第115話 陰口は叩いてこそ味がする
「焼き払うだなんて、そんな残酷な言葉を……。でもできることなら、逃げていく帝国の奴らの後頭部に火矢でも一本放ってやりたい気分ではありますね」
向かい側でいい気分でエールを飲んでいた男が、空になったジョッキをタンッ、とテーブルに置いた。
泡がついた髭をゴシゴシと手で拭いながら、おばさんの言葉の端に一言付け加えただけだったのに、これを皮切りにケバブを食べていた働き手たちが一人、また一人と集まり始め、やがてワイワイと議論が始まった。
「おいおい、それじゃダメだろ。俺たちの血と汗の結晶であるピスタチャの木を全部燃やす気か?」
「確かに、あれ一本育てるのにどれだけの時間がかかってると思ってるんだ。そんなことできるわけない」
その言葉にはみんな同意するように、働き手たちの首が一斉に縦に振られた。
「それに、とっくにここへ逃げてきた農民たちが、『いやあ、私、また帝国へ戻りとうございます』なんて言って両手を広げて大喜びで歓迎でもしてやると思ってるのかね?」
「いやいや、お前さん、見当違いも甚だしい。誰が好んであの陰惨な帝国に戻りたいなんて奴がいるもんか」
「だろ? あくまで言葉の綾だってだけで、この農場だけでも帝国軍と聞けば歯ぎしりして鎌を持って飛びかかる奴は結構いるぞ」
「全くだ、それだけじゃない。首をチョンパして国境の柵に一つ一つぶら下げて見せしめにしてやるって息巻いてたぞ」
話が次第にヒートアップし、徐々に帝国軍に対する険悪な軽蔑が飛び交い始めると、そっとカイランがジアの顔色をうかがった。
帝国の皇女として働き手たちの話に気分を害してもおかしくなかったが、ジアの顔はそんなことお構いなしに表情一つ変えることなく、ただ平和におばさんが持ってきたケバブをモグモグと噛んでいた。
「俺でもそうするな。空腹を抱えて何か食べたくて必死に土をかき集めて食べ、人間扱いもされない帝国で生きるくらいなら、どうせ捨てた命だ、逃げ出してでもみるさ」
「その通りだ。それなのにまた帝国に連れ戻すだって? 俺でも帝国軍に飛びかかって死ぬことがあっても絶対に帰らないね」
「そこまでですか?」
働き手たちの会話に、そっとルセテリが割って入った。
プレシア商団に出会い、公国に足を踏み入れるまでは、そこまでひどい扱いを受けている領地民を見たことがなかったので気になったのだ。
それとも、オーギュストが組んでくれたルートがあまりにも完璧で、そこまで深刻に疲弊した領地は避けて通ってきたからなのかもしれないし。
「いやあ、あんた、あんたは公国でしか過ごしたことがない口か? 公国の外の情勢についてはまるっきり無知みたいだな?」
鼻の頭をエールで赤くした男が一人、ドサッとルセテリの肩に自分の腕を回し、親しげに近づいてきた。
近づいてきた男の口からは、すでに酒気がかなり回っていることが推測できるほど、いい気分で飲んでいる状態だった。
ゴクリ。
ルセテリは噛んでいたケバブを素早く喉の奥に押し込んだ。
あんたって、どこをどう見ても俺の方が年上……あ、いや違う。
外見の皮だけなら、ルセテリより肩に腕を回している男の方が倍は年上に見える。
くだらないことで無駄に酔っ払いに絡みたくはなかった。
かといってドラゴンだという正体をバラすわけにもいかないし。
「いやいや、違うだろお前さん。帝国も帝国次第じゃないか」
「帝国次第ですか?」
「確かに、それもそうだな。今までここに逃げてきた農奴の中で、皇帝派陣営から逃げてきたって話は聞いたことがないな」
「あのアウレリア公爵だか何だかいう貴族の旦那に引っ付いてる領地の百姓たちだけが苦労してるってこった。それこそ血の一滴も残さずチュウチュウ吸い尽くそうとするっていうじゃないか」
あのアウレリア公爵派陣営なら、やりかねない気もするな。
働き手たちの会話を聞きながら、こっそりケバブに刺さっていたオニョン(玉ねぎ)とピメント(ピーマン)を横に退けようとしていたルセテリは、バチッとジアと目が合ってしまった。
[どこでイカサマ(好き嫌い)しようとしてんですか?]
[違う、後で食べようと思ったんだ]
[お肉ばかり召し上がっていたらお腹の肉が増えるだけですよ。後で後悔しないで、野菜もバランスよく召し上がってくださいね?]
ジアの顔色をうかがいながら退けていた野菜の皿をそっと引き寄せ、泣く泣くルセテリは一気に野菜を口の中に押し込んだ。
それでも肉の肉汁と炭の香りが野菜にも染み込んでおり、食べるのにそこまで苦痛というわけではなかった。
野菜を少し食べなかったからといってルセテリが死ぬわけではないが、ジアの小言は死ぬよりも嫌だった。
ルセテリが苦虫を噛み潰したような顔で野菜を口に入れてモグモグしていると、ヘゼルが農場の働き手たちが熱く繰り広げている議論の中心に割って入った。
「確かに帝国の皇帝派の領地から逃げ出してきた農奴たちは今までいませんでしたね。ところで、あの噂聞いてません?」
「どんな噂だ?」
「アウレリア公爵が皇室を襲撃して、皇帝を人質に取ったという噂ですよ」
「あのアウレリア公爵がついに皇室を攻撃しただと?」
「今、帝国の皇室はアウレリア公爵の掌の上だという話が広まっていますよ。今の皇帝派は紐の切れた落ち葉も同然だから、近いうちに帝国の各領地から離脱する農民が増えるだろうと予測が飛んでいましたが、お聞きになりませんでしたか?」
紐の切れた落ち葉(後ろ盾を失った者)か……実にもって適切な比喩だった。
今頃になれば皇帝側についていた貴族たちは、次々と粛清されているのだろうか?
ルセテリはこれまで通り過ぎてきた、人情味のあったウムスクやブリトルの百姓たちの姿を思い出した。
裕福な暮らしぶりではなかったが、情に厚く、他人に分け与えることを知っている温かい人々だったのに……。
「帝国の一般の百姓たちだけが可哀想なことになりましたね。指導者を一人間違えたせいで、生きた心地がしなくなったのですから」
ヘゼルの言葉が終わるや否や、賑やかだった雰囲気が一瞬にして冷や水を浴びせたように静まり返った。
「じゃあこれから帝国はどうなるんだ?」
誰かが恐る恐る口を開いた。
「公爵が皇帝に即位するんじゃないか?」
「そうだな。あのアウレリアならやりかねない」
アウレリア公爵の皇位に対する野心は、国境の向こうまで有名な話らしい。
別に皇帝でなくても、皇宮でこれまで見せてきた公爵の態度だけでもすでに皇帝に次ぐ権力を握って振り回していたのに、今更皇帝になったところで変わることはないだろうが。
「アウレリア公爵が皇帝に即位することはないでしょう」
ほう。
ルセテリはヘゼルの分析力に心の中で感嘆を漏らした。
普通こういう場合、当然アウレリア公爵が皇位を簒奪すると予想するだろうに、ヘゼルはそうしなかった。
「皇室にまで軍を率いて攻め込んだのにか? 理解できないな」
「聞くところによれば、アメリアの初代皇帝から伝わる品を見つけられなかったそうですよ」
「たかがそんなもので皇帝になれないだと? こりゃあ、鶏を追っていた犬が屋根を見上げる格好(骨折り損のくたびれ儲け)になりそうだな?」
「そうかもしれませんね。でも、その神器がなければ正式に皇帝として認められないというじゃないですか」
「その神器って何だ? あんたは知ってるのか?」
「初代皇帝がドラゴンに認められた時に下賜されたという、守護のネックレス。それがなければ教会から正式な皇帝として認められないそうです」
ルセテリも知らなかった事実を、プレシア公国のしがないピスタチャ農場で働く働き手であるヘゼルが知っているという事実が驚きだった。
いや、皇帝即位に守護のネックレスというものが必要だということは知ってはいたが、一般の百姓が知っているにしてはかなり高度な情報だった。
おまけにその守護のネックレスというものが、初代皇帝がドラゴンから下賜された品だということは、またどうして知っているんだ?
あれこれと謎の多い男、ヘゼルだった。
「守護のネックレスって何だ、一体?」
「アメリア帝国の皇帝になるためには3つの条件が必要だと言われていました。一つ目は金髪の金眼であること。二つ目は皇室直系の血を引く継承者であること、三つ目が守護者のネックレスを持っていること。この三つのうちどれか一つでも欠格事項があれば、皇帝の冠を被ることはできないと聞いています」
「あんた、随分と詳しく知ってるんだな」
「一時期は帝国の神殿で働いていたこともありましたからね」
ヘゼルが明かした出身に驚いたのは、決してルセテリだけではなかった。
ジアまでもが大人しくケバブをかじっていたのに、ハッと驚いたのか両目を丸く見開き、皇室のマナーはどこへ売り払ったのか、口をポカンと開けていた。
「神殿で働いていた司祭だったんですか?」
「一時期はそんなこともありましたね」
なぜか照れくさそうにヘゼルが耳たぶをいじった。
ルセテリだけではなかったのか、大半の農場の人々の耳目がヘゼルへと注がれた。
神殿で働いていた司祭が、どうして公国まで来て農場で働くことになったのか非常に気になった。
気になったからといって、すぐに口に出すほど空気が読めないわけではなかったが、ルセテリは口がうずうずした。
それは口を一文字にギュッと結んでいるジアも同じだったようだ。
結局我慢しきれずに先に口を開いたのはジアだった。
「守護のネックレスというもの……そんなに重要な品なのですか?」
「重要さ、もちろんだとも。なんと初代皇帝がドラゴン様から直接お受け取りになった品だからな。そのネックレスを持っていれば、いかなる危険からもドラゴン様の絶対的な力で守ってくれるという伝説のネックレスなんだ」
ヘゼルの言葉を聞いて、ジアは意味もなくジョゼフ皇帝がジアに直接かけてくれたネックレスをいじった。
皇帝から何の説明も聞かされないまま、ただネックレスがジアを守ってくれるという言葉だけを聞き、詳しい内容を聞かされていなかったジアは、見た目はみすぼらしい極まりないネックレスにそんな大きな意味があるとは想像もしていなかった。
「ヘゼルさんは……その守護のネックレスというもの、直接見たことがあるのですか?」
もしかして自分の身分がバレるのではないかと恐れたジアが、震える声で尋ねた。




