表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
曹操は簒奪者ではない――一族生存を懸けた「覇府」創設と、三国志最大の誤算  作者: えいの
序章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/5

序章 第一節 簒奪者か、究極の統治構造構築者か

 後漢末期、黄巾の乱に端を発した未曾有の動乱は、四百年の長きにわたり中華の天地を支配してきた漢帝国の統治基盤を根本から崩壊させた。群雄が割拠し、戦乱が全土を覆う中、類まれなる軍略と政治的洞察力をもって中原を平定し、魏の礎を築き上げたのが曹操(字は孟徳)である。しかし、中華統一の道筋を立て、乱世にひとときの秩序をもたらした彼の歴史的評価は、後世において極めて毀誉褒貶の激しいものとなった。陳寿が編纂した正史『三国志』においては、魏こそが天命を受けた正統な王朝として記述され、曹操もまた傑出した英雄として描かれている。だが、時代が下り、東晋の習鑿歯が『漢晋春秋』において蜀漢正統論を唱え、さらに宋代以降の朱子学による大義名分論が思想的根幹として定着するにつれ、曹操に対する評価は暗転していく。羅貫中の手による『三国志演義』が広く大衆に流布したことで、「漢室を傀儡化し、帝位を簒奪しようと企てた希代の奸雄」という曹操の負の形象は、決定的なものとして歴史の表舞台に固定化されたのである。

 確かに、彼の生涯の軌跡を法制度的な側面から追えば、その行動は簒奪者としての誹りを免れ得ないように見える。建安元年(一九六年)、流浪の身であった献帝(劉協)を許都に迎え入れた曹操は、「天子を奉じて不臣を討つ」という大義名分を獲得した。ここまでは漢室の忠臣としての振る舞いである。しかし、官渡の戦いで最大の強敵であった袁紹を打ち破り、華北の覇権を確固たるものとしてからの彼は、急速に漢の朝廷内での権力を独占していく。建安十三年(二〇八年)には、前漢の丞相であった哀帝の時代に廃止されて以来、長く置かれることのなかった「丞相」の地位を復活させて自らその座に就き、政治と軍事の全権を掌握した。さらに建安十八年(二一三年)には、漢王朝の絶対的な不文律であった「白馬の盟」(劉氏以外の者を王とせず、功臣であっても侯までとする掟)の境界を実質的に踏み越え、「魏公」に就任して九錫という特別の儀仗を受ける。そして建安二十一年(二一六年)、ついに「魏王」にまで昇り詰め、漢の天子とほぼ同等の権威と独立した国家機構を手中に収めた。彼の死の数ヶ月後、長男の曹丕が献帝から禅譲を受けて魏王朝を開国したという歴史の結末から逆算すれば、曹操の後半生におけるこれら一連の行動は、漢室を滅ぼし、自らの一族による新王朝を樹立するための計画的かつ周到な「易姓革命の準備」であったと解釈するのが、古今の歴史学における一般的な見立てである。

 しかし、この「簒奪を企図した奸雄」という旧来の歴史観には、看過することのできない重大な論理的矛盾が内包されている。もし曹操が真に漢王朝の滅亡と帝位の簒奪を目的としていたのであれば、なぜ自らの存命中にその最終的な一歩を踏み出さなかったのか、という根本的な問いである。晩年の曹操は、圧倒的な軍事力と官僚機構を完全に掌握しており、献帝を廃して自ら皇帝を称することは、物理的にも政治的にも極めて容易な状況にあった。実際、孫権をはじめとする群雄や、配下の将官たちからも帝位に就くよう再三にわたる上奏がなされている。この矛盾に対し、従来の史論は「漢朝の権威が未だ残存しており、各地に割拠する劉備や孫権といった敵対勢力に反乱の口実を与えることを恐れたため」あるいは「歴史に簒奪者という悪名を残すことを心理的に躊躇したため」といった、状況論や主観的な感情論に帰着する推測によって説明を試みてきた。

 だが、冷徹なる現実主義の政治家であり、数々の旧習を打破して実力主義(唯才是挙)を断行し、数多の政敵や反乱分子を容赦なく粛清して覇権を確立した曹操が、単なる世間体や悪名への恐怖、あるいは個人的な躊躇といったあやふやな理由のみで、国家の最終形態という最重要事項の決断を先送りするだろうか。建安十五年(二一〇年)、曹操自身が天下に布告した『譲県明本志令』(通称『述志令』)において、彼は「若し天命吾に在らば、吾は周の文王たらん」と語ったとされる。周の文王とは、暴君たる殷の紂王を討つだけの実力を持ちながらも最後まで臣下としての節度を守り、息子の武王の代になって初めて周王朝を開いた古代の聖王である。この言葉は、後世の史家から自らの野心を糊塗するための欺瞞、あるいは簒奪の意思を暗に示したものとして曲解されてきた。しかし、歴史の事実と当時の法制度の制約を精緻に照らし合わせれば、この言葉こそが曹操の偽らざる本心であり、かつ当時の政治状況において選択し得る唯一の合理的な終着点であったことが浮かび上がってくる。

 本論考は、こうした野心や道徳、あるいは個人の心理状況といった主観的かつ道徳的な指標に過度に依存する従来の曹操論から完全に脱却し、新たな分析の視座を提示することを目的とする。すなわち、後漢末期という四百年の歴史を持つ国家機構が完全に機能不全に陥った未曾有の動乱期において、最高権力者が直面した課題を理解するためには、感情論を排し、当時の「法制度(官職と爵位の差異)」「権力構造(属人的権威から制度的権力への移行)」、および「一族と配下の勢力保全(死後の安全確保)」という、極めて冷厳なる構造的かつ現実主義的な観点から彼の行動原理を徹底的に再評価せねばならない。

 結論から言えば、曹操が真に目指していたのは、漢朝の完全なる破壊たる易姓革命の実行ではない。彼はむしろ、機能不全に陥った漢の権威という旧来の基盤制度を温存しつつ、その外郭に自らの実権を恒久的に維持するための独立した統治機構を構築しようとしていたのである。それは、春秋時代の尊王攘夷において周の天子を不可侵の権威として擁護しながら、自らは覇者として天下の政務と軍事を代行した斉の桓公や晋の文公の体制であり、後代の歴史に例えるならば、権威としての朝廷と、実力組織としての覇府(幕府)が並立する「二重統治機構」の創設構想に他ならなかった。

 なぜ彼がそのような複雑かつ困難な道を選ばざるを得なかったのか。その背景には、赤壁の戦いでの敗戦による天下統一の事実上の頓挫と、それに伴う極めて切実な一族の生存危機が存在した。曹操の権力の源泉は、彼個人の圧倒的な軍事的才能と属人的な影響力、そして「丞相」という一代限りの官職に依存する権力であった。漢の法制度において、「官職」とは天子からの信任に基づく行政上の役職であり、いかに丞相として巨大な権力を振るおうとも、当人の死と同時にその権力は法的に消滅する。後継者が自動的に丞相職を継承する法的な保証は一切存在しないのである。彼が存命のうちは問題ないが、彼が死んだ後、百戦錬磨の将兵や野心的な官僚を抑え込むだけの威信を持たない後継者(曹丕)が、ただの漢の一臣下として生き残ることは到底不可能であった。狡兎死して走狗烹らるという歴史の鉄則が示す通り、曹操亡き後の曹氏一族は、後漢の朝廷や政敵たちによって直ちに合法的な手続きの下に粛清される運命にあったのである。

 彼ら一族と、長年付き従ってきた麾下の将兵の命を未来永劫にわたって保証するためには、皇帝の恣意的な人事権に左右される官職ではなく、明確な領地を持ち、法的に世襲が認められる「爵位(公・王)」を獲得する以外に途は残されていなかった。爵位を得て独自の領地と官僚機構(家臣団)を持てば、曹操の死後も、皇帝の許可を待つことなく法的に自らの権力基盤を相続させることができるからだ。すなわち、曹操が強行した魏公・魏王への就任劇は、簒奪へ向けた野心の顕現ではなく、漢の制度内において一族を滅亡の危機から救うための、法制度上の抜け道を突いた極めて合理的な防衛線の構築であったと言える。

 さらに、この曹操の構想をより深く理解するためには、中国特有の政治思想である天命思想と易姓革命の壁を直視しなければならない。天の意志によって有徳の者が天下を治めるというこの思想においては、実力なき者が権威の座に留まり続けることは、思想的に極めて困難であった。したがって、曹操が構想したであろう朝廷と覇府の二重権力構造は、中国の歴史的・思想的土壌においては極めて先鋭的かつ定着の難しい劇薬でもあった。曹操の死後、圧倒的な求心力を失った魏の統治機構は、この「実権を持たない権威を維持する」という重圧に耐えきれなくなり、息子の曹丕は自らの権力基盤を安定させるために、父が最後まで越えなかった一線を越え、禅譲という名の簒奪へと踏み切らざるを得なかったのである。曹丕のこの決断は、結果として一族を孤立させ、皮肉にも曹操が苦心して築き上げた魏の統治機構を、後に司馬氏によって容易に乗っ取られる脆弱なものへと変質させる原因となった。

 歴史の荒波の中で、曹操孟徳という巨星は、簒奪という破壊を選択したのではない。彼は滅びゆく帝国の残骸の中で、漢という美しい権威を不可侵のものとして保存しながら、同時に現実の苛烈な権力闘争から一族と配下を守るための、未曾有の二重統治体系を設計しようと苦闘したのである。次章以降において、この権力構造の変革という視座に基づき、曹操の行動軌跡を詳細に分析していく。漢の天子を擁することの兵站的優位性から始まり、彼が築き上げた中国版覇府とも呼ぶべき独自の統治機構の実態、さらにはその急進的な体制移行が引き起こした、最大の盟友である荀彧との悲劇的な決裂の真実を明らかにしていく。

【引用文献・史料】

・陳寿『三国志』魏書 第一 武帝紀

・陳寿『三国志』魏書 第二 文帝紀

・陳寿『三国志』魏書 第十 荀彧伝

・范曄『後漢書』巻九 孝献帝紀

・司馬光『資治通鑑』巻六十五、巻六十六 漢紀

・習鑿歯『漢晋春秋』

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ