第一節 中国版「覇権体制」の構築 前編
前章において詳述したごとく、曹操が直面していた最大の政治的課題は、彼自身の寿命という不可避の限界を前にして、属人的な威信に依存した軍閥組織を、いかにして法的に保障された制度的権力へと昇華させるかという点にあった。後漢の朝廷における最高官職たる「丞相」の地位に留まる限り、彼の死後において曹氏一族と麾下の将兵が凄惨なる粛清の憂き目に遭うことは、歴史の構造的必然であった。この一族滅亡の危機を回避するためには、天子の恣意的な人事権から完全に独立し、世襲が絶対的に保証される統治の「器」を新たに創出せねばならない。
しかし、曹操が単に自己の保身と一族の繁栄のみを目的として、既存の国家秩序を破壊しようとしたと解釈するのは、彼の政治家としての器量を過小評価するものである。彼は乱世の破壊者であると同時に、極めて精緻な国家体系を描くことのできる構築者であった。曹操が最終的に行き着こうとした政治体制の完成形とは、古き権威を完全に消滅させて新王朝を開く(簒奪を遂げる)ことではなく、漢という既存の権威を不可侵の象徴として温存しつつ、その外郭に自らの実権を恒久的に維持するための独立した軍事・行政機構を並立させることであった。すなわち、権威の中心としての「朝廷」と、実権の拠点としての「覇府」が共存する「二重統治機構」の創設構想である。
この前代未聞の壮大な国家構想を社会に定着させるためには、強引な武力のみならず、士大夫層を納得させるだけの強固な思想的基盤と歴史的根拠が必要であった。曹操がこの難題を乗り越えるために採用した精神的支柱こそが、春秋時代に存在した「覇者」という政治的理想像への回帰である。
赤壁の敗戦から二年後、天下三分が現実の情勢として固まりつつあった建安十五年(二一〇年)、曹操は天下に向けて『譲県明本志令』(通称『述志令』)という極めて異例の布告を発した。この時期、曹操に対する朝野の猜疑心は頂点に達しており、軍事権を握り続ける彼が遠からず漢の帝位を簒奪するであろうという流言飛語が絶えなかった。この批判を払拭するための自己弁明という側面を持ちつつも、この布告には曹操の目指す国家の最終形態が、過去の歴史への敬意とともに明確に記されている。
曹操はその中で、「斉の桓公や晋の文公が今日に至るまで書物において称えられるのは、彼らの兵力が最も強大でありながらも、周の天子を尊んでこれに奉仕したからである」と述べている。彼はここで、自らを春秋時代の五覇の筆頭に挙げられる名君、斉の桓公および晋の文公に明確になぞらえているのである。
斉の桓公や晋の文公が活躍した春秋時代とは、周王朝の統治能力が完全に失墜し、諸侯が相争う弱肉強食の乱世であった。その中で彼らは、圧倒的な武力を誇りながらも決して自ら天子を称することなく、「尊王攘夷(周の天子を尊び、夷狄や逆臣を打ち払う)」を旗印として諸侯を束ね、天下の政治と軍事を主導した。周の天子は祭祀と儀礼を司る不可侵の権威として君臨し、天下の実際の運営は覇者が代行する。この「権威と実権の完全なる分離と共存」こそが、春秋時代の覇権体制の核心である。
曹操は、董卓の乱以降に実体的な統治能力を喪失した漢王朝の現状を、かつての周王朝の衰退期に重ね合わせた。そして、自らが漢の天子を庇護し、逆賊を討伐して中原に秩序をもたらす「新たな覇者」となることの正当性を、天下の士大夫に向けて高らかに宣言したのである。漢の官僚としての忠義(尊王)と、軍閥の長としての武力行使(攘夷)という、一見すれば矛盾する二つの要素を、「覇者」という歴史的文脈を用いることで見事に統合してみせたのだ。
曹操は同布告において、さらに踏み込んで自らの存在意義を説き、「もし私が国家にいなければ、一体何人が帝を称し、何人が王を称したことか」と豪語している。これは決して傲慢な誇張などではなく、袁術を筆頭に僭称者が続出し、群雄が割拠した現実に対する冷徹な事実の提示であった。自分が漢の防波堤として存在し、圧倒的な軍事力をもって覇者として君臨しているからこそ、漢という国家の命脈はかろうじて保たれている。ゆえに、自らが軍事権を手放すことは即ち漢王朝の実質的な滅亡に直結するため絶対に不可能であり、覇者としての自らの特別なる地位と強大な武力は、国家存続のために不可欠な防衛装置として正当化されるべきである、というのが曹操の構築した論理であった。
この『述志令』の発布により、曹操は「漢室への忠誠を保ちながらも、最高実力者として君臨し続ける」という独自の政治空間を思想的に完成させた。しかし、彼が直面していた真の危機は、この覇者としての地位が依然として「一代限りの属人的なもの」に過ぎないという点にあった。斉の桓公や晋の文公が築いた覇権も、彼ら個人の死とともに呆気なく崩壊している。曹操は歴史のこの教訓を誰よりも理解していた。
一族を死の連鎖から救い、自らの覇権を後世へと永続させるためには、この「覇者という権威」を観念的な思想の領域から引き摺り下ろし、世襲可能な物理的・法的な「統治機構」として大地に定着させねばならない。そのために曹操が着手したのが、漢の天子が座す帝都とは全く別の場所に、自己の権力のみを中核とする巨大な実務拠点を築き上げるという、中国史上例を見ない地理的・行政的な権力の分離作業であった。次編においては、この覇府構想が具体的な姿を現すこととなる「許昌と鄴の二重行政」の実態と、その苛烈なる推進過程について論を進めていく。
【引用文献・史料】
・陳寿『三国志』魏書 第一 武帝紀(および裴松之注引『魏武故事』載『譲県明本志令』)
・司馬光『資治通鑑』巻六十六 漢紀
・孔子『論語』憲問篇(斉桓公に関する記述の参照)




