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【最浅層×料理配信】戦闘F判定を喰らった俺、誰も採らないスライムゼリーで配信はじめたら、気づけば最浅層の億り人になってました  作者: いなばの青兎
第5章 決戦編

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第88話 帰還の気配

 カメラを構えた。


 久しぶりに修理から戻ったカメラを持った。


 台所に立って、JAGL食用登録済みのグリーンモスを少しだけ炒めた。


 投稿用ではない。


 動作確認だった。


 バターが溶ける音。


 苔の端が深い緑へ変わっていく色。


 フライパンの縁から立ち上がる湯気。


 ちゃんと映っていた。


 音も戻っていた。


 フォーカスも合う。


 湯気の白さも潰れていない。


 修理前に入っていた嫌なノイズも消えている。


 画面だけ見れば、配信を休む理由はもうなかった。


 でも、再生を止めた瞬間、カウンターの空白が見えた。


 ピコが映っていない。


 それだけのことだった。


 いつもなら、フライパンを寄せたところで、画面の端に青緑の光が入り込む。


 湯気に鼻を近づけるみたいに揺れて、俺が「熱い」と言う前に、少しだけ下がる。


 邪魔だと思ったこともあった。


 でも、映像を止めてみると、あの小さな揺れがないだけで台所が広すぎた。


 カメラが戻っても、ピコがいなければ何かが足りなかった。


 何が足りないのか、うまく言葉にできない。


 ただ、今夜の映像は投稿しないと決めた。


 録画データに「テスト」とだけ名前をつけ、外には出さずに保存した。


* * *


 次の日、B3へ降りた。


 JAGLの入場ログには、B3通常ルート、採取なし、撮影なし、戦闘回避、異常時撤退と入れた。


 昨日のB2で、指先に残った青緑の温かさが気になっていた。


 ピコと関係があるとは言えない。


 だから、探しに行くのではなく、通常ルートの範囲で確かめるだけにした。


 ベビーゴブリンの採取エリアを越える手前で、足を止める。


 群れが見えたら迂回する。


 近づかない。


 戦わない。


 その三つを手帳に書いてから進んだ。


 B3の奥側、石英の層が走る壁際で、指先が少し温かくなった。


 B4の壁に似た構造だ。


 でも、ここはB3だ。


 壁を削らない。


 欠片を取らない。


 位置を動画にしない。


 ただ、壁の表面を目で見て、手袋越しに温度だけを確かめた。


 石英の薄い筋の中に、青緑の粉のようなものが一粒だけ光った気がした。


 ピコの光に似ている。


 そう思った。


 でも、似ているだけだった。


 俺はスマホを取り出しかけて、やめた。


 撮ってしまえば、あとで見返せる。


 でも、位置が映る。


 壁の形も、石英の筋も映る。


 いま公開する情報ではないし、公開しないとしても持ち歩く画像を増やしたくなかった。


 ピコがここを通った証拠ではない。


 どこかから何かが動いている証拠でもない。


 俺は手帳に、青緑の微光、石英層、B3通常ルート内、未確定、とだけ書いた。


 もう一行、追跡しない、と書いた。


 書いてから、壁から手を離す。


 指先に残った温度は、食材の鮮度を読む時の温かさとは違っていた。


 だからこそ、ここで意味を決めない。


 それから引き返した。


 帰還報告には、採取なし、異常接触なし、戦闘なし、壁面採取なしと入れた。


* * *


 帰宅すると、カナメから連絡が来ていた。


「今、部屋にいる?」


「戻った。B3から」


 三秒後に返信が来た。


「行く」


 十分後、カナメが来た。


「ピコか」


 玄関で最初に聞かれた。


「分からない」


「分からない、か」


「青緑の光を見た。ピコに似ていた。でも、似ているだけだ」


 カナメは靴を脱ぎながら頷いた。


「なら、似ていた、で止めておけ」


「そうする」


 二人で台所に立った。


 俺はグリーンモスを洗い、水気を拭いた。


 カナメがフライパンを出した。


「昨日の続きか」


「動作確認で少し撮った。でも投稿してない」


「ピコが映ってないからか」


「たぶん」


 カナメはそれ以上聞かなかった。


 バターを落とす。


 泡が細かくなったところでグリーンモスを入れる。


 ジュッと音がして、青臭さの奥から甘い匂いが立ち上がった。


 ピコがいたら、まず低い声で「ぴこ」と鳴いていたと思う。


 苔の端が濃い緑に変わる頃、少し高い声になる。


 皿に盛る頃には、カウンターの上で前のめりになっていた。


 その記憶が、音のない場所に浮かんだ。


 胸のあたりが温かくなった。


 帰ってくると分かっているからではない。


 帰ってきてほしいと思っているからだ。


「食べるか」


「少しだけ」


 カナメが一口分を皿に取った。


 食べた。


「……うまい」


「だろ」


 俺も食べた。


 バターのコクと、グリーンモスの青い甘さが重なる。


 未記載素材ではない。


 今、食べていいと分かっている、いつものグリーンモスだ。


 それが今日はありがたかった。


* * *


 もう一品、スライムゼリーを器に盛った。


 ピコの分を無意識に多く取り出しそうになって、手が止まった。


 小皿を一枚、棚に戻す。


 その音が思っていたより鋭かった。


 カナメは何も言わなかった。


 代わりに、自分の皿を少しだけこちらへ寄せた。


 分ける、というほどの量ではない。


 でも、そこに皿があるだけで、台所の空気が少し変わった。


 二人でスライムゼリーを食べた。


 冷たい甘さが舌に残る。


 グリーンモスのバターのあとだと、青い香りが少し丸くなる。


「ユウって、こういう話をするとき、声が変わる」


「変わるか」


「少し楽しそうになる」


 俺は器の底を見た。


「……そうかもしれない」


 食材の話をするのは好きだった。


 料理の話をするのも好きだった。


 配信を始めた頃は、そのことに無自覚だった。


 ただ、採れたから料理した。


 ただ、うまいと思ったから動画を撮った。


 それが今、何万人かに見られている。


「ピコが帰ってきたら、また撮る気になるか?」


 カナメが聞いた。


「なると思う」


「帰ってこなかったら」


 答えがすぐに出なかった。


 カナメは待った。


「それでも、撮らなきゃいけない日が来ると思う」


「なら、大丈夫だ」


「何が」


「ユウがまだ、料理の話をしてる」


 その言い方が、少しだけカナメらしかった。


 乱暴で、短くて、でも逃げ道を塞がない。


 俺は頷いた。


 ピコが帰るまで何もしない、と決めたわけではない。


 でも、今の俺には、カメラを回す手前で立ち止まる時間が必要だった。


 カナメはその時間を急かさなかった。


 急がせないことも、隣にいる方法なのだと分かった。


* * *


 カナメが帰ったあと、台所を片づけた。


 グリーンモスとスライムゼリーの器を洗う。


 水が器に当たる音がした。


 普通の夜の音だった。


 窓の外は暗い。


 ピコはいない。


 それでも、さっきB3で見た青緑の微光が、指先の奥に残っていた。


 証拠ではない。


 予告でもない。


 でも、完全な空白ではなかった。


 カメラを取り出して、三脚に載せた。


 録画はしない。


 ただ、いつでも撮れるようにした。


 電池を確認し、メモリーカードを確認し、レンズを拭く。


 それだけで、少しだけ呼吸がしやすくなった。


 少しだけ。


* * *


 翌朝、目が覚めた。


 ピコはいなかった。


 いつもなら、起きると同時に「ぴこ」と声がする。


 台所のカウンターか、窓のふちか、どこかにいて、鳴く。


 それがない朝は、今でも少し違う。


 でも、昨日よりは体が動いた。


 B2へ降りた。


 目的というより、体を止めたくなかった。


 JAGLの入場ログには、B2入口側、グリーンモス少量、撮影なしと入れる。


 グリーンモスを少し採った。


 苔の状態も、岩盤の冷たさも、昨日と変わらない。


 変わらないことが、今日は少し安心だった。


 帰宅して、グリーンモスのバター炒めを作った。


 フライパンが温まって、バターが溶ける。


 ジュッという音がした。


 苔が黄緑から深い緑に変わった。


 香りが立ち上がった。


 食べた。


 うまかった。


 夕方、窓の方の空気が一度だけ、青緑に光った気がした。


 見間違いかもしれない。


 ピコかどうかは分からない。


 俺はカメラの電源だけ入れた。


 録画はしない。


 画面には、台所と空のカウンターが映った。


 それでも、手は震えなかった。


 待つためではなく、撮れる自分に戻るために。


 夜が静かに続いた。


 登録者:四万一千八百三十二人。

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