第二節 属人的権力の限界――「丞相」では一族を守れない 前編
建安十三年(二〇八年)、曹操は後漢の最高官職である丞相に就任し、名実ともに朝廷の全権を掌握した。しかし同年冬、長江の赤壁において孫権・劉備の連合軍に歴史的敗北を喫したことは、単なる一局地戦の敗北にとどまらず、彼が描いていた国家構想を根底から揺るがす決定的な転換点となった。赤壁の敗戦は、破竹の勢いで進んでいた中華統一の足止めを意味し、ここに天下三分という長期的な地政学的膠着状態が確定したのである。統一の完了による平和的な体制移行という最善の途が閉ざされたことにより、曹操は自らの権力基盤の「質」という、極めて深刻な構造的問題と直面することとなった。
曹操が築き上げた巨大な権力は、第一義的には彼自身の天賦の軍略、冷徹な政治的決断力、そして「幾多の死線を潜り抜け、常に勝利をもたらしてきた」という圧倒的な個人的威信(属人的権力)に依存していた。統一事業という果てしない勢力拡大の途上においては、この属人的権力こそが最強の推進力となる。麾下の将兵や野心的な官僚たちは、漢の朝廷に仕えているというよりも、曹操という不世出の英雄個人の力量に惹かれ、彼がもたらすであろう恩賞と新たな秩序を期待して付き従っていたのである。だが、拡大が停止し、孫権や劉備との終わりの見えない持久戦へと突入したことで、この属人的権力の脆弱性が露呈し始める。一代の英雄の寿命には限りがあり、その圧倒的な威信は、血の繋がりがあるというだけの理由で後継者にそのまま引き継がれるものではないからだ。
仮に曹操が天下を統一し、太平の世をもたらした上で寿命を迎えたのであれば、次代は既存の官僚機構を通じた平時の統治へと穏やかに移行できたかもしれない。しかし、統一が頓挫し、強力な外敵が依然として存在し続ける状況下においては、後を継ぐ者(曹丕)には、父と同等かそれ以上の強力な統率力が直ちに要求される。百戦錬磨の宿将たちや、権謀術数に長けた士大夫たちを、軍事的実績に乏しい後継者がいかにして心服させ、陣営の分裂を防ぐのか。これを個人の力量のみで解決することは不可能に等しい。属人的権力に過度に依存した統治機構は、指導者の死と同時に急速に求心力を失い、内部崩壊を引き起こすという歴史の必然を、曹操は誰よりも冷徹に認識していたはずである。
この後継者問題をさらに絶望的なものにしていたのが、当時の後漢帝国の法制度に組み込まれていた致命的な障壁である。すなわち、「官職」と「爵位」の決定的な差異という法制史上の構造的欠陥である。後漢の統治制度において、権力と身分を示す階層は大きく二つの体系に分断されていた。一つは、天子から任命されて国政の実務を担う「官職(三公九卿など)」であり、もう一つは、国家への功績によって恩賞として領地(食邑)を与えられる「爵位(二十等爵制における列侯など)」である。
曹操が有していた「丞相」という地位は、前者の官職の頂点に位置する。丞相は百官を統べる行政と軍事の最高責任者であり、事実上、国家の全権を握る職位であった。しかし、官職である以上、その任命権はあくまで法的には天子(献帝)に属している。いかに曹操が丞相として絶大な権力を振るおうとも、その権限は天子の委任に基づく一代限りのものであり、法的に世襲することは絶対に不可能であった。曹操が死没した瞬間、丞相の印綬は朝廷へと返還され、次期丞相を誰にするかの決定権は、名目上とはいえ献帝の手に戻るのである。
一方、後者の「爵位」は、血統による世襲が法的に保障されていた。曹操は建安元年に「武平侯」という最高位の爵位(列侯)に封じられており、これは息子の曹丕に合法的に相続させることができる。しかし、列侯の権限とは、指定された領地からの租税を受け取る権利(食邑)を持つに過ぎず、独自の強大な軍隊や広域を支配する官僚機構を持つことは決して許されていなかった。つまり、曹操が「漢の丞相・武平侯」という立場のまま死を迎えれば、曹丕が合法的に相続できるのは、武平侯としての限られた税収のみであり、数十万の軍勢や中原を支配する巨大な行政機構の統治権は、一切相続できないという法的な空白が生じるのである。
もし曹操がこのまま寿命を迎えれば、どのような事態が起こるか。献帝の側近たちや、漢室への忠義を抱く一部の保守派官僚たちは、この合法的な好機を逃すまい。彼らは天子の詔を利用し、「曹丕は若輩であるゆえ、丞相の重任には堪えない」として、別の人物(親漢室派の重臣など)を丞相、あるいは大将軍などの要職に任命するであろう。その瞬間、曹丕をはじめとする曹氏一族は、合法的に軍事権と政治的実権を剥奪されることになる。実権を失った大軍閥の末路は、歴史が証明している通り、容赦のない一族の皆殺し(族滅)である。外には孫権・劉備という強敵が虎視眈々と隙を窺い、内には不穏な動きを見せる反曹操派が潜む中で、権力の法的空白は即ち死を意味した。
天下統一の失敗は、曹操に対し、自らの絶大な権力を「一代限りの属人的なもの」から、子孫へと確実に継承可能な「制度的なもの」へと至急に変換することを要求した。漢の丞相という既存の枠組みのままでは、どれほど実権を握っていようとも、死後に一族を守る法的防衛線としては全く機能しないのである。曹操が直面したこの深い絶望と焦燥こそが、後に彼をして漢の絶対的禁忌を破らせ、新たな国家の形を模索させる最大の原動力となった。次編では、この絶望的な状況下で曹氏一族が生き残るために必要不可欠であった、天下統一をも超える至上命題「狡兎死して走狗烹らる(功臣の粛清)」危機からの回避と、その究極の制度的解決策について論を深めていく。
【引用文献・史料】
・陳寿『三国志』魏書 第一 武帝紀
・陳寿『三国志』魏書 第二 文帝紀
・范曄『後漢書』巻百十八 職官志
・司馬光『資治通鑑』巻六十五 漢紀
・班固『漢書』巻十九 百官公卿表




