第二節 属人的権力の限界――「丞相」では一族を守れない 後編
仮に赤壁の戦いにおいて曹操が勝利を収め、天下統一という歴史的偉業を存命中に達成していたと仮定しよう。一見すれば、圧倒的な武力と権威をもって曹氏の覇権は盤石なものとなり、次代への権力継承も平穏に行われたかのように錯覚しがちである。しかし、中国の冷酷な政治史と権力構造の力学を紐解けば、その見立てが全くの幻想に過ぎないことが明白となる。なぜなら、統一事業の完了とは、軍事的天才である曹操とその強大な軍閥組織が、後漢の朝廷(すなわち献帝とそれに連なる親漢室派の官僚たち)にとって「不要の長物」かつ「最大の脅威」へと変貌する瞬間を意味するからである。
古来より、巨大な功績を打ち立てた臣下が平時においてどのような運命を辿るかは、歴史が残酷なまでに証明している。「狡兎死して走狗烹らる(すばしっこい兎が死ねば、用済みとなった猟犬は煮て食われる)」。この言葉は、前漢の創始者である高祖劉邦の下で天下統一の最大の功労者となった名将、韓信が誅殺される際に残した痛切な叫びである。劉邦は天下を平定するや否や、韓信、彭越、英布といった異姓の功臣たちを次々と謀反の罪に問い、一族もろとも根絶やしにした。建国の功臣ですら、平時においては皇帝の権力基盤を脅かす絶対的な不安要素と見なされるのである。ましてや曹操は建国の功臣ではなく、建前上は既存の王朝(後漢)を補佐する「丞相」に過ぎない。天下が平定され外敵が消滅した暁には、数十万の私兵と圧倒的な威光を擁する丞相は、皇帝の権威を簒奪しかねない最優先の排除対象となる。
天子から任命された官職に過ぎない丞相の地位では、天子の詔一つで合法的に軍事権と行政権を剥奪される危険と常に隣り合わせである。曹操個人が存命中は、その圧倒的な力量によって朝廷を力で押さえつけることが可能であったとしても、彼が病に倒れ、威信に乏しい曹丕が跡を継いだ瞬間、朝廷側は必ずや権力の返還を要求し、曹氏一族の武装解除に動くであろう。抵抗すれば朝敵として討伐され、従順に権力を返上すれば、かつての韓信たちと同様に、後顧の憂いを断つための凄惨な粛清(族滅)が待っている。天下が統一されようが、三国鼎立の膠着状態が続こうが、曹氏一族と彼らに運命を託した巨大な家臣団は、いずれにせよ「後漢の臣下」という枠組みに留まる限り、決して逃れることのできない破滅の罠に陥っていたのである。
この絶対的な死の連鎖を断ち切り、自らの死後も一族と配下の将兵を合法的かつ永久に保全するための唯一の活路はどこにあったのか。それは、天子の恣意的な人事権(任命)に命運を握られる「官職」の体系から完全に脱却し、法的な「世襲」が絶対的に保障された巨大な自立権力圏(領地と私兵)を構築することに他ならなかった。しかしながら、先述した通り、当時の法制度において曹操が有していた最高位の爵位「武平侯(列侯)」は、封地の租税を受け取る権利を有するのみであり、独自の軍隊や広域を統治する官僚機構を世襲する権限は与えられていなかった。
一族と家臣団の生命財産を丸ごと安全に継承させるためには、単なる侯爵という枠組みを破壊し、漢帝国という巨大な国家の内部に、曹氏一族の絶対的な私有物たる「独立国家」を創出する法的な飛躍が必要であった。これこそが、建安十八年(二一三年)に曹操が強行した「魏公」への就任、すなわち公国(魏国)の建国である。
「公」およびそれに次ぐ「王」という最高位の爵位は、列侯とは根本的にその性質を異にする。魏公となった曹操は、魏郡など広大な十郡を自らの「国」として封じられ、さらに後漢の朝廷とは全く独立した形で、自前の丞相、太尉、御史大夫といった国家の行政機構を設置する法的な権限を獲得したのである。これは、これまで漢の丞相府に属していた配下の有能な官僚や将軍たちを一斉に「魏国の家臣」へと身分を移行させ、漢の朝廷から法的に切り離す壮大な人事の防衛戦であった。
そして何よりも決定的な意味を持ったのが、独自の国家を持つことによって「世子(跡継ぎ)」を法的に指名する権利を得た点にある。魏公である曹操が世子を立てれば、曹操が死没した際、その広大な領地と、そこに属する強力な軍隊、精緻な官僚機構のすべては、天子の許可や朝廷の議論を一切経ることなく、自動的かつ合法的に曹丕へと相続される。これによって初めて、曹丕への権力移譲は「法的に保護された既得権」へと昇華し、朝廷側が介入する隙を完全に封じ込めることに成功したのである。さらに曹操は、天子のみに許される九錫(車馬や衣服、楽器などの特別な儀仗)を授かることで、魏国の権威を事実上、漢の朝廷と同格のものへと引き上げた。
しかし、この公国建国という生存戦略は、同時に漢王朝の根幹を成す不可侵の掟を破壊する劇薬でもあった。前漢の創始者である劉邦は「劉氏にあらずして王となる者は、天下これを共に撃て」という「白馬の盟」を定めており、劉氏以外の者が公となって独立した国を持つことは、実質的に王朝交代への布石と見なされる最大の禁忌であった。この一線を越えれば、天下に逆賊討伐の絶好の大義名分を与えてしまうだけでなく、これまで「漢の官僚」として機能してきた士大夫層に深刻な思想的分断をもたらし、国家の行政機能を内部から麻痺させる危険性が極めて高かった。
事実、曹操の覇業を最も長く支え続けた最大の功臣であり、漢の尚書令として国家機構の実務を取り仕切っていた荀彧は、この魏公就任に激しく反対することとなる。彼の反対は、決して「純粋な漢室への忠義」という旧来の感傷的・道徳的な理由からではない。荀彧の眼には、既存の漢の統治機構(尚書台)を中核として全土を統合し、殷の伊尹や前漢の霍光のごとく、その体制の内部で曹氏が実質的な最高権力を握り続けることこそが、最も摩擦が少なく合理的な統治手法であると映っていた。荀彧からすれば、外敵が健在な状況下で、あえて白馬の盟を破り、漢の朝廷と魏の政府という「二重の行政機構」を創出することは、自らが心血を注いで整備してきた国家運営のインフラを破壊し、士大夫層を分裂させかねない致命的な非合理であったのである。
それでもなお、曹操はこの禁忌の扉を開けねばならなかった。それは尽きることのない個人的な野心などではなく、彼自身の寿命という容赦のない時間制限の中で、次代の凡庸な後継者と数万の家臣の命を「官職の限界」という死の罠から救い出すための、冷徹なる防衛の論理であった。属人的な威信から制度的な権力への転換。漢の丞相という仮面を被り続けることの限界を悟った曹操は、荀彧という最大の理解者を失ってでも、「漢の内に魏を創る」という前代未聞の統治機構の変革へと突き進んでいく。次章においては、この曹操が構想し築き上げた、権威としての朝廷(許昌)と実権としての覇府(鄴)が並立する、中国版「二重統治体制」の壮大な設計図と、実務の長である荀彧との間に生じた構造的な衝突について、さらに論を進めていくこととする。
【引用文献・史料】
・陳寿『三国志』魏書 第一 武帝紀
・陳寿『三国志』魏書 第二 文帝紀
・陳寿『三国志』魏書 第十 荀彧伝
・范曄『後漢書』巻九 孝献帝紀
・司馬光『資治通鑑』巻六十六 漢紀
・班固『漢書』巻三十四 韓彭英盧呉伝
・班固『漢書』巻六十八 霍光金日磾伝




