第86話 カナメへ話す
夜、カナメが来た。
玄関先に立って、コートのボタンを全部留めたまま、俺を見た。
「入れる?」
「どうぞ」
カナメは部屋に入った。
ソファを見て、椅子を引いて、テーブルに座った。
ピコがいないカウンターを一瞬見た。
何も言わなかった。
俺はコーヒーを入れた。
カナメの分も入れた。
カナメはカップを受け取って、両手で持った。
しばらく二人とも黙っていた。
コーヒーの湯気が二人の間で上がっていた。
俺は手帳を開いた。
「先に、俺から話す」
カナメの目が、手帳へ落ちた。
「今日、ゲン爺から聞いた。白い石板は今、JAGLの一時保管室にある。俺の部屋にも、源田屋にもない」
「うん」
「石板が俺に反応したことは確認済み。でも、何なのかはまだ未確認。継承者体質って言葉も、第一世代が仮にそう呼んでいたってだけで、正式な名前じゃない」
言いながら、手帳の四つの見出しを指で押さえた。
事実。
記録。
仮称。
推測。
「槇原の部署が最浅層遺物と適性偏差を調べていた記録がある。黒葉の事務所へ接触していた記録もある。でも、父さんの事故と直接つながる証拠はまだない」
「混ぜないようにしてるんだ」
「ゲン爺に言われた。公開するなとも言われた。動画にもコメントにも出さない」
カナメは頷いた。
「分かった。今聞いたことは、ここから外へ出さない」
その短い返事で、肩の力が少し抜けた。
* * *
「ユウ」
カナメが先に口を開いた。
「私がずっとユウの近くにいた理由、言っていなかったことがある」
「……聞く」
「言いにくいから言ってなかったわけじゃない。ただ、言うタイミングをずっと見つけられなかった」
カナメはコーヒーのカップをテーブルに置いた。
「ユウの父さんが亡くなった事故のとき、私も現場にいた」
俺はカナメを見た。
「……知ってる。父の死んだ場所に御崎家も居合わせたと」
「じゃあ、その先は、知らないと思う」
カナメが顔を上げた。
「父たちが救助に向かって、現場が混乱していた。ユウ、当時何歳だった?」
「六歳」
「私も六歳だった。親同士は救助で動いていて、子供は待機させられていた。ユウも来ていたんだ、あの場所に」
俺は思い出そうとした。
父の事故の記憶は薄い。
事故の報せを聞いて、母が泣いた。
それだけしか残っていない。
「俺が、あそこにいた記憶はほとんどない」
「そうかもしれない。でも、ユウはいた。そして、待機していた子供たちの中でユウだけが、ユウの父さんの採取袋からグリーンモスを少し出して、食べさせていた」
「……何を」
「グリーンモスだった。避難場所に簡易ストーブがあって、火も鉄皿も大人が見ていた。その端で、ユウが小さな鉄皿にグリーンモスをのせて温めていた。炒めた、というより、焦がさないように何度も動かしていた」
「俺が」
「うん。大人たちにも渡していた。私にも」
* * *
俺は黙った。
記憶にない話だった。
でも、カナメが嘘をつく理由はなかった。
父の事故の現場に俺もいた。
六歳で。
父さんの採取袋の小さい方を抱えて。
父が死にかけていた、あるいは死んだその時間に俺は、父さんの採取袋に残っていたグリーンモスを温めていたのか。
胸が息をしなくなった気がした。
一秒か、二秒か、呼吸が出なかった。
喉の奥が詰まったように動かなかった。
それからゆっくりと息が戻ってきた。
悲しいとか、怖いとか、そういう言葉が当てはまらなかった。
ただ、事実として、そこにある。
「父さんの採取袋を抱えてたんだ、あのとき」
「うん。ユウの父さんたちの付き添いで、B2入口側の見学通路から戻ったあとだって、あとで聞いた」
「……父さんが、その日の朝に見学用で採っていたのか」
「たぶん。何もできなかった子供たちの中でユウだけが何かした。食べさせるという行動をした」
カナメの声が静かだった。
「私は、あの日のことをずっと覚えていた。あのグリーンモスを食べたことを。あそこで食べた味を今でも覚えてる」
「……美味かった?」
「塩もなかったのに、美味かった」
カナメが俺を見た。
「それが(ユウの料理の一番最初だ。私が見たやつ。だから)配信を見たとき、すぐに気づいた。ユウが炒めたグリーンモスだ、って」
俺はテーブルに肘をついた。
カナメが「懐かしい感じがする」と言っていた理由が分かった。
寒い日に外で温かいものを食べさせてもらった記憶。
誰かが一緒にいた記憶。
それが俺だった。
「……なんで今まで言わなかった」
「言えなかった。ユウの父さんの死と私の一番最初の記憶が同じ場所にある。言い方を間違えると、傷つけると思った」
俺はカナメを見た。
カナメは視線を外さなかった。
「……怒ってないか?」
声のトーンが少し低くなった。
「怒ってない」
「そうか」
カナメはそれ以上、聞かなかった。
怒っているかどうかを確認したらもう確かめない。
それがカナメだと思った。
「……知れて良かった」
* * *
コーヒーが冷えていた。
カナメが立ち上がった。
「ユウ」
「何」
「前に言い方が悪かった。ごめん」
「俺も言い方が悪かった」
「……そうだな」
「一つ、聞いていいか」
「何」
「一緒に潜れるか」
カナメが俺を見た。
「B2か?」
「明日はB2。先は、B5まで行く申請が必要になるかもしれない」
カナメはしばらく黙った。
「……いつ」
「まだ決まってない。B5はJAGLの申請と同行枠がないと無理だ。でも、一人では次の一手が見えないものがある」
「分かった。言えばいい」
カナメがコートのボタンを外した。
また、座った。
「コーヒーもらえる。温かいやつ」
「今入れる」
俺はコーヒーを入れ直した。
カナメがピコのいないカウンターをもう一度見た。
「ピコ、いつ帰ってくるかな」
「……分からない。でも、B5で青緑の光を見たとき、ピコを思い出した。関係があるかは、まだ分からない」
「じゃあ帰ってくる」
カナメはそれだけ言った。
断言だった。
俺はコーヒーをカナメの前に置いた。
* * *
カナメはコーヒーを両手で包んで飲んだ。
ゆっくりと一口ずつ。
俺も自分のカップを手にした。
部屋が静かだった。
コーヒーの香りが広がっていた。
少し前までこの空気が重かった。
カナメと言い合いをして、互いに何かを持ったまま距離ができていた。
今は違った。
同じ部屋でコーヒーを飲んでいた。
それだけのことが今夜は思った以上に大きかった。
「カナメ」
「何」
「あの日の話、初めて聞いた」
「そうか」
「父の事故の現場に俺もいたとは知らなかった」
カナメがカップを置いた。
「覚えていないのか」
「ない。本当に何も残っていない」
「そうかもしれない。子供の頃の記憶は強い衝撃で欠落することがある」
俺はテーブルを見た。
父が探していたものを見つけたという事実はここにある。
父の事故の現場に俺もいた。
父が死んだ日に俺はグリーンモスを炒めて、人に食べさせていた。
「……記憶がなくても、やっていたんだな」
「やっていた」
「料理することが俺にとってそういうものだったんだな。意識する前から」
カナメが俺を見た。
「だからユウの料理は、ただ美味しいとか、ただ上手いとか、そういうことじゃないと思う」
「何かを伝えようとする料理だ。あの日も今日も変わってない」
* * *
カナメが帰った後、台所に立った。
冷蔵庫から、JAGL食用登録済みのグリーンモスを少し取り出した。
水気を拭いて、フライパンにのせた。
油はほんの少し。
塩もほんの少し。
火を入れると、青臭さの奥から、見慣れた甘い匂いが戻ってきた。
六歳の俺が、同じように動かしていたのかは分からない。
覚えていない。
でも、今の手は覚えている。
焦げないように動かす。
苦味を飛ばす。
食べられる形にする。
小皿に盛って、一口食べた。
シャキッとした食感が歯に当たり、塩気のあとに淡い甘さが残った。
カナメと一緒にコーヒーを飲んで、カナメが帰った後に食べるグリーンモスの味だった。
父の事故現場の話を聞いた夜に食べるグリーンモスの味だった。
どちらとも言えない、今夜の味だった。
指先がかすかに温かくなった。
採取Sは、味の正しさも、心の整理も告げない。
ただ、火の通ったグリーンモスの水分と、皿の底に残った熱だけを拾っていた。
窓の外が暗くなっていた。
明日、カナメとB2に潜る約束をした。
久しぶりに一緒に潜る。
最浅層で採取しながら、カナメと隣にいる。
それが今、少し楽しみだった。
グリーンモスをもう一口食べた。
温かい食感が口の中でほどけた。
うまかった。
ピコがいたら「ぴこぴこ」と言いながら、横から手を伸ばしていた。
いない。
でも、カナメが「帰ってくる」と言った。
断言だった。
胸の奥がかすかに温かくなった気がした。
カナメの断言はいつも確かだった気がした。
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