第85話 継承者
翌日、源田屋に行った。
白い石板は持っていない。
JAGL晴海支部の一時保管室にある。
俺が持っているのは、昨日の確認済み範囲だけを写した紙と、自分の手帳だった。
源田屋の引き戸を開けると、ゲン爺は店の奥にいた。
いつものカウンターではなく、奥の畳の部屋に通された。
棚には古いファイルが詰まっている。
壁には、擦り切れた採取袋が一つ掛かっていた。
父のものではない。
でも、父と同じ時代の匂いがした。
「座れ」
ゲン爺は低い机に、二冊のファイルを置いた。
「先に言っておく。今日話すことは三つに分ける。JAGLで確認済みのこと。第一世代の記録に残っていること。ワシの推測だ」
「分けて聞きます」
「分けて覚えろ。混ぜるな」
その言い方だけで、今日の話が軽くないことは分かった。
* * *
「戦闘F、採取S、料理S」
ゲン爺が言った。
「冒険者適性の偏りとしては、ほとんど異常値だ。JAGLの現行記録では、お前を含めて三例しか近いものがない」
「三例」
「ただし、完全一致ではない。戦闘が極端に低く、採取と料理が極端に高い。そこに、古い遺物への反応が重なる」
ゲン爺はファイルを開いた。
古い紙に、三角形と点の印がいくつも書かれている。
「第一世代は、仮にこれを継承者体質と呼んだ」
「継承者」
「正式な学名じゃない。古代文明の記録を読める者、扱える者、そういう意味で便宜的に呼んだだけだ」
「俺が、それだと」
「可能性が高い」
ゲン爺は即答しなかった。
断定しない。
そのことに、少しだけ救われた。
「昨日の石板は、お前が保護膜越しに触れた時だけ発光した。JAGLの数値でも、近づいた時だけ反応が上がっている。これは確認済みだ」
「はい」
「そこから先は、まだ確認中だ。ただ、第一世代の記録に似た反応がある」
ゲン爺は別の紙を出した。
古い字で、採取、調理、記録、保管という単語が並んでいる。
「採取Sは、今の制度では採取物を見つける力だ。だが、最浅層の古い遺物に対しては、素材の状態や用途の気配まで拾うことがある。料理Sは、ただ上手いだけじゃない。素材を壊さず、食える形に戻す力として記録されている」
「戦闘Fは」
言うと、喉が少し細くなった。
ゲン爺は俺を見た。
「欠落とは限らん」
短い言葉だった。
「戦うための体じゃない。そう考えた方が、古い記録とは合う」
胸の中で、何かが一度、止まった。
六年間、戦えないことは穴だった。
どれだけ採取Sがあっても、料理Sがあっても、戦闘Fという穴が真ん中にあると思っていた。
その穴に、別の名前が置かれた。
すぐには信じられない。
でも、完全に否定することもできなかった。
* * *
「槇原は、このことを知っているんですか」
俺が聞くと、ゲン爺は一度、ファイルを閉じた。
「ここからは、JAGLが確認した記録と、ワシの推測が混じる。気をつけて聞け」
「はい」
「槇原総一の部署は、過去に最浅層遺物と適性偏差に関する照会をしている。お前が東和プロモから誘われた時期、その部署から黒葉レンの事務所へ接触があった記録も、JAGL側で確認された」
息が浅くなった。
黒葉の嫌がらせ。
カメラが壊れた日。
コメント欄が荒れた日。
全部が、一本の線になりそうになる。
でも、ゲン爺がすぐに言った。
「まだ、動機までは確定じゃない」
「……でも、線はある」
「ある。かなり太い線だ」
太い線。
その言葉は、断定より怖かった。
「槇原総一は、父親の槇原太郎が残した事業を継いでいる。太郎は第一世代の頃から、最浅層の古代遺物を企業管理下に置こうとしていた」
「継承者を手元に置けば、遺物を読める」
「そう考えた可能性がある」
ゲン爺は言った。
「だから、東和はお前を囲おうとした可能性がある。囲えないなら、配信を潰す。そういう流れとして見れば、この一連の出来事は説明がつく」
胃の奥が冷たくなった。
怒りより先に、冷えた。
俺は、誰かの事業計画の中に置かれていたのかもしれない。
最浅層で、グリーンモスを炒めていただけの時間まで。
「父は」
声が少し掠れた。
「父も、それで」
ゲン爺はすぐには答えなかった。
畳の部屋に、古い紙の匂いがあった。
「健次郎は、継承者ではなかった」
「はい」
「だが、この記録に近づいていた。石板そのものか、その前段階かは分からん。ただ、B5へ向かおうとしていたことは確かだ」
「事故じゃないんですか」
「ワシには断言できない」
ゲン爺の声は、低かった。
「東和側の人間が、同じ時期に最浅層エリアへ入っていた記録はある。だが、それが健次郎の事故とどう繋がるかは、まだ証拠が足りん」
まだ。
その言葉を、俺は手帳に書いた。
まだ断定しない。
でも、忘れない。
* * *
「坊主」
「はい」
「お前が今日知ったことは、まだ公開するな」
「分かっています」
「継承者という言葉も、槇原の線も、父の事故の疑いもだ。動画にもコメントにも出すな。御崎の子に話すなら、相手を選んで、場所を選べ」
「今夜、話す予定です」
「なら、まず事実と推測を分けろ」
ゲン爺は、机を指で軽く叩いた。
「石板が反応した。これは事実。戦闘F、採取S、料理Sの偏差が三例しかない。これは記録。継承者体質という呼び名は第一世代の仮称。槇原の部署と黒葉の事務所に接触記録がある。これは調査記録。槇原の狙い、父の事故の真相は、まだ推測だ」
俺は一つずつ手帳に書いた。
書いている間、指が震えた。
それでも、書く。
書かなければ、怒りが全部を一つに混ぜてしまう。
「俺は、どうすればいいんですか」
「急ぐな」
返ってきたのは、いつもの言葉だった。
「でも、止まるな。JAGLの確認、第一世代の記録、御崎の子との話。順番にやれ」
「順番に」
「そうだ。戦わないなら、順番を間違えるな」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
戦わないなら、順番を間違えるな。
たぶん、それが今日の答えだった。
* * *
帰り道、スマホが鳴った。
カナメからだった。
「話せる?」
画面の文字を見た瞬間、足が止まった。
俺は返信した。
「話せる」
三秒後に返事が来る。
「今夜、いい?」
「いい」
送ってから、しばらくスマホを握ったままだった。
話すことが増えすぎている。
でも、ゲン爺の言葉がある。
事実と推測を分ける。
順番を間違えない。
俺はコンビニに寄って、おにぎりを二つ買った。
歩きながら一つ食べた。
普通の米だった。
ダンジョン産でも、古代遺物でもない。
塩気と米の甘さが口に広がる。
うまかった。
口の中で米粒がほどけるたびに、肩の力が少し抜けた。
情報は重い。
でも、噛んで飲み込むことは単純だった。
継承者体質と言われても、腹は減る。
戦闘Fが欠落ではないかもしれないと言われても、食べれば少し落ち着く。
その当たり前さに、助けられた。
もう一つは、家で食べることにした。
カナメが来るなら、何か温かいものも出せるかもしれない。
そう考えた自分に、少し驚いた。
* * *
帰宅して、テーブルに手帳を置いた。
白い石板は家にはない。
JAGLの一時保管室にある。
でも、指先の奥には、昨日触れた温かさがまだ残っている気がした。
手帳を開く。
事実。
記録。
仮称。
推測。
四つに分けて、今日聞いたことを書き直す。
継承者という言葉は、一番下に書いた。
まだ自分の名前の横には置けなかった。
戦闘F。
採取S。
料理S。
その三つは、初めて冒険者登録した日に見た並びと同じだ。
でも、今日は少しだけ違って見えた。
欠落ではなく、役割かもしれない。
まだ、かもしれない。
それでも、六年間ずっと穴だと思っていた場所に、細い橋がかかった気がした。
母に帰宅したと送り、カナメを待つ。
ピコのいないカウンターに、布巾を畳んで置いた。
今夜、カナメと話す。
全部を分かってもらうためではない。
まず、黙らずに話すために。
登録者:三万八千二百十三人。
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