第87話 和解
翌日、カナメとB2へ降りた。
久しぶりに一緒に潜った。
JAGLの入場ログには、B2入口側、採取なし、撮影なし、と入れた。
今日は動画を撮らない。
B5の話もしない。
昨日、重い話をしすぎたからではない。
順番を間違えないためだった。
今日は、カナメとB2を歩く日だ。
カナメは先を歩いた。
戦闘Sの動き方だった。
グリーンモスの茂みを通るとき、足音が消えた。
体の重心の位置を変えて、岩の凹凸を的確に踏んでいた。
俺は採取袋を持って、後ろを歩いた。
今日は採取目的ではなかった。
だから袋は空のままにしていた。
指先に、苔の水気と岩の冷たさが触れる。
B2の匂いは、記憶にあるものと変わっていなかった。
苔の状態も、通路の湿り気も、いつものB2だった。
* * *
「ここ、変わってないな」
カナメが岩盤の横道を見て、言った。
「来てたのか、B2に」
「たまに。ユウが採取してる間、偶然通ったことがある」
「見に来てた?」
「通ったって言ってる」
カナメは前を向いたまま言った。
「……偵察みたいだな」
「もう一回言ったら帰る」
「言わない」
カナメは岩の角で立ち止まった。
壁の苔を指で触れた。
「グリーンモス。こんな色のやつ、地上じゃ売ってない」
「B2の岩のヒビの中に生えてるやつが一番いい。少し採るか」
「いい。今日は採取じゃない」
カナメが歩き出した。
「ユウ、一つ言っていいか」
「何」
「前に、強がってるんじゃないのかと言った。覚えてるか」
「覚えてる」
「私も、怖かった」
俺はカナメの背中を見た。
「炎上してる間、ユウがどうなるか分からなかった。機材が壊れて、有希さんとのこともカメラも、どんどん失くなっていく中で『俺には分からない』って言われた」
「……」
「分からないのは確かにそうだ。ユウの経験を私は持っていない。でも(分からないから何もできないとは思わなかった。手伝えないなら、そばにいるだけでもよかった。でも)それを言えなかった」
* * *
カナメが立ち止まった。
振り返った。
「私はユウに何も求めてない。戦ってほしいとも勝ってほしいとも思わなかった。ただ、いてほしかった」
俺は返事ができなかった。
B2の苔が薄く光っていた。
青緑の光が通路に広がっていた。
カナメがここに来ていた。
カナメは「たまに偶然通ったことがある」と言ったが、偶然ではなかっただろうと思った。
炎上の頃。カメラが壊れた頃。俺がB2に降りながら、何も言えなくなっていたあの頃。
カナメはここを「偶然通って」いた。
その言葉の形が今になって、胸の中で変わった。
「……ありがとう」
カナメが前を向いた。
「言いにくいことを言ってくれたんだと思う」
「ユウに怒られるかと思った」
「なんで」
「……分からない。でも、怒られそうな気がしていた」
「怒らない」
カナメは歩いた。
「そういえば、カメラ戻ったか」
「先週。修理から」
「そうか。配信は?」
「……まだ一本も撮っていない」
「撮れそうか」
俺は指先を軽く握った。
B2の岩盤に残る湿り気が、手袋越しに分かった。
苔の状態。
岩の温度。
グリーンモスの青い匂い。
どれも、動画を撮っていた頃と同じだった。
「……たぶんもうすぐ」
カナメがうなずいた。
「待ってる」
* * *
B2から地上に出た。
風が来た。
夕方の風だった。
ピコのことを思った。
ピコがいれば、今日の採取を見せたかった。
カナメとB2を歩いていることも告げたかった。
「ぴこぴこ」と言いながら、二人の間を飛んだかもしれない。
いない。
でも、また探しに行ける気がした。
指先がかすかに温かくなった。
ピコの青緑の光ではない。
B2の苔が夕方の空気に反応しているだけかもしれない。
それでも、どこかで同じ色を見た気がした。
関係はまだ分からない。
「ユウ」
カナメが横を向いた。
「今夜、飯でも食うか。私が作る」
「カナメが料理するのか」
「できる。文句を言うな」
「言わない」
「じゃあ行こう」
カナメが先に歩き始めた。
俺は後を追った。
B2の匂いがまだ服に残っていた。
苔と岩の匂い。
少し甘い、最浅層の底の匂い。
* * *
カナメの部屋は、俺の部屋から歩いて数分のアパートにあった。
子供の頃から、家は隣みたいな距離だった。
でも、カナメの台所で食べるのは久しぶりだった。
でも今夜はカナメが料理を作ると言った。
俺の部屋ではなく、カナメの部屋で食べることになった。
久しぶりにカナメの料理を食べた。
JAGL食用登録済みのグリーンモスを使ったスープだった。
「どこで仕入れたんだ」
「源田屋。ゲン爺が、食用登録済みのやつだけ渡してくれた」
「ゲン爺のところに行ってたのか」
「たまに寄る。ユウの話をすると喋ってくれる」
ゲン爺がカナメに話をしていたとは知らなかった。
スープを一口飲んだ。
温かかった。
グリーンモスの香りが鼻に来た。
B2の底の匂いに似ていた。
あの岩の割れ目に生えている苔の水っぽくて甘い匂い。
それがカナメの台所の器の中にあった。
「……うまい」
「当たり前だろ」
カナメは向かいで自分の器を持った。
「レシピ、ユウの動画を参考にした」
「参考にしてたのか」
「見てたから」
俺は少し笑った。
「なんで笑う」
「いや、カナメが俺の動画を見ながら料理してるのが想像できなかった」
「見てたって言ってる」
カナメがむっとした顔になった。
でも、怒っていなかった。
「全部見た」
「全部か」
「最初から。最初のやつは画角がひどかった」
「知ってる。あの頃はカメラの持ち方も知らなかった」
なぜ笑ったか、うまく説明できなかった。
嬉しいとも違う。
恥ずかしいとも違う。
ただ、誰かがそこにいたのだと分かった瞬間の奇妙な軽さがあった。
喉の奥が細くなった。ゆっくり戻ってきた。
グリーンモスのスープが器の中で揺れた。
淡い緑色の液体に苔の葉が浮かんでいた。
カナメが作ったスープで俺の動画を参考にした料理だった。
六歳の俺が覚えていないグリーンモスが、今度はカナメの台所で戻ってきた。
食べさせた記憶が、食べさせられる記憶になった。
片道ではなかった。
たぶん、料理はそういうものなのだと思った。
誰かに渡した味が、知らない場所で残って、別の日に別の器で返ってくる。
その全部を、自分で覚えていなくてもいいのかもしれない。
回ってきたなと思った。
* * *
食後、カナメのアパートを出た。
夜の空気が冷たかった。
B2から上がって来た匂いと夜の外気が混ざった。
指先に、グリーンモスの温かさが残っていた。
今日のことは、覚えておく。
カナメと話した。
カナメの料理を食べた。
カナメが俺の動画を全部見ていた。
それが今夜、全部一つの場所に集まった。
帰り道の電車でスマホを開いた。
コメント欄を確認した。
配信休止のあいだ、コメントは来なくなっていた。
でも、残っているコメントはまだあった。
古いコメントを少し読んだ。
「B2の苔のやつが好きです」
「ピコがいると全然違う雰囲気になるよね」
「最浅層なんでって言葉が好きです」
いつ書かれたコメントか、表示を確認した。
ほとんどが炎上前の頃のものだった。
でも、まだそこにあった。
消えていなかった。
スマホを仕舞った。
電車が次の駅に着いた。
自分の駅で降りた。
夜の道を歩きながら、スマホの黒い画面に自分の顔が映った。
もうすぐ、撮れるかもしれない。
そう思った。
何が先に来るのかは、まだ分からなかった。
ピコのことか。
配信のことか。
それとも別の何かか。
分からなかったが、少なくとも今夜の俺は、昨日より少しだけ台所に近かった。
家の鍵を開けた。
部屋に入った。
電気をつけた。
ピコがいない静けさがまた、待っていた。
でも今夜は、さっきまでカナメとスープを食べていた。
それが部屋の静けさの重さを少し変えた。
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