第104話 ピスタチャの村
カイランは疲れていた。
いや、疲れ果てたと言った方がいいかもしれない。
カイランが許容できる範囲を超えに超えた立て続けの事件に、目の前には諦めという言葉がちらついていた。
地面にドスンと座り込んでなかなか立ち上がろうとしないカイランを見てチッチッと舌打ちをしていたジアは、本来の姿に戻ったルセテリの尻尾を小さな足でグイグイと蹴りながら、ぶっきらぼうにルセテリを呼んだ。
「ルッ様」
「なんだ」
「ルッ様を見上げるの疲れるよ。首が痛い」
「ええーっ? これがどれだけ久しぶりのフルバージョンの状態でのストレッチだと思ってんだよ」
「そんなことより、あいつが魂抜けてるのちょっと見てくださいよ。もうそろそろ人間の姿に戻ったらどうですか?」
「ちぇっ、久しぶりに凝り固まった体を思い切り伸ばせて気分が良かったのにな」
ジアの小言にブツブツ文句を言いながらも、ルセテリはすぐに魔法で金色の粒子を全身にまとった。
やがて、見慣れた銀青色の髪を持つ黒い瞳の美青年の姿へと戻っていた。
人間の姿に戻ったとは言うものの、ドラゴン特有のカリスマが消え去ったわけではなく、むしろ本来の姿を現していた時よりも圧縮されたような存在感が、ルセテリの背後からジワジワと漂ってきていた。
「おい、坊主」
「えっ……はい?」
ルセテリの呼びかけに、純粋に怯えた瞳で自分を見上げるカイランを、ドラゴン特有の縦長に裂けた瞳で睨み下ろした。
「それでもこいつ、ホラ吹きでチャラチャラしてるけど、慎重な時はそれなりに慎重みたいだから、信じてみる価値はあるだろうな?」
「……へっ??」
カイランが回らない頭を必死にフル回転させてみるが、ルセテリの言っていることの四分の一も理解できていない顔をしていた。
そんなカイランに向かって、ルセテリはツカツカと前へ歩み寄った。
「それでも万が一ってこともあるから、このまま放っておくのもちょっとアレだよな?」
「お、俺、口堅いっすよ?」
「俺がそれをどうやって分かるってんだ? お前の口が堅いか軽いかなんて」
カイランの額の真ん中を人差し指で突きながら、ルセテリは眉間をひそめた。
「ほ、本当です! デメステリ様に誓って絶対に口外しません!」
カイランが切羽詰まった声で切実にルセテリに向かって哀願した。
そこでようやくルセテリが自分に向かってどんな魔法を使うか分からないという本能的な危機感を覚えたのだ。
恐怖でガタガタと震えるカイランを見ていると、ジアはカイランが少しだけ哀れに見えた。
その姿はまるで、巨大なグリズリーに遭遇したカエルのように見えた。
いや、むしろカエルに失礼か。
とにかく。
「何するつもりですか?」
実はジアもルセテリが何をするつもりなのか気になっていた。
これまで一度も見たことのない術式が空中に描かれていたからだ。
「禁制をかけておこうかと思ってな」
「禁制? それってどんなサンパプ(包み飯)……じゃなくて、何ですか?」
慌てたカイランの口から、不意に不遜な言葉が飛び出しそうになった。
慌てて口を塞いだおかげで大惨事になるのだけは未然に防ぐことができたが、すでにルセテリの目は細められ、カイランを睨みつけていた。
「お前だったら、出会って間もない奴に最大の秘密を明かすことになったとして、ホイホイ信じられるか?」
フルフル。
「だろ? 当然信じられないよな? だからお前の心臓に、俺の正体についてむやみに口を割らないという約束を刻み込むんだよ」
何か恐ろしいことを何食わぬ顔で平然と言い放つルセテリを見て、ジアが妙な表情を浮かべた。
「そんな魔法もあったんですか?」
「当然だ。これは偉大なる俺様かソラレティ様以外には使えない魔法だからな」
なぜかひどく誇らしげに胸を張るルセテリを見るジアの目が輝き始めた。
カイランが恐怖でガタガタ震えているこの最中にも、この世界で女神の代行者であるたった二人(?)しか使えない魔法という言葉に、一瞬でジアの好奇心を奪い去ったのだ。
ジアの鋭い眼差しが、カイランを取り巻いている金色の古代文字を隅から隅までなぞるように見つめ始めた。
なぜか自分には全く関係ないかのようなジアの行動に、カイランは悲しくなった。
もちろん、心臓にあんな奇妙な文字を刻み込まれたらどれほど痛いか想像もつかず、恐怖で全身の毛が総毛立ったが、それとは比べ物にならないほどの寂しさが波のように押し寄せてきた。
「い、痛い、ヒック、痛いんですか?」
カイランはカイランらしくなく、ヒックヒックと泣き始めた。
「お前なんで泣いてんだ?」
「心臓に刻み込むって、ヒック、言うから……どれほど痛いか想像が、グスン、つかなくて」
「はあ……?」
ルセテリはしばらく呆気にとられた。
一体何て恐ろしいことを?
パチパチと瞬きをしながらカイランをじっと覗き込んだ。
すっかり怯えきったこげ茶色の両瞳からは、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちていた。
「グスン、胸を開いて心臓に刻み込むってこと……じゃなかったんですか?」
「なんて恐ろしいことを! 俺は薬師であって医者じゃないんだぞ? 俺だって血を見るのは嫌なんだからな!」
真顔になるルセテリを前にしてもすぐには信じられないカイランの瞳が、キョロキョロとせわしなく動いた。
「あんたが想像してるようなこと、起きないから」
カイランの瞳と視線が合ったジアがきっぱりと答えた。
「刻むっていうのはただ魔法で書き込むっていう意味であって、実際に傷をつけて刻むっていう意味じゃないんだからね」
ジアの言葉を聞いてようやくカイランの泣き声が止んだ。
そんなカイランの態度にルセテリは呆れ果てた。
『今こいつ、俺の言葉は信じられないけど、ジアの言葉は聞くって言ってるんだよな?』
『なぜかモヤモヤと腹が立ってくるんだけど?』
ルセテリは非常に後味が悪かった。
苦い顔をしながら、カイランが泣いたせいで中断されていた魔法の詠唱を再び続けた。
空中に金色に鮮やかに浮かび上がった文字たちが、描かれた図形の線に沿って順番に配列されていくと、次第に小さくなり、カイランの心臓付近で位置についた。
「メトリーゼ、シュバル」
光の粒子たちがルセテリの詠唱の終わりと同時にカイランの体の中へとスッと吸収された。
カイランは瞬きをした。
どこかが痛んだり血が出たり、そんなことは起こらなかった。
ただズキンと、心臓が一度締め付けられるような感覚があっただけで終わりだった。
「こ、これで終わり?」
「なら何を期待してたんだ? 禁制の魔法が拷問にでもなるとでも思ったのか?」
「違うの?」
「……俺を何だと思ってるんだ? 子供をいじめるような趣味はないんだぞ?」
ルセテリの言葉を聞いた後になって、ようやくカイランは安堵のため息をつくことができた。
昔話の中で聞いていたドラゴンたちは、どれも一様に性格の悪い悪役として描かれていることが多く、自分もなす術なくいじめられて捨てられるのだと思っていた。
「あ!」
突然何かを思い出したように、ルセテリは拳でもう片方の手のひらをポンと叩いた。
「代償というか、お前には禁制がかかっているから、誰かに俺について話をしようとしたり、魔法について言おうとしたりすれば、言葉の代わりに別の音が出ることになるぞ。うーん……例えば、カエルの鳴き声とかな」
「カエル……」
「そう。言葉の代わりにゲロゲロとカエルの鳴き声が飛び出すから、口をむやみに動かさないように気をつけるんだな~」
カエルの鳴き声という言葉に目を丸くしたカイランは、慌てて両手で口を塞いだ。
ある意味、肉体的な苦痛よりもこっちの方が残酷なんじゃないの?
カイランは喉まで出かかっている言葉をそのままゴクリと飲み込むしかなかった。
口ではニコニコと笑っていたが、目は絶対に冗談ではないと恐ろしく睨みつけているルセテリを前にして、さすがにむやみに口を動かすことは難しくなったからだ。
「そうそう、いい子だ。やっと少しは聞き分けが良くなったみたいだな。もっと早く禁制の魔法をかけておくべきだった」
両手を腰に当てて満足げな顔をしているルセテリを、ベッチーとジアは何か言いたいことは山ほどあるが、さすがに言えないというように互いに目配せをしていた。
[ただ体に衝撃を与えたり、どこかが痛むようになったり、そっちの方がマシだと思えるのはおかしいですかね?]
[いや、私も似たようなことを考えました。いっそ精神的な苦痛よりも肉体的な苦痛を感じる方がマシじゃないかって。カエルの鳴き声だなんて……]
ジアは哀れな目でカイランを不憫そうに見つめた。
もし今の状況がジア自身の身に起きたことなら、口からカエルの鳴き声が飛び出すたびに死ぬほど恥ずかしくなるだろう。
もちろん、そんなことが起きないように禁制を守ることが先決だろうが。
[ゲロゲロ鳴きたくなければ禁制を守ればいいだけのことだ。それがどうしたって言うんだ]
気分が良さそうにニコニコしているルセテリが二人の竜言を聞き、一言付け加えた。
[それに禁制をかけたおかげなのか、この若造にも今や竜言が聞こえるようになったみたいだな?]
瞬く間に三人の視線が、両手で口を塞いでいたカイランへと集まった。
大きく見開いた目で瞳だけをせわしなくキョロキョロと動かして顔色をうかがっていたカイランは、一瞬息をすることさえ忘れていた。
息が喉まで詰まりそうになった頃になって、ようやく堪えていた息を一度に吐き出し、再び呼吸を始めた。
今、何だ??
聞き……間違えたんじゃないよな?
口を動かした者は誰もいなかった。
間違いなくジアとルセテリの声を自分の耳でハッキリと聞いたのは確かだ。
そして謎のもう一つの声も。
「俺、ついに頭おかしくなったのか?」




