第112話 帝国の暗い影
「それでもあの人の今のあの姿を見たら、あの時のあの人と同一人物なのかって錯覚しちゃうくらいだよ」
そう話すおばさんの目からなんだか蜂蜜がポタポタと滴り落ちている(愛おしさが溢れ出ている)のは、ただの錯覚だと思いたかった。
こんな場所でまでカップルのラブラブな姿を見たくはなかったんだけどな。
ルセテリは苦い顔をした。
「そんなに、帝国から逃げてきた領民が多いんですか?」
「ああ、多いなんてもんじゃないよ。月に三、四回は必ず骸骨みたいな姿でここまで逃げてくる農奴たちが、一人や二人だと思ってるのかい?」
「そんなにですか?」
「どれだけ生きるのが辛かったら、命がけであのプラヤ川を渡ってくるっていうのさ」
「命がけ、ですか?」
「ああ。特に川の周辺には帝国軍が目を皿にして見張っているからね。奴らの目を盗んで川を渡るなんて、あたしたちみたいな平民には首を差し出してくるようなもんさ」
おばさんは丘の上にある農場から、下をうねるように流れる川の向こうを物憂げに見つめた。
折しも暗くなった農場を照らすために灯された松明の火が揺らめき、おばさんの横顔を粛然とした雰囲気に染めていた。
「生きた人間だけがここまで来るわけじゃないからね」
特に彼女の最後の言葉に、ルセテリ一行はしばらくむやみに口を開くことができなかった。
あの底に沈んだ魂の数は、ルセテリがわざわざ数えるまでもなく溢れ返っているのだろう。
「チッ」
ルセテリの立場からすれば百年にも満たない短い人生、お互いにそこまで刃を突き立てて殺し殺されなければならないのか、到底理解できなかった。
「本当に問題ですよ。ただでさえプラヤ川の流速が速くて足を滑らせるケースも多いのに、帝国軍の奴らがここに死体を投げ捨てるもんだから、河口に溜まっているんです」
突然音もなく近づいてきたヘゼルが、ジアとルセテリの後ろから二人の肩に手を置きながら現れた。
そのせいで胸の奥に隠れていたドラゴンハートが口から飛び出すところだったじゃないの!
ドキドキする胸を押さえながら、ルセテリがヘゼルをキロッと睨みつけた。
ジアはただでさえ大きな鹿のような目が飛び出さんばかりに見開かれ、悲鳴でも上げそうになったのか両手で口を塞いでいた。
「あ、驚かせてしまいましたか? そんなつもりはなかったのですが」
「そんなつもりはなかったにしても、音もなく突然あんな風に現れたら誰だって驚きますよ」
驚いたなんてもんじゃないわ、ドラゴンハートが飛び出して超珍しい光景をお見せするところだったわよ。
それにしても、ルセテリが気づかないほど気配を全く感じさせないなんて、このヘゼルという男、ただ者じゃないわね?
「申し訳ありません。どうしても追われて隠れるのが日常だったもので、無意識に……」
後頭部を掻くヘゼルは、非常に申し訳なさそうな顔をした。
うーん、いや……そこまで申し訳なさそうにしなくてもいいんだけど。
改めてヘゼルがどうやってここまで流れ着くことになったのかを思い出したルセテリは、なぜかさらに申し訳ない気持ちになった。
「そ、そうだったのですね」
できるだけ遠い山を見つめながら、何でもないふりをした。
しかしあくまでその場しのぎに過ぎず、ルセテリの気まずさを隠し切れるものではなかった。
どうしていいか分からず戸惑うルセテリを見ているヘゼルの方が、かえって落ち着いているように見えた。
「たまには少し気配を出して歩けと注意されたりもするんですが、なかなか難しくて。癖になってしまっていて。申し訳ありません」
むしろヘゼルの方から謝ってきた。
[ちょっと、あいつがこんな風に言ってきたら、俺はどうなるんだよ]
[ルセテリ様がルセテリ様らしいことをしたまでですよ、まあ]
ううっ、この角の折れたユニコーンめ……!
口の中でギリッと何かが砕ける音が聞こえてきたが、大丈夫だ。
自己修復能力が優れているから、これくらい何でもないんだからね?
ルセテリのギュッと握られた両拳に力が入った。
「ル先生のおかげで仕事が早く終わったので、お迎えに上がりました。本音を言えば、ここでずっと働いてみてはいかがですかと口説きたいくらいですよ、ハハ」
硬くなった雰囲気をほぐそうとでも思ったのか、ヘゼルはぎこちない笑いもこぼしてみたが、どうやら逆効果だったようだ。
かえってさらに気まずくなった空気に、頭を掻いていた手をそっと下ろしてしまった。
「そろそろバーベキューの準備もできつつありますから、下りましょうか?」
バーベキューという言葉は、ルセテリにとって魔法のような単語だった。
ヘゼルの口からバーベキューという単語が飛び出した途端、ビュービューと冷たい風が吹き荒れていたようなルセテリの表情が、いつそんな顔をしていたのかと言うようにあっという間に晴れやかに晴れ渡っていた。
「もうそんな時間ですか?」
ニコニコと笑いまで浮かべているルセテリを見て、ジアはブルッと身震いした。
どうやったらあそこまでテンションが急激に変わるって言うのよ……。
ミステリアス極まりないわね。
肉という一単語がもたらす波紋ってやつは。
「本当に仕事が早く終わったね。普段なら少なくともあと一、二時間はかかってたじゃないか」
「本当ですよ。本当に喉から手が出るほど欲しい人材じゃありませんか、シャルパおばさん?」
ヘゼルが横にいたおばさんに向かって、親しげにシャルパおばさんと呼んだ。
おばさんはヘゼルの言葉に積極的に同意するように、腕を組んだまま目を閉じてしきりに頷いた。
「そうさね。シェイク・ミルザ様でさえなければ、あたしも積極的に農場にポストを用意してやるからここに定住しなよって言いたくなるくらいの手際だったよ」
「もしかして失礼ですが、以前農場の手伝いなどをされたご経験があるのですか?」
農場の仕事どころか、荷物を自分で運ぶこと自体が初めてなのよ!
まさか本当にこんな風に叫ぶわけにもいかず……。
適当に、ルセテリは答えの代わりにヘゼルとおばさんに向かってニッコリと微笑んだ。
「お褒めいただきありがとうございます」
「いや、本当にあれはうちの旦那がいないから言うんだけど、あんなにひょろっとした体格なのにあんなに力持ちなんだから、生まれつきなんだねえ、ホホホ」
シャルパの褒め言葉を聞いていると、なんだか褒められているのに妙な部分を感じた。
子供の前では言えないアレというか、とにかくそんな感じ。
「ええっと……ありがとうございます、でも、肉が焼けたから呼びに来たんですよね」
「あたしとしたことが、まったく。長い旅路に不慣れな仕事までして疲れてお腹も空いてるだろうに、あたしが長く引き留めすぎちゃったね。さあさあ早く下りてご飯食べよう~」
無頓着な様子でエプロンの埃をポンポンと払いながら、シャルパがカイランとジアを先立たせ、元気よく丘を下っていった。
「やっぱりあの方には敵いませんね」
私もそう思うわ。
ルセテリは今日、この世で最も強力な存在を悟った。
それは世界の代行者であるドラゴンでもなく、最近最も鬱陶しく小言を言うジアでもなかった。
まさにおばさんという存在。
その強力なおばさんという存在には、この世の誰も勝てそうになかった。
少なくともこの農場にいる間だけは、シャルパの機嫌を損ねるようなことはすまいとルセテリは固く誓った。
「おう、ずっと待ってたじゃないか。肉が全部焦げちゃうところだったぞ」
モクモクと煙が立ち上る薪の鉄板の前で、ジュージューと肉を焼いていた男が嬉しそうに手を振りながらルセテリ一行を歓迎した。
手に長い串を何本も持ち、噛みちぎった男の口元にはツーッと肉汁が流れ落ちていた。
「ああもう、この穀潰し! ケバブをもういくつ食いやがったんだい!」
男の姿を見たシャルパは、両拳をギュッと握りしめて鼻息を荒くしながら男へと近づいていった。
「ちょっと、お客さんもまだ到着してないのに、もう食べちゃってどうすんだい!」
「じゃあどうすりゃいいんだよ。肉が焦げちまうじゃないか」
肉が焦げるのは我慢できないな。
ルセテリは男の気持ちがよく分かった。
「だったら横に避けておいて、お客さんが下りてきたらもう一度鉄板に乗せればいいだけのことじゃないか!」
「ええい……それじゃ肉が不味くなる」
「ああもう、この食い意地! あたしゃもうやってられないよ!」
シャルパは男の広い背中を、埃が出るほどバンバンと叩いた。
背中が痛いのか体をビクッとさせながらも、男は手に持った肉の串を食べるのをやめず、モグモグとあっという間に全部平らげてしまった。
「食って死んだ幽霊は血色もいいって言うじゃないか!」
「はあ、食べてる途中にむせて死んだら、その幽霊の顔が真っ青になって見物だろうね!」
そんな言い訳が通用するおばさんのパワーではなかった。
男はその後もしばらく、シャルパの背中スマッシュと共に小言に耐え忍ばなければならなかった。
「ハハハ。心配しないでください。まだたくさん残ってますから、さあ早く来て召し上がってください」
いつ姿を消していたのか、鉄板の前で串を回しながら焼いていたカルが一行を歓迎した。
「失礼しまーす?」
鉄板の前にこぢんまりと集まっていた人々の間を縫って、肉にテンションが上がったルセテリがいつの間にか皿を持ち、その間を割り込んで入っていた。
獲物を狙う鋭い猛獣の目でルセテリは肉に向かって突進しており、皿の上には瞬く間に串が山積みになっていった。
チラリとその光景を見つめるカイランは驚愕を禁じ得なかった。
「あれほどの量かよ?」
あんた、まだルセテリの真の姿を見てないわね?
ジアは限りなく哀れな目をして、カイランの肩をポンポンと叩いた。
「あの程度だなんて……あれはただの序の口よ」
「序の口だって?」
驚いたカイランがジアの方へ顔を向けた。
商団と移動している間、ルセテリが人間形態にポリモフ(変身)している時はジアの目を気にしてはいたが、ジアとベッチーは知っていた。
これまで見せてきた姿は、ルセテリが食べる量の四分の一にも満たないという事実を。
「元々偉大なるお方じゃないの。『胃』大ってね」
[その通りです。今更驚くことでもないですよ。あれがあの方の本来の姿なんですから]
[ラジスタンで見ていた姿が全部だとは考えない方がいいわ。これまでは肉がなかっただけだからね]
そうよ。肉に向けたルセテリの執念は、まさに追随を許さないんだから!




