第105話 禁制の副作用
なんらって?」
まるで聞いてはいけないものを聞いてしまった人のように、ルセテリがカイランの方へガバッと顔を向けた。
「聞こえちゃいけないものがしきりに聞こえてくるみたいなんだけど、もしかして俺、幽霊にでも取り憑かれたのか?」
「そんなわけあるか。ただ単に禁制にかけられた副作用だと思え」
「副作用ですか? じゃあ聞き間違えじゃないってことですか?」
よほど衝撃が大きかったのか、カイランの開いた口が塞がって元に戻るまでにはかなりの時間が必要だった。
呆然と立ち尽くすカイランに向かってジアが近づき、彼の肩をポンポンと叩いた。
「幽霊でもないし、幻聴でもないよ。それはドラゴン様たちが使う『竜言』。ドラゴン様たちだけじゃなくて神獣とか、私だって使えるわ」
「ドラゴン様たち? 神獣?」
今の状況がカイランの頭では理解できないのか、しきりに首を傾げてばかりだった。
もちろん、普通じゃないことだから理解しがたいというのはよく分かっていた。
それなりに空気を読んでなんとか頭をフル回転させてみているようだが、最初からそんな機転が利くなら、それはすでにカイランじゃないでしょ。
「理解しようと努力しなくていいよ。ただ受け入れなさい」
「俺の知ってた世界が……ひっくり返った気分だ」
「そうね、どんなだか分かるわ」
「もしかして俺、本の中に憑依したりとかそういうのじゃないよな?」
憑依だなんて、いくらなんでも飛躍しすぎじゃない?
「残念ながら現実よ? そろそろしっかりしたら?」
「信じられない……」
「分かるわよ、その気持ち。でも現実なんだから、いい加減にして戻ってきたらどう?」
「ル先生が実はドラゴンで、お前は帝国の皇女で……あいつは何だ? 神獣??」
カイランは人差し指をスッと持ち上げ、ベッチーを指差した。
「見た目は普通の馬みたいに見えても、神獣で間違いないわ」
[これでもハンサムなユニコーンなんですよ?]
「そうよ。たまに存在感がなくて忘れちゃうけど」
[そ、そんな殺生な]
ベッチーは悔しそうに吠えたが、そんなことはどうでもいい。今はそれが重要なことじゃないでしょ。
未だに夢でも見ているような虚ろな目でポカンと突っ立っているカイランに向かって、ジアは平手打ちを食らわした。
「パシッ! パーン!」
手に吸い付くような찰진(チャルジン/もちもちした、찰진이라는 뉘앙스를 살려)心地よい肉の音が四方に響き渡った。
背中がボロボロになってもおかしくないはずだったが、カイランの背中は思いのほか硬かった。
力を込めて殴ったにもかかわらず、逆に痛かったのはジアの手首の方だった。
「ここ、現実……だろ?」
「そうよ。だからもういい加減正気に戻ったらどう?」
それでも渾身の力を込めて背中を叩きまくった甲斐はあったようだ。
カイランの目の焦点が徐々に合ってきているところを見ると。
「嵐が……一気に押し寄せてきたみたいだ」
「避けられないなら、ただ受け入れなさいよ」
カイランの肩をポンポンと叩きながら、ジアはもう考えるのを諦めろというように首を横に振った。
最近気づいた事実だが、時には問題に正面から立ち向かうよりも避ける方法もあるということを学んだ。
今のように答えがない場合には特に。
[どうせ考えるってことをして生きてきたわけでもないでしょうに]
ベッチーの言う通り、カイランは考えるよりも先に行動に出るタイプだった。
ベッチーの皮肉交じりの竜言に呆れたようにカイランがベッチーの方へサッと顔を向けたが、ベッチーは鼻で笑いながら首を少し傾げただけだった。
まるで「だから何だ」と言わんばかりに、軽やかにカイランを見下ろした。
「ぐぬぬ!」
ついに馬にまで小馬鹿にされたカイランが悔しそうに歯ぎしりしたが、反論できなかった。
腹は立つが自分でも反論できない事実だったため、ただ見当違いの拳をブルブルと震わせるだけだった。
「やめとけ。お前があいつに死んで生き返ってから飛びかかっても勝てないぞ」
いつの間にかルセテリがカイランの反対側の肩を叩き、ベッチーに向かってカッとなろうとするカイランを止めるために近づいていた。
「たかが馬ごときに……ですか?」
「たかが馬だなんて、それでも神獣だぞ。あいつの蹴り一発で吹っ飛ぶような奴が、どこから来る自信なんだ?」
「そうよ。ベッチーがユニコーンの種族の中でも最弱体とはいえ、あんた一人くらい簡単よ」
ジアの言葉が決定打だった。
よほど衝撃が大きかったのか、ドスンとカイランが地面に座り込んで呟いた。
「俺って……その程度にしかならないのか?」
「人間種の中では悪くない方ではあるが、その程度じゃ猫の爪の垢にも及ばないな。うん、全くその通りだ」
拳で顎を支えていたルセテリはしきりに頷きながら、完全にトドメを刺してしまった。
「強くなりたいか?」
そっと片目を開け、ルセテリはカイランを探った。
よほど自分の実力に自信を持っていたのか、定位置に戻りかけていた瞳孔が容赦なく揺れ動いた。
嘘は言っていない。
今ここで一番弱い人間は誰かと言えば、それはカイランだったから。
「禁制をかけた代わりというか……お前を鍛えて、大陸で一番強い最高の将軍の器にしてやろう」
ルセテリの提案に地面をガリガリと引っ掻いて絶望していたカイランが、目を輝かせてルセテリに向かって尊敬の眼差しを送った。
世界観最強であるドラゴンの教えを受けられる機会など、二度と来るものではなかった。
ルセテリが、この言葉さえ続けなければの話だが。
「こいつがな」
言い終えたルセテリの指先が、ジアに向けられていた。
突然の指名に驚いたウサギのような目、いや斧のような鋭い目でジアがルセテリを睨みつけたが、それだけだった。意外にも静かだった。
「また私ですか?」
「俺がやらせたら、あいつ、確実に死ぬぞ? 人を育てるのはお前の役目だろ」
「……まあ、確かにそうですね」
小さくため息を静かにつくジアが、チラリとカイランを見た。
過去2年間を思い出したからだ。
振り返ってみれば、5歳や6歳の子供に教えるような訓練ではなかった。
背中に重い岩を背負って絶壁を上り下りしたり、冷たい滝の水を一時間以上も息を止めて浴び続けたり、剣一本で山を一つ斬り落とすというような課題を、平凡な人間がこなせるはずが……。
ジアにも、それが正常な訓練内容ではなかったということくらいは分かっていた。
「普通の人間が消化できるくらいのことをやらせればいいだろ」
ニヤリ。ルセテリがジアに向かって笑みを浮かべて見せた。
その表情に嫌な予感を覚えたのは、決してジアだけではなかったはずだ。
背筋を走る悪寒にカイランはビクッと体を震わせた。
[人が一人死んでいくのは時間の問題でしょうね]
ベッチーが哀れむように鼻息を吹き出した。
******
ガタゴト。
ゆっくりと荷車の車輪が、砂利の敷かれた小道を重そうに転がっていった。
ベッチーが荷車を引いて歩く時に鳴る、軽快な「ガタゴト」ではなかった。
ガタッと上がれば、ゴトッ! と落ちる間のタイムラグがかなり苛立たせる。
「おいおい、このスピードじゃいつになったらティシャールに着けるんだ?」
荷台に寝転がって気楽なことばかり言うルセテリが、カイランには憎たらしかった。
こっちは滝のように汗を流しながら、死に物狂いで荷車を引いているというのに。
「今日中に着けるのか?」
世界の尊厳であるドラゴンでさえなければ……。
カイランは万が一失言でもしてしまわないかと、唇をギュッと噛み締めた。
大陸で一番の強さという言葉に乗せられたのが間違いだった。
「それくらいしなきゃ、体にまともな筋肉の一つもつかないだろ?」
その中でも一番我慢ならないのは、何食わぬ顔でベッチーに乗って横を歩いているジアだった。
「その程度もできないの?」と理解できないとばかりに首を傾げる姿に腹が立って仕方がなかったが、カイランはさらに歯を食いしばって無言で荷車を引いた。
強くなりたい。
今よりもっと。
真昼の南部地域の熱気で汗が雨のように降り注ぎ、今にも倒れそうになっても耐えられるのはそれ一つだった。
少しでも力をつけて、目の前にちらつく母さんのような人々を守ること。
カイランがプレシア商団を任され、商団主になりたいと言ったのも同じ理由からだった。
強くなれるのなら、商人ではなく商人の爺さんにだってなれた。
まさかその最初のスタートが荷車を引くことだとは想像もしていなかったが。
取っ手を握って押す手からは、ねっとりとした汗がたっぷりと滲み出ていた。
なかなか滑って掴めない取っ手に一瞬苛立ちがこみ上げた瞬間、カイランの目の前が突然真っ白になった。
「ちょっと、しっかりしてよ」
「うぇえ……」
人間の口から出たとは思えない、オークの豚の首を絞めるような声が響き渡った。
「吐きそう……」
「うーん、この程度で早くもダウンなの?」
カイランの体に馬乗りになったジアが、パチンパチンと容赦なくカイランの頬をひっぱたいた。
「人間でもない……」
[どうせここで人間なのはお前だけですけどね]
ベッチーの皮肉にカイランは戸惑うしかなかった。
人間が俺一人だなんて……それじゃあ、ジアも?
「何よ、その目は。私は人間よ?」
[いやいや……ジア様くらいになれば脱人間級ですよ。世界で唯一の魔法使い様なんですから]
「魔法……使い」
もはや本当に限界だ。
カイランの頭で受け入れるには情報の量が多すぎて、この短い時間に理解するのは無理だった。
ドラゴン、聖獣、そして魔法使い。
一話の間に全部引っ張り出すには、あまりにも膨大な事件がパンパンと爆発しすぎじゃない?
グルルル、カイランは再び気絶したかった。
今自分の胸ぐらを掴んで揺さぶっているジアでさえなければ!
「そんなこと重要じゃないでしょ! 強くなりたいって言ったじゃない! この程度、私がやってた訓練量の四分の一にも満たないのよ?」
一体どんな訓練をしてきたんだと、カイランは聞き返したかった。
男である自分ですら手に余って死にそうなのに、ましてや女であるジアが……おまけにまだ10歳にも満たない子供だった。
強くなりたいとは言っても、これはないだろ。
カイランの乾いた唇が動こうとした瞬間、小道脇の茂みの間からカサカサという音が聞こえてきた。
茂みをかき分け、麦わら帽子を目深に被った男が一人、不意に飛び出してきた。
「どうなさいましたか?」




