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曹操は簒奪者ではない――一族生存を懸けた「覇府」創設と、三国志最大の誤算  作者: えいの
第一章 大義と防衛――なぜ「簒奪」は悪手だったのか

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第一節 最強の政治的切札と「周の文王」の美学 前編

 後漢末期、霊帝の崩御とそれに続く董卓の専横によって、四百年の長きにわたり天下を統治してきた漢帝国の権威は地に墜ちた。長安への強引な遷都、そして董卓暗殺後の李傕・郭汜らによる内乱は、朝廷の機能を完全に麻痺させた。建安元年(一九六年)、献帝(劉協)は李傕らの手から逃れ、飢餓と戦火の中を流浪の末に旧都洛陽へと帰還する。しかし、かつての繁栄を誇った洛陽は董卓の焼き討ちによって焦土と化しており、百官は飢えに苦しみ、天子を庇護すべき朝廷の基盤は皆無に等しかった。この時、関東に割拠する群雄たちの多くは、天子の窮状を知りながらも動こうとはしなかった。とりわけ華北に強大な勢力を築きつつあった袁紹は、謀臣の沮授から天子を迎え入れるよう進言されたものの、これを退けている。自らの頭上に天子という絶対的な上位者を戴くことは、自軍の自由な軍事行動を掣肘されるのみならず、朝廷の旧臣たちに実権を奪われる危険性を孕む「厄介な荷物」であると判断したためである。武力こそが唯一の正義となりつつあった当時の情勢下において、実体のない権威を軽視する群雄の思考は、ある意味で自然な帰結であった。

 しかし、曹操の政治的慧眼は、彼らとは全く次元の異なる大局を見据えていた。彼は天子という存在が、単なる道徳的な装飾や厄介な上位者ではなく、乱世を制するための「比類なき政治的切札」であることを看破していたのである。曹操の幕僚であった毛玠は、いち早く「天子を奉じて不臣を討ち、農業を修めて軍資を蓄えるべし」と進言し、同じく荀彧も「古の晋の文公は周の襄王を迎え入れて諸侯を従え、漢の高祖は義帝のために喪に服して天下の帰心を集めた」と説き、天子庇護の絶対的な優位性を主張した。彼らの進言を容れた曹操は直ちに洛陽へと軍を進め、献帝を保護して自らの本拠地である許(許昌)へと遷都を断行する。この建安元年の決断こそが、曹操の覇業における最大の分水嶺であり、彼を単なる一地方の軍閥から、国家の正規軍たる地位へと押し上げる決定的な一歩となった。

 「天子を奉ずる」という大義名分がもたらした政治的優位性は、計り知れないものであった。第一に、自らの軍事行動をすべて「勅命(皇帝の命令)」として正当化できる点である。曹操と敵対する者は、その時点で自動的に「朝廷に逆らう賊軍」という烙印を押されることになる。物理的な軍事力で勝敗が決する乱世であっても、兵士や民衆を動員し、税を徴収し、統治を安定させるためには、「正義は我にある」という大義名分(名分論)が不可欠である。天子を擁する曹操は、常に官軍としての正当性を持ち、敵対勢力から大義を奪い取ることに成功したのである。

 第二に、天下の優秀な人材(士大夫層)を自陣営に吸収するための巨大な引力となった点である。後漢帝国は、儒教を国家の統治理念として採用しており、知識人である士大夫たちの精神的支柱には「漢室への忠誠」が深く根付いていた。帝国が衰退したとはいえ、四百年にわたり培われた権威と正統性は、容易に消滅するものではない。曹操が漢の丞相として朝廷の再建を掲げたことで、純粋に漢室の復興を願う忠臣から、曹操の覇業に自らの立身出世を懸ける野心家まで、多様な人材が「漢の朝廷に仕える」という名目の下、許昌に集結した。荀彧をはじめとする優秀な官僚群が曹操の兵站と内政を完璧に機能させ得たのも、彼らが「漢の官僚」としての公的な権限を行使できたからに他ならない。

 武力のみによる支配が限界を迎えることを悟っていた曹操は、漢という既存の巨大な統治機構の「外殻」を維持し、そこに自らの息を吹き込むことで、最小の政治的摩擦で最大の権力基盤を構築したのである。これは、既存の権威を完全に否定し、無から新たな権威を創出するという莫大な労力と危険性を伴う選択(すなわち簒奪)を回避する、極めて高度な政治的方策であった。

 この曹操の現実主義的な方針の正しさを、身をもって証明することとなったのが、彼の最大の政敵の一人であった袁術の自滅である。名門汝南袁氏の嫡流である袁術は、当時、揚州から豫州にかけて広大な領土と強大な軍事力を誇っていた。彼は長安の混乱に乗じて孫堅が洛陽から持ち帰った「伝国璽(皇帝の印章)」を手に入れると、自らこそが天下を統べる天命を得たと確信するに至った。古来より伝わる「漢に代わる者は当塗高(途に高く当たる者)なり」という讖緯(予言)を、自らの字である「公路」と結びつけ、建安二年(一九七年)、ついに寿春において皇帝を自称し、「仲」という新王朝の建国を宣言したのである。

 袁術のこの行動は、曹操の「天子を擁する」戦略とは対極に位置する、既存秩序の完全な破壊と新秩序の唐突な宣言であった。彼は、伝国璽という物理的な象徴と、讖緯説という神秘主義的な予言のみに依存して新たな権威を創出できると盲信していた。しかし、この性急極まりない簒奪劇がもたらした結果は、凄惨なものであった。漢王朝という既存の統治理念を共有していた周囲の全勢力は、袁術の僭称を国家への叛逆とみなし、激しい拒絶反応を示したのである。

 袁術の行動は、敵対していた曹操や劉備に「逆賊討伐」という絶好の大義名分を与えたばかりでなく、自らの陣営内部にも致命的な亀裂を生じさせた。同盟関係にあった呂布は袁術の使者を斬って曹操に結び、配下として事実上の客将であった孫策は、皇帝即位を強烈に非難する書状を送りつけて独立を宣言した。結果として袁術は、四面楚歌の孤立状態に陥り、曹操、呂布、孫策らの包囲攻撃を受けて急速に勢力を失っていく。かつて天下を狙う最右翼と目された名門の雄は、僭称からわずか二年後、行き場を失い、血を吐いて惨死するという悲惨な末路を辿った。

 袁術の凄惨な自滅は、当時の政治力学における一つの冷酷な真理を曹操の脳裏に焼き付けたはずである。すなわち、いかに強大な軍事力を誇ろうとも、そしていかに時代が混乱していようとも、天下の士大夫や民衆の支持(社会的な合意形成)を欠いた状態での性急な「簒奪」は、体制全体の激しい免疫反応を引き起こし、自らを破滅へと導く毒杯に他ならないという事実である。袁術の失敗を間近で観察した曹操は、「帝位(名)」を焦って求めることの愚かさと、「実権(実)」を握り続けることの重要性を誰よりも深く理解したに違いない。自らはあくまで漢の忠臣という建前を堅持し、簒奪者としての汚名を避けながら、実質的な支配権を拡大していく。この袁術という反面教師の存在こそが、曹操をして終生、漢の臣下としての立場を崩させなかった最大の外的要因の一つと言えよう。


【引用文献・史料】

・陳寿『三国志』魏書 第一 武帝紀

・陳寿『三国志』魏書 第六 袁術伝

・陳寿『三国志』魏書 第十 荀彧伝

・陳寿『三国志』魏書 第十二 毛玠伝

・范曄『後漢書』巻七十五 袁術伝

・司馬光『資治通鑑』巻六十二、巻六十三 漢紀

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