第107話 ティシャール
どうしてあんな子供に育ってしまったんだろう?
間違いなく『人間種の養育のすべて』という本の内容通りに、そっくりそのまま育てたつもりだったのに……。
待てよ、人間種?
ルセテリは素早く肩に掛けたカバンに偽装した亜空間を探った。
この世界で人間を人間種と呼べる存在は、たった一つしかなかった。
手に取った本をまじまじと見つめながら、ルセテリは目をギュッと閉じた。
やはり本の著者は彼の予想通りだった。
ソラレティ様、あなたというドラゴンは一体……。
ルセテリは再び本を亜空間の奥深く、見えないところへ突っ込んだ。
信じてそのまま従ったルセテリ自身の選択だ。
誰を責められようか……。
フォンテンの森を発つ前に投げ渡された本を、疑いもせずにホイホイと受け取ってきたことからして間違いだった。
ルセテリは目をギュッと閉じ、知らないふりをすることにした。
これからしっかり育てればいいさ、これから!
「遅くなりましたが、ティシャールへようこそ。特にプレシア商団の皆様でしたら尚更歓迎いたしますよ」
刃を立てて棘々しく振る舞っていたのはいつの話だったかというように、親切に一行を柵の中の農場へと案内するヘゼルは完全に別人のようだった。
さらにはニコニコと愛想笑いまで浮かべるのだから、明らかにヘゼルの仮面を被った何者かであることは間違いなかった。
「どうかご理解ください。最近しきりに国境を越えてくる帝国軍のせいで過敏になっていましてね」
「帝国軍が?」
「もともと収穫時期になれば頻繁に侵入しては来ましたが、ことさら今年は特にひどくて。帝国に何かあったんじゃないかと思うほどですよ」
帝国の話に、ルセテリとジアは一瞬全身に緊張感が走った。
後ろを歩いているベッチーでさえチラチラと顔色をうかがうほどなのだから、言うまでもない。
「さあ、ここがこのティシャールで一番大きなピスタチャ農場です」
茂みをかき分けたヘゼルが伸ばした指先には、見渡す限りの草原の上にぎっしりと一列に植えられた木々が並んでいた。
初秋にしてはカンカンと日差しが照りつける暑い気候にもかかわらず、木の下では休むことなく人々が動いていた。
つばの広い帽子を深く被った人々の額には大粒の汗が絶えず流れ落ちていたが、気にも留めずに大きな袋の塊を木の下へ運び出すのに忙しかった。
「ああ、ピスタチャは夕方に収穫するんですよ。今はその準備で大忙しの時期なんです」
地面から立ち上る熱気の間を、一筋の涼しい風が吹き抜けていく。
風はピスタチャの木々の間で働いている農夫たちの間をすり抜け、遥か彼方の消失点の端にかかっている太陽に向かって飛んでいったが、やがて届かずに虚しく空中で散り散りになった。
ヘゼルの後について柵を越えた場所は、一目で広い農場を見下ろすことができる小高い丘に位置していた。
黙々とただ働くのに忙しい帝国の農民たちとは違い、きつい仕事をしながらも人々の目は輝き、ゲラゲラと笑い声が柵を越えて響いていた。
彼らに向かって明るい笑顔を浮かべた男は、手を振りながら駆けていった。
「違うわ」
プーの姿のままぼんやりと働く人々の表情を観察していたジアが、呆然と呟いた。
「何が?」
「分からないならいいのよ」
戸惑っているカイランを背に、ジアは男とヘゼルに続いて丘を降りていった。
[変なところで本当に空気が読めない方ですね]
ジアに続いてカイランを通り過ぎながら、ベッチーが皮肉を言った。
「俺が何をしたってんだよ」
悔しそうに泣き出しそうな顔でカイランがベッチーを振り返ったが、すでにベッチーまでもがカイランを丘の上にポツンと残したまま、お尻を振りながら追いかけていってしまった後だった。
「みんなひどすぎるんじゃないのかよ!」
しかしカイランの叫びは遠いこだまとなり、ジアの耳に届くことすらなった。
「お前の目にはだいぶ違って見えるか?」
ルセテリの問いに、ジアは無言で首を縦に振り、視線は通り過ぎる農民たちの顔を一つ一つ逃すことなく観察していた。
「確かに帝国の領民たちよりは表情が良さそうに見えるな。なんというか……しんどそうには見えるが、生き生きと生きているという感じか?」
[その通りです。アルメニアよりもはるかに活気ある感じが伝わってくるようです]
「それに比べたら、確かに帝国ではみんな疲労にまみれた感じがはるかに強かったな」
骨身に染みる真実の言葉に、ジアは唇をギュッと噛み締めた。
悔しいが、ルセテリの言う通り彼らの目には生きていることが幸せだというように生気がみなぎっていたからだ。
それに比べて、帝国の領地民の目は一様に希望も何もなく、死んだような目つきが大半だった。
ジアの口から、羨ましさにため息が漏れた。
「ルッ様の言う通りです。何が違うんでしょうか?」
「人間のことなんて俺が分かるかよ。あそこのヘゼルって男に聞くのが早いだろうな」
ある意味無関心ともとれる彼の言葉に傷ついたジアは、チラリとルセテリを睨みつけもしたが、すぐに諦めた。
自分の心情を理解してくれず皮肉ばかり言うその口調が憎たらしくはあったが、人間でもないドラゴンに理解を求めること自体が間違っていると思えたからだ。
実際ルセテリの言う通り、ヘゼルに聞けばすぐに出る答えのような気もしたし。
警戒していた最初とは違い、今のヘゼルは非常に親切そうに見えた。
「皆さん、表情が良く見えますね」
「そうだろう? 今年はピスタチャが豊作の年なんだ」
ジアの言葉に、前で道を開いていたヘゼルの顔に満面の笑みが浮かんだ。
「豊作の……年なんですか?」
ジアは不思議に思った。
豊作を予測することはできても、豊作になる年だなんて……そんなことどうやって分かるのだろう?
指を口に咥えて小首を傾げるジアを見て、ヘゼルはしまったと思ったようだ。
「ピスタチャは元々、一年が豊作なら次の年は不作になるか平年並みになるんだ。だから分かるのさ」
「ほう。不思議ですね。豊作が交互にやってくる木だなんて」
「農場の横を流れている水路が見えますか?」
ヘゼルが木と木の間にある長く掘られた水路を指差した。
「あの水路に沿って木に水さえしっかり引いてやれば、実が毎年交互に実るんですよ。これもすべてシェイク様のおかげです」
「シェイク様ですか?」
「はい。シェイク様が投資してくださったおかげで、安定してピスタチャを収穫し供給できるようになったんです。プレシア商団で適正な価格で毎年買い取ってくれるので、ここで働く農民たちも安心して働けますし」
「それだけであんな顔になるんですか?」
ヘゼルの説明だけでは納得できなかったジアは、問い詰めるように執拗に食い下がった。
「やはり固定的な収入が入るから生活が安定するだろ。それに収穫した分だけ確実な報酬もあるから、みんな一生懸命なんだ」
「報酬?」
ルセテリでさえ聞き慣れない概念に、聞き返すしかなかった。
「そういえば、帝国にはまだない概念かもしれませんね」
ヘゼルは足を止めると、考え込むように指で顎をトントンと叩いた。
「帝国では領地民たちが生産したものを領主が税金として徴収し、残ったものが領地民たちの取り分じゃないですか?」
ジアとルセテリはヘゼルの言葉に同意し、頷いた。
「ティシャールでは農場は公国の所有なんです。それにプレシア商団で施設や資金を投資して農民たちに仕事を与え、労働に対する対価を現金で支給してくれるんです」
ヘゼルの親切な説明にも、ルセテリとジアの二人はなかなか理解できなかった。
当然のことながら、既存の税金徴収制度を完全にひっくり返してしまう新概念の方式を簡単に理解できるはずがなかった。
ヘゼル自身も初めてティシャールに到着し、完全に理解するまでにかなり時間がかかった概念だった。
「ハハハ。私も初めて聞いた時は何の話かと思いましたよ」
二人のポカンとした顔に、どう説明すべきか困ったヘゼルの指が、そっと頬を掻いていた。
「なんだ、帝国には月給っていうのがないのか?」
いつの間に追いついたのか、息を切らして上気した表情のカイランがヘゼルの後ろから不意に現れた。
それもそのはず、これまでずっとルセテリやジアにバカ扱いされてきたが、ついに挽回するチャンスが巡ってきたのだ。
このチャンスを逃すことこそ、本当のバカだ。
突然どこから湧き出た自信なのか、カイランの腰にピシッと力が入った。
両手を腰に当てて鼻息をフンフンと荒くしている様子が、試験問題10問中たまたま一つ分かる問題が出たからと自慢しているようで、ジアは自然と顔をしかめた。
「月給っていうのはな、経営者が働き手を雇って仕事をさせ、それをまとめて月に一回渡すお金のことだよ」
「……何? 小麦や作物じゃなくてお金だって?」
「最近誰がそんなダサいもんで払うんだよ? 不便なだけだろ」
なんだかやけに見下すような口調が、ジアの神経をチクチクと逆撫でした。
ジアの目尻が不快感をいっぱいに込めてカイランに向かって吊り上がった。
「まさか、帝国はまだそんな未開な方法を使ってるのか?」
やはり空気はどこかへ売り払ってしまったカイランだ。
その二人の間に挟まれてしまい、どうしていいか分からずオロオロしているヘゼルだけが可哀想に見えた。
「そ、それをそんな風に言っちゃダメですよ。未開な方法だなんて……」
「そうじゃないか。まだそんな非効率的な方法だなんて……何でも帝国が最高だとか言いながら」
「プレシア公国だからこそできる方法なんですよ。それに、私も初めてここに到着した時は何の話か理解できませんでした」
「最初は……?」
ヘゼルの言葉に、今度はルセテリの首が傾いた。
もちろん、ヘゼルが元々南部の出身ではないということくらいは、初めて見た時から分かっていた。
ルセテリが不思議に思ったのは、その割にはヘゼルから漂ってくる南部の匂いが濃かったため、少なくともここで育ったのだろうと予想していたからだ。
「ティシャールに来ることになったのは、2年前なんですよ」




