第113話 シシケバブとピスタチャのペストソース
目にも止まらぬ速さだった。
横にうず高く積み上げられていく鉄串さえなければ、知らない人が見れば今まで一口も食べられずにただ涎を垂らしているようにしか見えなかっただろう。
あまりにも一瞬の出来事だったため、鉄板の上に乗っていた串があっという間に消えていくのにもかかわらず、あれだけたくさんいる人の中で気づく者は誰もいなかった。
ただヘゼルだけがそっとルセテリのそばに近づき、耳打ちをするだけだった。
「シシケバブがお気に召したようで嬉しいですね」
「ヒィッ!」
突然現れたヘゼルの登場によほど驚いたようだ。
ルセテリの口からは絶対に出そうにない奇妙な声が飛び出した。
「なかなか美味しいでしょう? 特にこの羊肉を挽いて串焼きにしたものは、このソースにつけて食べると最高なんですよ」
ヘゼルは意味深な笑みを浮かべ、ルセテリの皿の上に串を一本乗せると、黄緑色のソースをたっぷりと振りかけた。
何だ? ソース食ってぶっ倒れろってか?
もしかして毒でも混ぜたのではないかと、疑わしげな目でルセテリはソースを穴が開くほど見つめたが、特別なものはなさそうだった。
ただ所々に見える黄緑色の粒が点々と混ざっているのが目に入る程度か?
ルセテリは細かく挽いた羊肉の串を慎重に手に取った。
タラリと、粘り気のある黄緑色のソースが串を伝って流れ落ちた。
まさか食って死ぬようなものを渡したりはしないだろうと思いながら、ルセテリは肉をガブッと大きく一口かじりついた。
細かく挽いた肉特有の柔らかな食感が、舌の奥へとスルリと巻き付いてきた。
よく捏ねられた肉の第一印象はシルクのような滑らかさで入ってきて、やがてプリッ、肉を噛んだ時の弾力が容赦なく歯茎を打ち据えた。
予想外の反転に、ルセテリの目は丸くなった。
おまけにソース!
ヘゼルの言う通り、本当にソースが絶品だった。
この羊肉の串はソースなしでは考えられないほど、ソースとの相性が抜群だった。
「んっ! んんっ!」
目はまん丸に見開いたまま、しきりに皿の上の羊肉とソースを指差しながら、ルセテリは感嘆の声を漏らすだけで言葉を続けられずにいた。
「でしょう? だから言ったじゃないですか。もうこれなしじゃ肉は食べられないって」
そう言って笑うヘゼルの皿の上の肉にもたっぷりとソースがかけられた。
ゴクリ。
肉を飲み込んだルセテリは、目をキラキラと輝かせて有頂天になった。
「これ! 中にピスタチャ入ってますね!」
「よくお分かりで。ええ、ピスタチャをオリビアの実の油に薬草と一緒に入れてすり潰したソースですよ。どうです、なかなかよく合うでしょう?」
あれは食べているのか、それとも吸引しているのか、ジアにはよく分からなかった。
それくらい、積み重なる前にあっという間に串から肉たちが消え去る魔法が鉄板の上で繰り広げられていた。
つられて大きな器にたっぷり入っていたソースも底を見せ始めていたし。
「恐ろしいわね」
「あれが全部だとは思わない方がいいわよ」
「何? あれで終わりじゃないって?」
「そうじゃなきゃ言わないでしょ?」
そもそもあの姿が終わりだとしたら、口に出したりもしなかっただろう。
ヘゼルや農場の人たちには申し訳ないが、これまでのルセテリの肉に対する執着を何度も経験してきたジアは、これからが本番だということを痛いほどよく分かっていた。
それにしても、お肉は十分に足りるかしら、心配だわ……。
串に刺さった肉を一口かじりながら、ジアはひそかに不安になってきた。
万が一にも自制心を失ったルセテリが、農場の人たちのことなどお構いなしに全部平らげてしまうのではないかと心配になった。
「まあ、適当なところを見計らって止めなきゃいけないかしら……」
肉をモグモグと噛みながら、ジアは独り言のようにつぶやいた。
鉄板で焼かれるや否や夢中で串を拾い食いするルセテリの周りに人々が一人、また一人と集まり始め、感嘆に感嘆を重ねていた。
空になった串を集めておく筒が満杯になって入らなくなるほど平らげるのは、不思議さを通り越して十分な娯楽だった。
人々は自分たちの取り分の肉串を食べることも忘れたまま、ルセテリのモグモグと動く口だけをぼんやりと見つめていた。
「いやあ、半端ないな」
「全くだ。果たしてシシケバブを何本まで食べられるだろうか?」
「賭けでもしてみるか? 俺は100本に1万ペラだ」
「今食っただけでも100本は超えてそうなのに何言ってんだ……300本に3万ペラ賭けよう」
「300本? うちのケバブがそんなに小さいわけでもないし、無理だ、無理。150本だ」
そうやって人々はルセテリの食べっぷりを巡って賭けをし始めた。
1万ペラから始まった掛け金は上がり続け、40万ペラにまで到達し、過熱する直前でカルとヘゼルが割って入った。
「これじゃ今日の給料全部すっからかんになっちまうぞ。適当なところでこの辺にして、夜食でも楽しもうじゃないか」
「シシケバブとよく合う冷たいエールも用意しておいたから、今日は飲もうぜ!」
「おお、エールだと。やっぱり分かってるじゃないか!」
あっという間に雰囲気は、ルセテリが何本食べるかという前代未聞の事態から外れ、賑やかにエールとシシケバブを楽しむ方向へと変わっていった。
「それで、今まで何本召し上がったんですか?」
人々の関心がエールの方に向いている隙に、ルセテリにそっと近づいたジアが尋ねた。
人々が言っている100本だの300本だのという数字には意味がなかった。
「知らないぞ?」
「知らないって、食べるのに夢中になりすぎじゃないですか?」
「しょうがないだろ。これめちゃくちゃ美味いんだから。特にこのソース! 芸術だぞ。お前も食べてみろって」
ルセテリはジアの目の前に別の形のシシケバブをスッと差し出した。
今度はサイコロ状に切った肉を、オニョン(玉ねぎ)、カロタ(人参)、ピメント(ピーマン)の順に刺した串だった。
ルセテリが差し出した串をサッと奪い取ったジアは、串の鋭い先端をルセテリに向けて突きつけた。
「いい加減になさいよ! 時と場所をわきまえて食い意地を張ってください! ル先生だけが口を持ってるわけじゃないでしょ!」
「いや……美味いんだから。それに焼いたらすぐに食べなきゃ。冷めたら不味くなるだろ」
「いい加減にしなさいってば! 先生が一人占めしたら他の人たちはどうなるのよ!」
串の先端をルセテリに向けたまま、ジアは横に置かれている空の串を入れる筒を素早く見渡した。
ルセテリがシシケバブを食べる前までは空っぽだった筒は、かなり大きかったにもかかわらず、今は満杯どころかハリネズミのようになっていた。
ざっと見積もって少なくとも500本以上。
賭けをした人の中で近似値でも当てた人は誰もいなかった。
まさか、人間が500本も食べるだなんて想像できただろうか?
おまけにサイズが小さいわけでもなかった。
少なくとも串の長さは、ジアの身長の半分くらいの大きさだった。
一本だけでも十分にお腹がいっぱいになる量のはず。
ルセテリはその大量の肉を一人で全部平らげてしまったのだ。
ブチギレたジアの怒鳴り声を聞いた人々が、一斉にガッハッハと笑い始めた。
「ガッハッハッハ。おチビちゃん、それなら心配しなくてもいいぞ」
「え?」
人々があちこちで爆笑するのに、ジアはきょとんとした。
「ピスタチャの収穫時期が来ると、その前にいつも足りなくならないように十分に準備しておくんだよ。あんたの先生が食べる程度じゃ、食べ物がなくなることはないだろうさ」
さっきルセテリに腕相撲をしようと挑んできた男が、目尻を拭いながらガッハッハと笑って説明してくれた。
それでもジアは『果たして?』という疑いいっぱいの表情で周囲を見渡したが、みんなの反応は一様だった。
誰もが皆、その程度では食べ物が足りなくなることはないという表情。
それでもジアはルセテリをよく知っているからこそ、不安にならざるを得なかった。
[ここにある倉庫を全部空っぽにしても、ルッ様が食べる量には満たないと思うけど……]
[大丈夫だって言ってるじゃないですか。何を心配してるんです?]
遠くで農場の人たちが作ってくれた干し草をプレゼントされてモグモグしていたベッチーが、余計な心配をしているというように顔を上げた。
[私、今までルッ様がお腹いっぱい食べたって言ってるの聞いたことないわ]
[それは……確かにそうですね?]
[もし理性を失って全部食べ尽くそうと飛びかかったらどうするのよ?]
……どうするって、どうしろって?
適当に空気読んでキリのいいところでやめるさ。
ジアの竜言を聞いてもルセテリはむすっとしながら、鉄板の上でジュージューと焼かれている串を素早くひったくった。
『ドラゴンの胃袋は無限空間のように底なしだという事実を知ったら、どんな反応をするだろうか?』
ブルルッ。
一瞬想像しただけでも、ルセテリは身震いした。
火のように怒るのを通り越して、なぜか鞭を持って口からは火炎を吹き出すジアの姿を容易に想像できた。
そもそもドラゴンにとって人間の食事などただの娯楽に過ぎず、生きるために必要なものではなかった。
この事実をもしジアが知ることになれば、それ以上ならまだしも、絶対にそれ以下になることはあり得なかった。
こういう時はただ、
『うーん、言わないでおこう』
それが正解だ。
そこまで考えが及んだルセテリが、肉を一口大きくガブッと噛みちぎった。
炭火の香りが色濃く染み込んだ肉は、口の中に入った途端に肉汁がジュワッと弾け、ソースと絡み合うのが最高に美味かった。
『ああ、マジで……遊戯(人間界への旅行)に出てきて良かった!』
そっとルセテリの顔に笑みが浮かんだ。
「ル~先~生?」
「ゲホッ!」
突然目の前にヌッと現れたジアの顔に驚いたルセテリは、むせたのか顔を真っ赤にしてしきりにゴホゴホと咳き込んだ。
見かねたカイランがルセテリの手にコップを一つ握らせたほど、ひどい咳だった。
問題は、水じゃなくてエールだったってこと?
一口飲むや否や、そのまま吹き出してしまった。
「何だ、これ?」
「エール……ですか?」
何が問題なのかというように、エールを持ってきたカイランは聞き返し、ルセテリをぽかんと見つめた。
何が問題かって? 大問題だろ!!
酒じゃないか!!
慌てる間もなく、ルセテリの顔に真っ赤な紅潮があっという間に広がった。
あ、ダメだ……!




