第111話 筋トレガチ勢はどんな時代にも存在する
「ヘルスですか……?」
服の裾を掴まれたカイランは、無理やり立ち止まったまま首を傾げた。
「そう。今あの人たちが言ってるヘルスって一体何なんだ? 初めて聞く言葉なんだけど」
思い出せないというように、しばらくじっくりと顎の下に手を当てて考えていたカイランが、突然ポンッと手のひらに拳を打ちつけ、思い出したように口を開いた。
「この前、騎士団に新しく導入した体力訓練用の道具があるって聞いたんですけど、それで体力トレーニングをすることをヘルスって呼ぶって聞いたことがあります」
「……お前、一応は公国の首長の息子じゃないのか? そんな重要なことをなんで忘れてたんだ」
「忘れてたわけじゃないですよ。ちょっと度忘れしてただけで……」
もじもじとルセテリの反撃にまともに答えられていないのが情けない、全く情けない。
こんな奴を公国の後継者に据えなければならないシェイク・ミルザがかわいそうになる。
ルセテリはチッチッと、しっかりしろとばかりにカイランが気づくように舌打ちをした。
もちろん気づいたのか気づいていないのかは分からなかったが、どこかから木の枝を拾ってきたカイランが、地面に絵を描きながら説明を始めた。
「鍛冶屋に特別に注文した同じ重さの鉄の塊を、こういう形の鉄の棒にぶら下げて上げたり下げたりしながら筋肉を鍛える訓練道具だって言ってました」
生まれて初めて見る奇妙な物体が描かれた地面を、ルセテリはしばらく覗き込んだ。
『この絵だけじゃ、パッと理解できないな?』
疑いいっぱいの目で一生懸命木の棒で絵を描いているカイランを見つめたが、絵を描くようなそんな繊細な才能をカイランが持っているはずがなかった。
ルセテリはフゥッとため息をついた。
この絵とカイランの説明だけでは、ヘルスとは何なのか余計に迷宮入りしていくばかりだった。
「違う違う。そんな風に描いたってどうやって理解できるってんだ」
最初にルセテリに話しかけてきた毛むくじゃらの山賊のような男が、後ろから不意に現れ、カイランの絵を見て嘆息を漏らした。
ズカズカとカイランに近づいた男は、カイランの手から棒を奪い取った。
「この部分はこうしてこうやって、これはこう描けば……」
奪い取った木の枝でササッと適当に描いているように見えるのに、太くて無骨な手とは裏腹に、地面に描いているにもかかわらず非常に詳細な絵に仕上がっていった。
「これをこう持って上げたり下げたりすれば、この二頭筋を鍛えることができる。そしてこれをこうすれば腕橈骨筋が鍛えられて」
男の説明はカイランよりも正確で、スッと耳に入ってきた。
「この重さにある程度慣れたら、別の重りを乗せて重さを調節することもできる。これをこんな風に長く作ったものでは、下半身と腰の部分を強化する運動もできるしな。いろいろと活用度の高い器具だよ」
「ようやくある程度理解できました。これを利用して筋肉量を増やしていくのですね」
「その通り。これをシェイク・ミルザがヘルスと名付けたそうだよ。おまけに軍人たちの訓練だけじゃなく、一般人にも使えるように公国のあちこちにジムという場所を設けてくださったんだ」
男はニッコリと笑うと、ルセテリの方へクルリと体を向けて再び尋ねた。
「だからお前を見て一目で分かったのさ。で、いくらだ?」
ニヤリと笑う男の顔に、ルセテリはどう答えるべきか困惑した。
強いて言えば、さっき肩に担いで運んでいた重さの1000倍くらいは軽くこなせるが、それをバカ正直に言うわけにもいかないし。
「うーん、やったことがないのでよく分かりませんね」
「えっ? あんたテランカナから来たんだろ。あっちの公国の騎士訓練所みたいなところにも行ってみたりしたんじゃないのか」
公国の騎士訓練所なんぞに俺が行く用事があるわけないだろ。
あんな男たちの汗臭い場所に行ってみて何になるってんだ。
考えるだけでもルセテリは微かに顔をしかめた。
ただでさえ美味しいものを食べ歩く時間も足りないのに、わざわざ、それもあえて行く理由なんてなかったが、ここではそれでも適当に合わせておくべきだよな?
「大体800から900くらいですかね? やったことがないので正確ではありませんが」
「800から900だと? 見たところそんなに筋肉質ってわけでもないのに、大したもんだ!」
そりゃドラゴンの筋肉ですからね。
ジアが代わりにでも答えてやりたかった。
だが、その気持ちをグッと抑え込み、拳をギュッと握りしめることで代わりとするだけだ。
「才能だな、才能。仕事が終わったら俺と腕相撲でも一勝負どうだ?」
ガッハッハと笑う男の横を、袋を片方の肩に担いで荷車へ運んでいたジアがルセテリにそっと目配せをしながら通り過ぎた。
適当に合わせておかないと、本当にルセテリの正体がバレる直前まで行きそうだった。
「腕相撲よりは……私はバーベキューの肉をたくさん食べたいんですが……」
「ククッ、確かにな。肉は何よりも優先順位が上だ」
幸いにも男は快くルセテリの言葉を受け入れ、頷きまでしてくれた。
「まったく、この人は少し力がありそうに見えると、我慢できずに駆け寄ってウェイトどのくらい上げるかって聞くのが挨拶なんだから」
「何を言うか! 男ならやっぱり筋トレ(鉄いじり)だろうが!」
「アハハ……」
威圧的な太さの腕を目の前に突き出す男は、誇らしげに明るい笑顔を大きく見せた。
やけに白い歯がキラッと光るのは、ただ偶然通りかかった太陽の光が反射しただけだろう?
困惑したルセテリの笑みの中には、困惑が隠されていた。
「ガキンッ!」
「何だ! 痛ってぇ!」
突然男の頭を強打した大きなフライパンの正体に戸惑い、皆が男の後ろを振り返ると、そこにはフライパンを肩に担いでフンフンと鼻息を荒くしている非常にたくましいおばさんが一人、男を睨みつけて立っていた。
「お、お前!」
頭に大きなたんこぶがポコッとできた男は、頭を抱え込みながら神経質に振り返ったが、顔が白紙のように真っ青になった。
「この人が仕事もせずにどこをほっつき歩いてるのかと思ったら、こんなところでくだらない筋肉自慢なんてやってんじゃないわよ!」
「あ、いや、そうじゃなくて……」
「ピスタチャの収穫は時間が命だってこと分かってないの? ここで油を売ってサボってる暇がどこにあるってのよ?」
おばさんの前でタジタジになっている筋肉質な男の状況は非常に面白かったが、それよりあのおばさん、ただ者じゃないってことくらい一目で分かる。
他はともかく、フライパンを持っている腕の筋肉に浮き出た今にもはち切れそうな血管と来たら。
男が虎の前の小犬のようにペコペコしている理由が分かる気がした。
はあ、あの腕で背中をパーンと一発でも殴られようものなら、100ゼロサム(通貨単位か距離の単位)くらいは軽く吹っ飛んじゃうだろうな。
「誤解だ~」
「誤解もクソもあるかい。さっさと袋でも運んだらどうなの?」
「いや、ここのこの若者のおかげで仕事が早く終わりそうだからちょっと……」
「だからって仕事が全部終わったわけじゃないでしょ? さっさと持ち場に戻りなさいよ!」
「わ、分かった……分かったってば」
一目で見るからに重そうなフライパンがスッと少し動いただけで、男は巨体に似合わぬ素早いスピードで逃げていった。
「まったく、あの人は私が小言を言わなきゃ言うことを聞かないんだから、本当に」
男が消えた方向を見つめるおばさんは、両手を腰に当てたまま不満げに短く舌打ちをしていた。
ルセテリは時を逃さず、こっそりとあっちの隅に積まれている袋に向かって足音を殺して移動した。
「あんたがテランカナから来たっていう先生かい?」
「あ、はいはい」
迫力に押される。
なぜか大人しくおばさんの言葉に素直に従わなければならないような気がした。
「うちの旦那が失礼したね。あの人は少し力があるって人を見ると、夢中になっちゃってね……」
「はあ……」
「絡んでるように見えても、他意はないはずだよ。最近あの人がジム? 体力鍛錬室? とかいうところに通い始めてから筋肉を鍛えるのに面白さを覚えたらしくて、少し力がある人を見るとああなんだよ。ごめんね」
「とんでもないです」
「見かけによらず、若者も力がただ者じゃないみたいだからそうしたんだろうね」
おばさんは口元を隠しながらホホホと笑っていたが、中年女性特有の老練な勘というものからは逃れられなかった。
だからといって、皮膚を一枚剥がせばその中にはドラゴンの筋肉がムキムキになってますよなんて言えるはずが……ない、うん、言えるわけがない。
袋を荷車に下ろしながら、両目を青々と光らせて監視している皇女様が怖くてでも口を固く閉ざした。
「最初にあの人、この農場に到着した時なんかはもう見ていられないほどの姿だったんだけど、今じゃ大変身そのものだから、一方では理解もできるんだよ。切なくもあるし」
ホロリ、おばさんは流れる涙でも拭うのか、腰に巻いていた大きなエプロンで目尻を押さえる。
大変身? 何かあったのか??
「初めてここに来た時は、骨と皮ばかりにガリガリに痩せ細っていて、死体が腐りもせずに皮だけ残ってるようなもんで、生きている人間だなんて想像もつかなくて、グールでも現れたのかと思ったくらいさ」
「グールですか?」
「なんだい、怖い話の本なんかに出てくるじゃないか。腐りもしてない死体が蘇って、他の死体を食い荒らす話。あら、知らないかい? 結構有名な子供向けの童話集に出てくる話なんだけどね」
本当に知らないのかというように、疑問いっぱいの顔だった。
グールだなんて……誰の想像力かは知らないが、言葉を聞いただけでも恐ろしかった。
死体を食い荒らす死体だなんて、それも子供向けの童話集に出てくる話だと?
[あ! そういえばお父様からもらった本の中で見たような気も?]
マジか!!




