第10話 とにかくモンスターペアレントが問題だ!
コセン公国から来たというこのシッターの女を目の前から消し去りたかった公爵だが、確固たる証拠がない以上、これ以上言い張ることもできず、ギリッと歯ぎしりした。
「とにかく、この恩知らずな女が我が公爵家を侮辱したのは事実ではありませんか」
どうしても言い張りたい公爵が、無理な言いがかりをつけた。
「私がどのような形で公爵家を侮辱したとおっしゃるのでしょうか……?」
ルセテリは首を傾げた。
あの時の状況を振り返ってみれば、先に侮辱したのは公子の方ではなかったか。
「皇室の礼法もろくに知らない分際で、教えようとしたと聞いた」
「ですから、どのような形でと伺っているのですが?」
あの公爵家の人間は礼法書をろくに読んでいないのか、なぜあんなことを……。皇帝は公爵の理不尽な言いがかりに、危うく吹き出しそうになった。
ここで何が問題なのか、公爵ただ一人だけが気づいていないようだった。
「当然、貴族が通りかかれば先に頭を下げて挨拶するのが礼法なのに、お前はむしろ頭を高く上げて脇へ退き、挨拶を拒んだそうだな?」
「ああ、あの時のことですか?」
ルセテリはわざと手を叩き、あの時のことを今思い出したかのように振る舞った。
『ロッ様、うそつき』
『ああいう貴族を相手にする時は、たまには嘘も必要なんだよ』
『でもロッ様、あの時ただあの子をぶっ飛ばしたかっただけじゃないの?』
ジアの的を射た一言に、ドラゴンの良心が少しチクリと痛んだが、知ったことか。
公爵はルセテリが思い出したという言葉に、一瞬顔を輝かせた。
ついに尻尾を掴む絶好の機会を得たと言わんばかりに、口角が上がっていた。
だが、どうしたものか。
「ところで、公爵家が……直系の皇族よりも序列が上でしたでしょうか?」
首を左右にこてんと傾けながら質問するルセテリに、公爵は何の質問なのか理解できていないように見えた。
「何を馬鹿なことを!」
「そうではありませんか? あの時、確かに私は皇女様と一緒に廊下を歩いていた途中だったのですが、その場合、直系の皇族の序列が公爵家よりも高いのですから、先に頭を下げるべきなのは公子の方ではないですか?」
普段からどれだけ皇族を無視する行動を多く取っていれば、あんな態度になるんだ?
ルセテリの痛烈な質問攻めに、公爵はアワアワと言葉を繋げずにいた。
返す言葉がなくなった公爵の口からは、結局怒声が飛び出した。
「皇室の礼法もろくに知らない平民の分際で、教えようとする気か!」
「プッ!」
ついに皇帝の笑いが唇から吹き出した。
「陛下!」
「ああ、すまない、公爵。しかし、ルティアの言葉が正しいようだが」
「今、帝国で陛下に次ぐ公爵家の当主である私ではなく、あんな平民の味方をするとおっしゃるのですか?」
「いや、だから……平民にもそれなりの事情があるわけで」
皇帝は拳でも口に突っ込んで、こみ上げる笑いを飲み込んでしまいたいほどだった。
「何をおっしゃるのですか! 悠久の歴史を持つ我が公爵家が間違っているとでも?」
「だから、その帝国の皇室礼法書によれば……」
「ええ、ですからその礼法書に従い、あの卑しい者が我々に礼を尽くすべきだと言っているのです!」
公爵はもはや皇帝の言葉を聞いていなかった。
礼法云々とルセテリを咎める前に、皇帝の言葉を遮った時点で、すでに公爵は礼法に違反していた。
「礼法書第1章32ページ、『道を歩いていて高位貴族に遭遇した際は、位階が下の者が上の者に向かって先に礼を示す』。そうですよね?」
正確にページ数まで言及するルセテリを、公爵は唖然として口を開けたまま見つめていた。
「その帝国皇室礼法書の著者が、そこにいるルティア・イルミネタ嬢なのだよ」
皇帝のその一言は爆弾だった。
帝国貴族の必読書である帝国皇室礼法書の著者だなんて!
口が十個あっても、アウレリア公爵が反論する根拠を出せるはずがなかった。
「見る限り、折れたと言っていた公子の手足も無事なようだし、礼を尽くさなかったというには、公子の方が先にミスをしたようだが。どうだ、公爵。この辺りにしておいては」
「ギリッ。ジェレミア!」
言い返す言葉を失った公爵は、矛先を息子のジェレミアに向けた。
「そ、えっと、皇女様がおられることに気づかなかったようです」
死んでも「失礼しました」という謝罪の言葉は口にしないってことだな?
しかも敬語の使い方もめちゃくちゃだったのに、公爵はその部分について全く気にする様子も見えなかった。
ただ早くこの状況から逃れることに必死なようだった。
「他に何か言うことは残っているか?」
事実上の追い出し命令も同然だった。
公爵はこれ以上の言い訳が見つからなくなり、歯ぎしりをした。
次は必ずあの女の首をはねてやる。
口には出さなかったが、表情だけでルセテリは、自分を食い殺したくてうずうずしている公爵の本心を読み取ることができた。
「他に用がないのなら、もう下がるがよい」
「恐れ入ります、陛下。それではこれにて失礼いたします」
ギリギリと歯ぎしりをしながら、何の役にも立たなかった息子の首根っこを掴んだ公爵は、後ずさりしながら部屋から抜け出した。
余談だが、出て行きながらルセテリを険しい表情で睨みつける様子は、近いうちに必ず何か仕出かしそうな人間のようだった。
公爵が執務室を出るやいなや、文官が執務室のドアを閉めた。
中には皇帝とルセテリ、そしてジアだけが残った。
「本当に何をどうされたのですか?」
小さな声で皇帝がルセテリに囁いた。
「礼法云々と言うから、伝統的な皇室の挨拶の仕方を少し教えてやっただけだが?」
知らん顔をして腕を組んだルセテリは、皇帝から顔を背けた。
『ロッ様がキックするところ、ジアは見たよ』
『こら、そういうことはいちいち覚えるものじゃないよ』
『でも、本当の挨拶の仕方ってあれで合ってるの?』
ルセテリの手を握って揺らすジアの視線までは、さすがに無視することができなかった。
「ですが、本当にジェレミア公子の手足を折られたのですか?」
好奇心を抑えきれなかった皇帝は、再びルセテリに立て続けに質問を投げかけた。
「だとしたら? 俺を牢屋にでも閉じ込めて拷問でもする気か?」
「ヒッ、まさか。誰が恐れ多くも世界の代行者様にそのような無礼を働けるというのです」
「さっきのあの公爵の野郎はそんな勢いだったぞ?」
アウレリア公爵の気性を知っている皇帝は、さすがに違うとは言えなかった。
静かに沈黙を守っている皇帝を見て、ルセテリは情けなさに再び大きくため息をついた。
「心配しなくても、俺がやったという証拠一つ出せないだろうから、心配しなくていい」
それこそ、いつ折れたんだと言わんばかりに綺麗に治しておいたからな。
皇帝はルセテリの言葉に、不安を一つ手放したような表情を浮かべた。
「どうして俺の心配をするんだ」
「いえ、心配というわけでは……あのアウレリア公爵にはお気をつけください」
「何に気をつけるんだ? 何だ、あいつが俺を殺しでもするって?」
いや、たとえアウレリア公爵がルセテリを殺してやると襲いかかってきたとしても、どうしてドラゴンを殺すことなどできようか……皇帝は恐れ多くて言葉に出すことさえできなかった。
「うむ、不可能に思えますね」
「だろ?」
「はい」
「なら何を心配する」
世界に二柱しかいないドラゴンを、完全無欠において右に出る者はいないドラゴンの首をはねるなど、不可能への挑戦がいくら美しいからといって、不可能なものは不可能だった。
皇帝自身が考えても話にならないことだとよく分かっていたため、ただルセテリとジアを見つめてカラカラと笑いを漏らした。
『ロッ様、ロッ様。ジア、自分のお部屋見に行ってみたい』
退屈になったジアがルセテリの服の裾を引っ張った。そういえば、二人はロアンの案内を受けて、皇帝がジアのために用意してくれた本宮のジアの部屋を見に行く途中だったのだ。
誰かさんの邪魔のせいで足止めを食ってしまったが。
「ああ、そういえば本宮の案内を受けておられるところでしたね」
皇帝もまた今思い出したかのように机の上を整理し、席から立ち上がった。
「私が直接ご案内いたしましょう」
「そこまでしなくても……」
「いえ。私が自らジアのために用意した部屋なので、ルセテリ様に自慢したくて」
相変わらず人の良さそうな笑い声を上げながら、皇帝は二人のために自ら執務室のドアを開け、案内するために外へ出た。
外で警備に当たっていた護衛たちは、突然ドアを開けて現れた皇帝に驚き、さらに皇帝が自らルセテリとジアを案内する姿に二度驚き、顔を見合わせた。
『あのね、ロッ様。ママが教えてくれたんだけど、パパはジアのことだーいしゅきだから、パパのお部屋の隣に、ジアのお部屋も大きく作ってくれたんだって』
もみじのような手を握って皇宮の廊下を歩きながら、ルセテリは絶え間なく竜言でペチャクチャとおしゃべりするジアの話に付き合わなければならなかった。
それだけでもルセテリには、ジアが皇帝が手ずから気を使って作ってくれたという自分の部屋に対する期待がどれほど大きいかが分かった。
本宮の奥、皇帝の部屋らしき黄金色の彫刻で装飾された扉を通り過ぎると、その隣に可愛い動物たちで装飾された扉が現れ、その前にロアンが立っていた。
まさか皇帝が自ら二人を連れて来るとは思ってもみなかったロアンは、濃い焦げ茶色の目を大きく見開いて、激しく揺れているのが見えるほど動揺している様子だった。
すかさず腰を深く曲げ、ロアンは皇帝に対する礼を尽くした。
「て、帝国の太陽であられる皇帝陛下にお目にかかります!」
あまりにも力強く、廊下に響き渡るほどだった。
「ははっ、よい。扉を開けてくれ」
手を振って皇帝がロアンに命じると、ロアンはためらうことなく、ウサギとリスが森の中を跳ね回る彫刻が施された扉を素早く開けた。




