第88話 帰還の気配
カメラを構えた。
久しぶりに修理から戻ったカメラを持った。
台所に立って、JAGL食用登録済みのグリーンモスを少しだけ炒めた。
投稿用ではない。
動作確認だった。
バターが溶ける音。
苔の端が深い緑へ変わっていく色。
フライパンの縁から立ち上がる湯気。
ちゃんと映っていた。
音も戻っていた。
フォーカスも合う。
湯気の白さも潰れていない。
修理前に入っていた嫌なノイズも消えている。
画面だけ見れば、配信を休む理由はもうなかった。
でも、再生を止めた瞬間、カウンターの空白が見えた。
ピコが映っていない。
それだけのことだった。
いつもなら、フライパンを寄せたところで、画面の端に青緑の光が入り込む。
湯気に鼻を近づけるみたいに揺れて、俺が「熱い」と言う前に、少しだけ下がる。
邪魔だと思ったこともあった。
でも、映像を止めてみると、あの小さな揺れがないだけで台所が広すぎた。
カメラが戻っても、ピコがいなければ何かが足りなかった。
何が足りないのか、うまく言葉にできない。
ただ、今夜の映像は投稿しないと決めた。
録画データに「テスト」とだけ名前をつけ、外には出さずに保存した。
* * *
次の日、B3へ降りた。
JAGLの入場ログには、B3通常ルート、採取なし、撮影なし、戦闘回避、異常時撤退と入れた。
昨日のB2で、指先に残った青緑の温かさが気になっていた。
ピコと関係があるとは言えない。
だから、探しに行くのではなく、通常ルートの範囲で確かめるだけにした。
ベビーゴブリンの採取エリアを越える手前で、足を止める。
群れが見えたら迂回する。
近づかない。
戦わない。
その三つを手帳に書いてから進んだ。
B3の奥側、石英の層が走る壁際で、指先が少し温かくなった。
B4の壁に似た構造だ。
でも、ここはB3だ。
壁を削らない。
欠片を取らない。
位置を動画にしない。
ただ、壁の表面を目で見て、手袋越しに温度だけを確かめた。
石英の薄い筋の中に、青緑の粉のようなものが一粒だけ光った気がした。
ピコの光に似ている。
そう思った。
でも、似ているだけだった。
俺はスマホを取り出しかけて、やめた。
撮ってしまえば、あとで見返せる。
でも、位置が映る。
壁の形も、石英の筋も映る。
いま公開する情報ではないし、公開しないとしても持ち歩く画像を増やしたくなかった。
ピコがここを通った証拠ではない。
どこかから何かが動いている証拠でもない。
俺は手帳に、青緑の微光、石英層、B3通常ルート内、未確定、とだけ書いた。
もう一行、追跡しない、と書いた。
書いてから、壁から手を離す。
指先に残った温度は、食材の鮮度を読む時の温かさとは違っていた。
だからこそ、ここで意味を決めない。
それから引き返した。
帰還報告には、採取なし、異常接触なし、戦闘なし、壁面採取なしと入れた。
* * *
帰宅すると、カナメから連絡が来ていた。
「今、部屋にいる?」
「戻った。B3から」
三秒後に返信が来た。
「行く」
十分後、カナメが来た。
「ピコか」
玄関で最初に聞かれた。
「分からない」
「分からない、か」
「青緑の光を見た。ピコに似ていた。でも、似ているだけだ」
カナメは靴を脱ぎながら頷いた。
「なら、似ていた、で止めておけ」
「そうする」
二人で台所に立った。
俺はグリーンモスを洗い、水気を拭いた。
カナメがフライパンを出した。
「昨日の続きか」
「動作確認で少し撮った。でも投稿してない」
「ピコが映ってないからか」
「たぶん」
カナメはそれ以上聞かなかった。
バターを落とす。
泡が細かくなったところでグリーンモスを入れる。
ジュッと音がして、青臭さの奥から甘い匂いが立ち上がった。
ピコがいたら、まず低い声で「ぴこ」と鳴いていたと思う。
苔の端が濃い緑に変わる頃、少し高い声になる。
皿に盛る頃には、カウンターの上で前のめりになっていた。
その記憶が、音のない場所に浮かんだ。
胸のあたりが温かくなった。
帰ってくると分かっているからではない。
帰ってきてほしいと思っているからだ。
「食べるか」
「少しだけ」
カナメが一口分を皿に取った。
食べた。
「……うまい」
「だろ」
俺も食べた。
バターのコクと、グリーンモスの青い甘さが重なる。
未記載素材ではない。
今、食べていいと分かっている、いつものグリーンモスだ。
それが今日はありがたかった。
* * *
もう一品、スライムゼリーを器に盛った。
ピコの分を無意識に多く取り出しそうになって、手が止まった。
小皿を一枚、棚に戻す。
その音が思っていたより鋭かった。
カナメは何も言わなかった。
代わりに、自分の皿を少しだけこちらへ寄せた。
分ける、というほどの量ではない。
でも、そこに皿があるだけで、台所の空気が少し変わった。
二人でスライムゼリーを食べた。
冷たい甘さが舌に残る。
グリーンモスのバターのあとだと、青い香りが少し丸くなる。
「ユウって、こういう話をするとき、声が変わる」
「変わるか」
「少し楽しそうになる」
俺は器の底を見た。
「……そうかもしれない」
食材の話をするのは好きだった。
料理の話をするのも好きだった。
配信を始めた頃は、そのことに無自覚だった。
ただ、採れたから料理した。
ただ、うまいと思ったから動画を撮った。
それが今、何万人かに見られている。
「ピコが帰ってきたら、また撮る気になるか?」
カナメが聞いた。
「なると思う」
「帰ってこなかったら」
答えがすぐに出なかった。
カナメは待った。
「それでも、撮らなきゃいけない日が来ると思う」
「なら、大丈夫だ」
「何が」
「ユウがまだ、料理の話をしてる」
その言い方が、少しだけカナメらしかった。
乱暴で、短くて、でも逃げ道を塞がない。
俺は頷いた。
ピコが帰るまで何もしない、と決めたわけではない。
でも、今の俺には、カメラを回す手前で立ち止まる時間が必要だった。
カナメはその時間を急かさなかった。
急がせないことも、隣にいる方法なのだと分かった。
* * *
カナメが帰ったあと、台所を片づけた。
グリーンモスとスライムゼリーの器を洗う。
水が器に当たる音がした。
普通の夜の音だった。
窓の外は暗い。
ピコはいない。
それでも、さっきB3で見た青緑の微光が、指先の奥に残っていた。
証拠ではない。
予告でもない。
でも、完全な空白ではなかった。
カメラを取り出して、三脚に載せた。
録画はしない。
ただ、いつでも撮れるようにした。
電池を確認し、メモリーカードを確認し、レンズを拭く。
それだけで、少しだけ呼吸がしやすくなった。
少しだけ。
* * *
翌朝、目が覚めた。
ピコはいなかった。
いつもなら、起きると同時に「ぴこ」と声がする。
台所のカウンターか、窓のふちか、どこかにいて、鳴く。
それがない朝は、今でも少し違う。
でも、昨日よりは体が動いた。
B2へ降りた。
目的というより、体を止めたくなかった。
JAGLの入場ログには、B2入口側、グリーンモス少量、撮影なしと入れる。
グリーンモスを少し採った。
苔の状態も、岩盤の冷たさも、昨日と変わらない。
変わらないことが、今日は少し安心だった。
帰宅して、グリーンモスのバター炒めを作った。
フライパンが温まって、バターが溶ける。
ジュッという音がした。
苔が黄緑から深い緑に変わった。
香りが立ち上がった。
食べた。
うまかった。
夕方、窓の方の空気が一度だけ、青緑に光った気がした。
見間違いかもしれない。
ピコかどうかは分からない。
俺はカメラの電源だけ入れた。
録画はしない。
画面には、台所と空のカウンターが映った。
それでも、手は震えなかった。
待つためではなく、撮れる自分に戻るために。
夜が静かに続いた。
登録者:四万一千八百三十二人。
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