアはじっと見つめ、やがて目を逸らした。
[違うならいいわ]
何よ、探りを入れてるわけでもないのに。
「それに引き換え帝国の騎士団だと? 公国にいたら、どっかの田舎の片隅でただの兵士でもやってるような連中が? ククク」
「いや。田舎の兵士にも失礼な話さ。おそらく警備兵とやり合っても吹っ飛ぶだろうに、筋の通ったことを言わなきゃ」
筋は通ってるわ。
ジアは人々が騒ぐ声を一つも逃さず反芻した。
彼らの言葉が気になったからではなかった。
誰もが皆正確な分析をしており、ジアには反論できない事実だったため、むしろ何も考えが浮かばなかった。
ただカイランだけがジアの顔色をうかがいながら、そわそわと落ち着かない様子だった。
「ご……ごめん」
「あんたがなんで謝る必要があるのよ?」
その通りね。
カイランが申し訳なく思う必要があるのかしら。
なぜなら、あの人たちが笑って騒ぎながら嘲笑している言葉が事実なのだから。
「私もその言葉に同意するわ」
「え?」
驚いたカイランは自分の耳を疑った。
同意するって??
「帝国の騎士団、あいつらみんな見栄っ張りの案山子で間違いないから」
それでもハリボテっていうのは、ちょっと言い過ぎなんじゃないか?




