第108話 帝国の子供たち
えっ? 2年前??
その割にはあまりにも自然すぎないか?
どう見てもここの農場でそれなりの地位もありそうに見えるのに。
好奇心いっぱいの目で、ルセテリがヘゼルをまじまじと観察した。
長時間日差しにさらされて色褪せた茶色のくせ毛、程よく日焼けした肌に降り積もったそばかす、一見すると華奢に見えたが長年の農作業で確実に鍛え上げられた筋肉の硬さが、この農場で十年は働いてきた働き手のように見えた。
それなのにたった2年だなんて!
人間とはかくも環境への適応が早い生き物だったのか?
ルセテリはパチパチと瞬きをした。
「私が少しばかり必死に生きてきたものでして」
少しばかりじゃないだろ、少しばかりじゃ。
皮を剥げば南部の生え抜きだと言われても信じるレベルなのに。
「ヘゼルだけじゃなくて、みんな帝国で相当苦労してきたせいか、ここの生活への適応が早いんですよ」
姿を消していた男が不意に現れ、ヘゼルの肩に腕を回してニコニコと笑った。
「挨拶が遅れました。ここ農場の責任者をしているカルと申します」
男は自己紹介をしながら、ルセテリの目の前に固いタコがしっかりと刻まれた大きな手を差し出した。
「なんせ警戒が厳しい場所なもので、失礼いたしました」
「警戒が、厳しいんですか? 帝国と協定を結んでいる公国なのに?」
「アハハ、はい。どうしても国境がすぐ近くなもので、いろいろと厄介なことが多く起きるんです」
「厄介なこと……」
ルセテリは聞こえないように小声で呟いたが、耳が良いのかカルと名乗った男は彼に向かってニヤリと笑ってみせた。
『お見受けしたところ帝国の方のようですが、ここまで来られても特に何もお感じにならなかったようですね? それとも、情報に疎いのでしょうか?』
挑発しているのか?
そう考えるにはカルやヘゼルの表情があまりにも無邪気すぎるんだけど?
意識とは裏腹に、指先で結ばれかけていた魔法陣をルセテリは慌ててキャンセルした。
いくらマイウェイなドラゴンであっても、それくらいの空気は読めた。
ジアが一生懸命ルセテリの足を踏んづけていなかったとしても、だ。
[もう踏むな。十分に味わったから]
[私にはどこでもむやみに魔法を使うなって言ってたじゃないですか?]
[だからキャンセルしただろ]
[一歩間違えればバレるとこだったの分かってるんですか?]
そんなはずがない。
この世界に魔法が絶滅同然になってからどれくらい経つと思ってる、それに気づくはずが……と考えたことが無色になるほど、ヘゼルの視線はじっとルセテリの指先に向かっていた。
[気づかれたんじゃないですか?]
[コホン、ただの偶然だろ]
[その割には尋常じゃない目つきですけど]
ベッチーの言う通りだった。
ルセテリの指先に留まっていた視線は、しばらくの間ずっと留まった後、かろうじて逸らされた。
その間、背中がぐっしょり濡れるほどの冷や汗が流れ落ちていたのはジアには秘密だ。
「帝国の皇室でクーデターが起きたそうですね」
あ、その厄介なこと。
無駄に緊張して余計なことをしでかすところだったじゃないか。
ルセテリは地獄で蜘蛛の糸を掴んで辛うじて脱出したような気分だった。
すっかり忘れていたが、そんなこともあったな……。
[まさかそんな重要なことを忘れていたわけじゃないですよね?]
[違うって!]
ベッチーの追及に、ルセテリは積極的に違うと言い張った。
ドラゴンのプライドがある、それをうっかり忘れていたから大したことないと言うには、あまりにも面子が立たないじゃないか。
ルセテリの竜言をじっと聞いていたジアの目つきが、尋常じゃない様子で彼を睨みつけていた。
[強い否定は強い肯定っていう言葉がありましたけど]
ギクッ。
ジアの鋭い指摘は、やはり避けられるものではなかった。
「アハハ、はい。その話は聞いたことがあります」
「でなくても時折帝国の領地民たちがこちらへ逃げてきていたんですが、今や完全に群れをなして押し寄せてきているんですよ。その領地民たちを捕まえるためだと言って、逃亡奴隷狩りの連中がしきりに国境を越えようとしてきましてね」
「逃亡奴隷狩り……もしかして、帝国軍のことですか?」
「名ばかりの帝国軍で、チンピラ集団じゃないですか。特に国境に接しているアングロ子爵騎士団の悪名が少々高いですからね」
皮肉るカルの言葉に、ルセテリは激しく同意した。
本当に言葉だけで軍隊とは名ばかりの、やっていることを見れば町の不良と何ら変わりなかった。
少し訓練を見学しただけでも、公国の騎士団が帝国軍に比べて体系的で堅固だということは、通りすがりのカイランでさえ分かることだろう。
「その子爵家の騎士たちが、逃げた領民を捕まえるという口実で度々国境を越えてきては横暴を働くんです。特にピスタチャの収穫期にはピスタチャを狙ってしょっちゅう来てはちょっかいを出してくるもんで、警戒が少し厳しくなっておりました」
心から申し訳ないというように、カルとヘゼルがルセテリとカイランに向かって深々と頭を下げて謝罪した。
考えてみれば、謝罪を受けるようなことではないんじゃないか。
ピスタチャの価格を考えれば警戒するのは当然だった。
おまけに公国へ無断侵入して横暴を働くとなれば尚更だ。
「そういう理由なら十分に納得できる事情ですね。ところで帝国から逃げてきた領民たちなら……難民ですか?」
チラリとルセテリはヘゼルの様子をうかがった。
「大体そんなようなものだと思っていただければ。公国は公式には難民を認めていませんから」
「なぜですか?」
「それは、公式には公国は帝国の友好国だからですよ。領民たちが逃げてくれば、我々は帝国軍に協力する必要があるんです」
悪徳領主の搾取から生き延びるために逃げてきた人々だ。
そんな人々の事情も汲み取らずに再び送り返すだなんて、カイランには到底理解できなかった。
ヘゼルやルセテリに聞くのははばかられたカイランが、ジアの腕をツンツンとつついた。
「何が問題なんだよ?」
問題が何なのかも分からないのが問題みたいに見えるのが問題だとは思わないのかしら?
小さくジアはため息をついた。
やっと九九を暗記するレベルの子供に、国際政治は難しすぎた。
「帝国の法律によれば、領民っていうのは各貴族の領地に属する財産みたいなものだから、むやみに他の地域へ移ることも移動することもできないの」
「どうして?」
「領地民たちが勝手に住む場所を移り歩いたら、領主たちが徴収する税金が減るじゃない? 税金だけじゃなくて、領地で働く働き手たちもいなくなるのに、喜ぶ貴族がいると思う?」
カイランの目線にぴったりの適切な説明だったのではないだろうか。
「物じゃないだろ。人間じゃないか」
ジアの親切な説明にも、カイランは呆れたように開いた口が塞がらないという表情を見せた。
時々見ていると、この子は考えが足りないのか、それともはるか先の未来を見通しているのか分からない時がしばしばあるんだから。
「さすがシェイク様の教育は特別ですね。普通は領地民なんぞと言って、自分たちと同じ人間だとは考えもしないのに」
ヘゼルの言葉が正解だった。
彼らはあくまで代替可能な財産目録にすぎなかった。
良く言えば領地民で、悪く言えばただの奴隷も同然の存在だった。
公国の人々はみんなカイランのようなのか?
領民を貴族と同じ人間だと言うなんて、どこでも見たことのない理想論にルセテリは不思議に思った。
「つまり、あなたも帝国から逃げ出してきた農民の一人ということですか?」
「その通りです。私の場合は帝国の北側にあるアウレリア公爵領の出身なんですよ」
帝国の最北端から最南端の公国までとは!
逃亡者の身分でどれほど険しかったであろう彼の旅路が目に浮かび、なんだかルセテリはヘゼルを不憫に思った。
帝国の首都であるリバーピルからオーギュストたちと脱出し、プレシア公国のテランカナまで来るのはルセテリでさえ決して簡単な道のりではなかったのに。ましてや平凡な人間そのものであるヘゼルが、その遠い道のりを帝国軍の目を避けて逃げてきただなんて……。
普通じゃないだろ。
「はあ、すごいですね」
「すごいだなんて。人の命がかかっていることですから、ただ必死だっただけですよ」
「いやあ、あの時のこいつの姿を見たら、死体が歩いてくるのかと思いましたよ。今でこそただ笑って話せる過去の出来事になりましたけど」
カルの分厚い手がパンパンとヘゼルの背中を何度も叩いた。
ゴホゴホとむせながらも立って持ちこたえているところを見ると、見かけによらずヘゼルの筋力はかなりのものだった。
「ここティシャールには私のように帝国から逃げてきた領地民たちが結構いるんですよ。私が特別なのではありません」
「それでもお前みたいにあの遠い距離から逃げてきた奴は、お前しかいないぞ」
カルの冗談めかした言葉に、ヘゼルは照れくさそうに頭を掻いた。
何でもないように言うのは簡単だ。
それは言葉だから。
しかし、その中にどろりと溶け込んで積み上げられた彼らの物語は、決して軽いとは言えないだろう。
ルセテリは口をギュッと閉ざし、自分でも気づかないうちに拳を強く握りしめていた。
「じゃあ帝国軍が許可もなしに公国領に足を踏み入れてもいいってことか?」
思いもよらない部分から虚を突いてくる点が、カイランらしいというか。
カイランの疑問に、和気藹々としていた雰囲気は一瞬にして冷え込んだ。
「当然あり得ませんよ。友好国とは言ってもあくまで公国の領土、舐めるのもいい加減にしろって話です」
ギリッ。
歯を食いしばるカルの唇の間から、耐えきれないというように怒りが漏れ出た。
「テランカナに伝書鳩を飛ばしておいたので、近いうちにボコボコにされるのは時間の問題です。いっそこちら側には小便もできないくらいに根こそぎぶっ潰してやりますよ」
目をぎらつかせてしっかりと準備を整えているようなカルの眼差しは、いくらすごいドラゴンであるルセテリでさえもチビりそうになるほど殺伐としていた。
「ヒッ」
なぜだか分からないが、その眼差しに怯えたカイランがそっとルセテリの背後に近づき、身を隠した。
『これ、お前の国が勝つって話なんだけど??』
『この子、一体なんでビビってこんなことになってるのか分かんないんだけど?』




