表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
曹操は簒奪者ではない――一族生存を懸けた「覇府」創設と、三国志最大の誤算  作者: えいの
第一章 大義と防衛――なぜ「簒奪」は悪手だったのか

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/5

第一節 最強の政治的切札と「周の文王」の美学 後編

 前編において詳述した袁術の凄惨なる自滅は、既存の統治理念を無視した性急な簒奪がいかに致命的な政治的失策であるかを歴史に刻み込んだ。曹操がこの冷酷な現実を戦略家として極めて正確に認識していたことは疑いようがない。しかし、彼が終生にわたって漢の帝位を簒奪しなかった理由は、単なる外部的な危機回避や政敵への牽制といった消極的な計算のみに帰着するものではない。その深層には、曹操自身の士大夫としての出自に根ざした強烈な自負と、彼が思い描いていた歴史的自己評価に対する独自の美学が存在していた。その本心を最も雄弁に物語る第一級の史料こそが、建安十五年(二一〇年)に曹操自身が天下に向けて発布した『譲県明本志令』(通称『述志令』)である。

 この布告において曹操は、己の権力拡大に対する世間の猜疑心を払拭すべく、極めて異例とも言える率直さで自らの半生と内面を吐露している。彼は若き日に孝廉に推挙されて官途に就いて以来の志を回顧し、「意に於いては春夏は読書し、秋冬は狩猟をして、天下が太平になるのを待とうと思っていた」と述懐する。しかし、黄巾の乱や董卓の専横によって天下が乱れるや、国難に殉じる覚悟で挙兵したことを明かし、さらに当時の究極の目標を次のように記している。「国家のために賊を討ち、功を立てて侯に封じられ、『漢の故の征西将軍曹侯の墓』と自らの墓石に題署されること、それが私の本来の志であった」。

 征西将軍とは、後漢帝国における屈指の武官の栄位である。天下の覇権を握り、すでに丞相の地位にまで登り詰めていた時期の曹操が、あえて「漢の一将軍として死に、墓石にその名を刻まれたい」と公言した事実は極めて重い。これは単なる謙遜や政治的修辞を越えた、彼自身のアイデンティティの根幹に関わる言明である。乱世の姦雄と称されながらも、曹操の精神的基盤は常に「漢帝国の官僚・武将(士大夫)」という枠組みの中にあり、その枠組みの中で最高の功績を挙げることこそが、彼の思い描く最も美しい人生の結末であった。旧秩序を完全に破壊して新たな王朝の始祖となることは、彼が尊んだこの「漢の忠臣としての美学」とは決定的に相反する行為だったのである。

 しかしながら、歴史のうねりは曹操個人のささやかな美学を許容しなかった。幾多の群雄を打ち破り、華北の大半を平定した結果、彼の麾下には数十万の精鋭と、強大な官僚機構が形成されていた。漢室への忠義を証明するために権力を返上し、野心がないことを示すべきだという批判に対し、曹操は『述志令』の中で極めて冷徹な政治的現実を突きつけている。「私がもし軍を手放し、自国(封地)に帰れば、たちまち何者かに殺害されるであろう。己の身が滅びれば国家もまた傾く。ゆえに、虚名(簒奪者ではないという評判)を慕って、実禍(一族の滅亡と国家の崩壊)を招くような真似は決してできない」と。

 ここには、絶大な権力を握ってしまった独裁者が陥る構造的な罠、「騎虎の勢い」が見事に言語化されている。曹操にとって、軍事権を手放すことは即ち、自身のみならず曹氏一族、そして長年彼を支えてきた配下の将兵すべてを政敵の粛清の刃に晒すことを意味した。もはや「漢の忠臣」という精神的次元の欲求だけで、巨大化した軍閥組織の命運を左右することは不可能となっていたのである。彼は生き残るため、そして天下の秩序を維持するために、泥を被ってでも絶対的な実権を握り続けねばならないという、出口のない迷路に踏み込んでいた。

 この「実権を手放せば一族が滅びる」という極限の恐怖と、「漢の忠臣として人生を全うしたい」という個人の美学。この二つの全く相反する命題を同時に解決するための、曹操が行き着いた究極の政治的妥協点こそが、晩年に発せられたとされる「周の文王」という言葉に集約されている。

 建安二十四年(二一九年)、関羽を討ち取った孫権は、曹操に対して臣従の使者を送り、上書して「天命はすでに曹氏にあります。速やかに帝位にお就きください」と勧めた。この書状を見た曹操は、周囲の幕僚たちに向かって「この小僧は、私を火鉢の上に座らせて焼き殺すつもりか」と笑って言い放ったという。皇帝に即位することが、四方から攻撃を受ける絶好の標的(火鉢)となることを、彼は誰よりも理解していたのである。しかし、曹操の幕僚である陳群や桓階らもまた、孫権の上書を奇貨として一斉に帝位への即位を進言した。配下たちの「新たな国家の功臣となりたい」という野心は、もはや抑えきれない沸点に達していたのである。

 この激しい突き上げに対し、曹操が発したのが「若し天命吾に在らば、吾は周の文王たらん」という言葉であった。周の文王(西伯昌)とは、古代中国において天下の三分の二を掌握しながらも、最後まで主君である殷(商)の紂王に臣事した伝説の聖人である。孔子も『論語』泰伯篇において、文王のこの態度を「至徳(最高の道徳)」と絶賛している。文王は自ら覇業の土台を完全に築き上げながらも帝位には就かず、その死後、息子の武王が殷を打倒して周王朝を開いた。

 曹操が自らをこの「周の文王」になぞらえたことの政治的意義は計り知れない。第一に、漢室を重んじる旧来の士大夫層に対しては「自分は死ぬまで漢の臣下であり、絶対に簒奪は行わない」という明確な誓約となり、彼らの離反を防いだ。第二に、新たな王朝の建国を熱望する自軍の配下たちに対しては、「天命が我々にあることは認める。だが、最後の仕上げ(易姓革命)は次代の曹丕に任せる」という強烈な体制移行の指示を与えたのである。

 これは、漢の丞相としての自己の美学を貫徹しつつ、配下の野心を次世代への期待へと転化させ、なおかつ袁術のように諸侯の標的になる危険を完全に回避するという、政治的防衛線の極致であった。曹操は、己の人生を「漢の最後の忠臣」として歴史に刻み込むと同時に、その死後に訪れる必然的なパラダイムシフト(魏の建国)のすべての準備を整えたのである。

 結論として、曹操は漢を滅ぼすつもりはなかったし、事実として滅ぼさなかった。彼の行動軌跡は、野心に駆られた簒奪への準備期間などではなく、崩壊した帝国の中で一族と配下を守り抜くため、そして自らの精神的支柱であった士大夫としての誇りを守るための、極めて精緻で苦渋に満ちた防衛戦であったと評価すべきである。しかし、彼が「漢の臣下」に留まったがゆえに、自らの死後、実権を持たない後継者である曹丕をいかにして守り抜くかという、かつてない法制度上の難題が浮上することになる。この致命的な課題を解決するために曹操が考案し、そして最大の盟友である荀彧を死に追いやることになる未曾有の統治構想「覇府の構築」については、次章においてその全貌を解き明かしていくこととする。


【引用文献・史料】

・陳寿『三国志』魏書 第一 武帝紀(および裴松之注引『魏略』『魏氏春秋』)

・陳寿『三国志』魏書 第二十二 桓二陳徐衛伝

・孔子『論語』泰伯篇

・司馬光『資治通鑑』巻六十六、巻六十八 漢紀

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ