第102話 魔法が解ける瞬間
カイランの非常識なマナーに腹を立てたジアは、カイランの差し出した手を力一杯ひっぱたいた。
渾身の怒りを込めた手の甲スマッシュを食らったカイランは、自分が何をしでかしたのかも分かっていないのか、ポカンと目を丸くするだけだった。
「その汚いものをどこに突き出してんのよ?」
「これ、お前のじゃんか」
「ちょっと、この……!」
後頭部がズキズキと痛む。
できることなら、このまま首の後ろを押さえて倒れてしまいたい。
わざとやろうとしても難しいってのに。
「あんた、マナーはどこに置いてきたの?」
「何が?」
「いくらなんでもこれはちょっとひどいと思わない?」
「ひどい? どこが?」
「せめて綺麗に洗ってから返すとは思わないわけ?」
「あ……そういうこと?」
今更になって気づいたというように、手の甲を思い切り叩かれて落としたハンカチを拾い上げるカイランを見て、思うことは一つだった。
『ただ考えるのをやめよう! 野生の猿だと思えばいい!』
こんな基本的な常識すら知らないという事実に、ジアはため息をついた。
一体どこからどこまで教えてやらなければならないのか、気が遠くなるばかりだった。
ジアがどう思おうが、カイランはしばらくぼんやりとハンカチを見つめていた。
さっきから目を引くものがあったからだ。
滑らかなシルクのような綿の感触、平民には手の届かないレースが装飾された縁、そして何よりも片隅に透き通るように刺繍された黄金色のドラゴンの紋章。
「これ……帝国の皇室でしか使われない品じゃないか?」
ハンカチをいじっていたカイランのかなり鋭い観察眼が、ハンカチの真価を見抜いてしまった。
ハンカチのような些細な物にまでは気を配れていなかったルセテリとジアは、カイランの聞き捨てならない発言にギクッとし、当惑の色が顔をよぎった。
「見、見間違いだろ」
「いや。この感触、この厚み……間違いない。一般の庶民が持ち歩けるような代物じゃないぞ?」
[意外にも商人としての眼力はかなりのものじゃありませんか?]
ベッチーが割って入り、カイランの眼力を持ち上げた。
しかし、
[ダメだ。それでは……]
ベッチーの言葉に、ルセテリは頭を抱え込んで絶望しているような様子だった。
[ルッ様。やらかしたの?]
[いや、そういうわけじゃ……]
今更違うふりをしてしらばっくれても丸見えだ。
間違いなく何か企んでいたに違いないと思われる行動だった。
[何ですか、早く吐いてください]
[やっぱり何かされたのですか?]
[いや、それが……]
手で口を覆いながらルセテリは小声で呟いたが、ジアとベッチーは耳がかなり良い方だ。
つまりそれは、
[全部聞こえてますから、さっさと話しなさいよ]
ジアは腕組みをしてルセテリを睨みつけた。
脅迫のように聞こえるだろうが、脅迫で間違いない。
ビクビクして隠しきれないことを必死に隠そうとするより、いっそ清々しく一回怒られて打ち明けて進んだ方がマシじゃないの。
[実はシェイクから頼まれたことがあってな]
[どんな頼みごとを……いや、なんだか分かりましたね]
[ど、どうして?]
[どうしてって何がどうしてですか。決まってるじゃないですか。カイランがシェイクになれるように手助けしてくれってことでしょう]
ジアの核心を突く言葉に、ルセテリは息を飲んだ。
いや、今までの会話とルセテリの行動からして、気づかない方がむしろおかしいんじゃないのって。
[ど、どうして?]
[どうしてって、決まってるでしょ。カイランがシェイクになれるように手助けしてくれって言ったんでしょ]
[コホン……]
バツが悪くなったルセテリが無駄に空咳をしてみたが、ジアの睨みつけるような視線からは逃れられなかった。
「通りすがりの貴族様にもらったんだよ」
ルセテリとの逃亡生活の中で得たものが一つあるとすれば、それはおそらくしらばっくれること(オシドリの足を出すこと)だろう。
今や厚かましい顔で何食わぬ顔をして嘘もポンポンとよく吐き出した。
もちろん、相手によっては通用しない時もあるだろうけど。
「これ、刺繍でイニシャルも刻まれてるし、何よりここのこの紋章。皇族しか使えないものだぞ?」
あまりにも白痴美に満ちていて忘れていたが、すべてを見透かすことができる眼力を持ったカイランに通用するはずのない言い訳だということは、ジアも分かっていた。
「お前、皇女だろ?」
カイランは人差し指をスッと持ち上げ、ジアを指差した。
これはもう、言い逃れできずにバレる状況ってこと?
「ぼ、男だってば」
わざと知らないふりをして、ジアはカイランの視線を避けて顔を横に向けながらしらばっくれたが、分かっていた。
すでに無駄なあがきだということを。
[ただ全部話しちゃうのはどうだ? どうせ南部は首都のリバーピルから遠く離れた場所だから、まだ知らないかもしれないし]
ルセテリまでもが諦めたようにジアを説得し始めた。
[全部打ち明けるんですか?]
[カイランに隠したところで得することはないだろうし、別に教えちゃっても構わないんじゃないか?]
それはつまり、敵対するくらいならいっそ清々しく打ち明けて味方に引き入れてしまった方がはるかに得になるという意味だった。
ルセテリの意見には、ジアも特に反対ではなかった。
ただ、今更「実は女の子でした」と打ち明ける状況が少し気まずいというか、これまでの行動が一つ一つ思い浮かび、ジアは顔が火照るほど恥ずかしかった。
「僕が皇女だったら、何が変わるのさ?」
「いや? 変わることはないだろ?」
カイランの答えは、空気が抜けた風船のようにジアの緊張感を一瞬にして崩れ去らせた。
一方では安心したというか、それとも寂しさが押し寄せてきたというか。
なんだか分からない名残惜しさに、ジアは複雑な心境だった。
「あ、そう?」
虚脱した表情で、ジアはドスンと荷車に腰掛けた。
もしかして正体がバレるのではないかと戦々恐々としながら恐怖に震えていた自分がバカみたいだった。
「実は皇女がベビーシッターに誘拐されたっていう噂は聞いてたけど、帝国軍に知らせるつもりはないよ。そんなことしたら俺の首がどうなるか分かったもんじゃないからな。俺は自分の命の方が大事なんだ」
カイランの視線がさりげなくルセテリに留まっているのを見ると、ルセテリの正体も大体気づいているのは明らかだった。
「よく分かってるじゃない?」
「あんな恐ろしいオーラを放ってたら、気づかないわけないだろ?」
「僕はバカだから気づかないと思ってたけど」
「そこまで空気が読めないわけじゃないぞ。その馬も普通じゃないしな」
『もちろん、それだけじゃないけど……』
自分の頭では到底ルセテリの本来の姿が何なのかを見極めることはできなかったカイランは、口に出せない言葉を声に出さずに呟いた。
逆らえば死ぬ。
恐ろしく放たれるルセテリのオーラがなかったとしても、カイランは帝国軍にジアがここにいることを知らせるつもりは毛頭なかった。
誰の得になるって皇女がここにいることを知らせるっていうんだ?
ただでさえ南部では帝国に対する民心がどん底なのに、知らせたところで良いことなど一つもないという事実をカイランはよく分かっていた。
無駄に面倒な事が増えるのが関の山だった。
「でも、この馬は何なんだ? 頭に角が生えてるけど」
「見れば分からない? ユニコーンだよ」
カイランの前でこれ以上隠し立てすることが無意味だと悟った瞬間、ジアはすぐに肩の力を抜き、そっけない態度に豹変した。
長い間張り詰めていた緊張の糸が切れたように、普段皇宮で見せていたあの冷徹なジアに戻り、これ以上隠そうとする努力すら見せなかった。
むしろジアの答えに驚いたのはカイランの方だった。
童話の本でしか見たことのない伝説の動物、ユニコーンだなんて。
「ヒヒーン。ブルルッ」
竜言しか話せないベッチーは、鼻息を鳴らすことで返事に代えた。
「……えっ、マジで? 本当にユニコーンなんているのかよ?」
当然の反応だった。
「少年よ、世の中には説明のつかないことが山ほどあるのだよ」
カイランの後ろから、ルセテリがカイランの肩に手を置いてポンポンと叩いた。
目で見てもなかなか信じられないカイランのために、もう一度ルセテリは軽く指を鳴らした。
どこから現れたのか、瞬く間に集まってきた金色の美しい粒子が、ジアの周りをキラキラと輝きながら現れ始めた。
華やかな光の粒がぶつかり合って輝きを増していくと、ジアの頭の上から下へと舐めるように降りていき、茶色いボサボサ頭にそばかすだらけの男の子の姿から、サラサラの黒いボブヘアに雪のように白い肌、黒曜石のように真っ黒で丸い目を持つ女の子へと変えてしまった。
魔法が解けたジアの姿に、カイランはポカンと口を開けた。
ルセテリがチラッとカイランを見ると、ほう、このガキ?
頬を赤らめてすっかり見とれているところを見ると、惚れたな?
いや、最初から興味を示してはいたか。
とにかく。
「よだれ拭けよ?」
「え? よだれ?」
ルセテリの言葉にハッと我に返ったようなカイランが、手で口元をスッと拭った。
「これ、一体どんな妖術なんですか?」
妖術だなんて。
この偉大なるドラゴンの魔法を何だと思って、そんな取るに足らない……あ、違うな。
考えてみれば、この時代は魔法というもの自体が伝説だったんだ。
初めて見たらあんな反応になるのも無理はないか?
「妖術じゃなくて魔法。こういうの初めて見るだろ?」
カイランが激しく首を縦に振った。
その反応に何か得意げになったルセテリが、腕をグッと前に突き出した。
「よく見とけ。これが魔法ってやつだ」
光の粒子が集まってきて腕の周りの空中に図形を描き出したかと思うと、やがて手の中で小さな炎が燃え上がり始めた。
「うわぁ!」
目をキラキラと輝かせているカイランの反応に、ルセテリは無駄に得意になって有頂天になった。
小さな炎はあっという間にカイランの背丈ほどに勢いよく燃え上がり、やがて森全体を飲み込んでも飽き足らないほどの火力でメラメラと燃え盛った。
二人の目が次第に狂気に染まりかけていた頃だった。
突然ルセテリの後頭部を強打する強力な一撃が飛んできたのは。
「頭おかしくなったんですか? 今すぐ呪文を取り消しなさい!」
そこには、両目を吊り上げて恐ろしい顔で睨みつけるジアが立っていた。




