第89話 ピコが帰ってきた
深夜、扉の外で小さな音がした。
金属を爪でこすったような、細い音だった。
目が覚めた。
部屋は暗い。
台所のカウンターは、いつものように空だった。
もう一度、音がした。
扉の下から、青緑の光が少しだけ漏れていた。
靴を履くのも忘れて、玄関へ行った。
鍵を開ける手が、一度だけ滑った。
扉を開けた。
* * *
ピコがいた。
廊下の真ん中に浮かんでいた。
青緑の光をまとっていた。
いつもより光が強かった。
小さな前足に、白っぽい欠片を抱えていた。
石のようにも、骨のようにも見える。
でも、触る前に決めない。
B5で見た白い石板に似た色だと思った。
似ているだけだ。
「……ピコ」
声が出たのか、自分でも分からなかった。
ピコが俺を見た。
「ぴこぴこぴこ」
三声。
高い声だった。
怒っていない。
責めてもいない。
ただ、目の前にいた。
「……帰ってきたか」
「ぴこぴこ」
二声。
半音、上がった。
俺は手を伸ばした。
ピコが飛んできた。
掌に乗った。
重さは変わらなかった。
小さい手が掌に当たる。
欠片を抱えたまま、そこにいた。
この重さを何週間待っていたのか。
配信を休んでいた間も、ゲン爺に会いに行った夜も、カナメとB2を歩いた日も、ずっとこの重さが手になかった。
涙は出なかった。
出なかったが、ピコの重さを手放したくなかった。
* * *
部屋に入った。
台所のカウンターに、清潔な小皿を置いた。
ピコはその上に欠片を置いた。
丸い石片のようなものだった。
表面に、線のようなものがある。
古地図の記号に似ている気もした。
でも、似ているだけだ。
石板と同じだと決めない。
正体を決めない。
ピコがどこから持ってきたのかも、決めない。
俺は台所用の薄い手袋をつけ、欠片を直接触らず、透明な保存容器を出した。
食品用ではなく、未確認物の一時隔離用に買っておいた小さいケースだ。
欠片を小皿ごとケースへ入れ、蓋をした。
ラベルに、未確認、ピコ持参、深夜帰宅時、欠片への直接接触なし、と書く。
スマホでJAGLアプリを開いた。
深夜なので、緊急通報ではなく相談メモにした。
未知の小型発光生物が帰宅。
白色の石片状物を持参。
欠片への直接接触なし。
動画・コメントで公開しない。
朝に窓口確認予定。
送信すると、受付番号が出た。
その番号を手帳にも書いた。
ピコがカウンターの上で鼻をひくつかせた。
「ぴこ」
一声。
低かった。
「腹減ってるのか」
「ぴこぴこ」
二声。
半音、上がった。
* * *
冷蔵庫を開けた。
JAGL食用登録済みのグリーンモスがあった。
鍋に水を入れ、火にかける。
深夜だから、音を小さくする。
沸いたところで、グリーンモスを入れた。
青い香りが立ち上がった。
B2の岩の匂いが、台所に戻ってくる。
ピコがカウンターから身を乗り出した。
「ぴこ」
一声。
「もう少し」
「ぴこぴこ」
二声。
待てない、という声に聞こえた。
器に少しだけ盛った。
ピコに先に渡す。
ピコが食べた。
「ぴこぴこぴこ」
三声。
高かった。
久しぶりに聞く、食べたあとの三声だった。
この声をいつから聞いていなかったのか。
カウンターが空だった間、どれだけその声を待っていたのか。
スープの湯気を見て、ようやく分かった。
俺も食べた。
うまかった。
グリーンモスの青い苦味と、あとから来る甘さが、夜の体に落ちていく。
ピコが帰ってきたという事実が、食事と一緒に胸に入ってきた。
欠片の入ったケースは、テーブルの端に置いた。
布巾を一枚かける。
今夜は見続けない。
今夜決めることではない。
まず、ピコが帰ってきた。
それだけで十分だった。
「……おかえり」
ピコが俺を見た。
「ぴこぴこぴこ」
三声。
高かった。
* * *
ピコはスープを全部飲んだ。
器が空になると、また俺を見た。
「ぴこ」
一声。
「もうないぞ」
「ぴこぴこ」
二声。
半音、上がった。
「今夜はもう遅い。明日、また作る」
「ぴこ」
一声。
不満の声だった。
でも、その不満の声がうれしかった。
ピコの不満をどれだけ聞きたかったか。
俺はカウンターにひじをついて、ピコを見た。
青緑の光が台所に揺れていた。
いつもの光だった。
ピコがいなかった間、この光がなかった。
どれだけその光を待っていたか、ピコが帰ってきて初めて分かった。
カメラを取り出しかけて、やめた。
撮るなら、欠片を映さない角度にする。
今夜はまだ、ピコを動画にしない。
JAGLに相談したあとでいい。
俺はカメラを棚に戻した。
ピコはカウンターの上で丸くなった。
眠る前に、一度だけケースの方を見た。
それから、目を閉じた。
* * *
翌朝、ピコが先に起きていた。
カウンターから俺の顔を見て、鳴いた。
「ぴこぴこ」
二声。
半音、上がった。
「起きてる」
「ぴこ」
一声。
腹が減っているという意味に聞こえた。
水を沸かして、グリーンモスのスープを作った。
ピコが鍋の方を見ている。
香りが上がるたびに、青緑の光が少しだけ強くなった。
器に盛る。
ピコに先に渡す。
「ぴこぴこぴこ」
三声。
高かった。
食べながら、ピコが保存容器を一瞬見た。
そして、すぐにスープへ戻った。
俺も食べた。
昨夜と同じグリーンモスのスープだった。
でも、昨夜のはピコが帰ってきた深夜のスープで、今朝のはピコと一緒に迎えた最初の朝のスープだった。
同じ食材なのに、違う味がした。
状況が味を変える。
たぶん、料理はそういうものだ。
ピコがいる台所は、ピコがいない台所と違う。
音でも、明るさでもない。
でも、違う。
俺はスープを飲み干した。
うまかった。
* * *
JAGLの窓口に電話した。
受付番号を伝える。
職員は、保存容器を開けず、写真は送らず、昼に支部へ持ち込むよう言った。
ピコについては、体調異常がなければ移動用ケースで同行可。
ただし、欠片もピコも動画に映さないこと。
公開するなら、帰還したことと体調観察中であることまで。
俺は一つずつメモした。
ピコはカウンターで首をかしげていた。
何を話しているのか分からない顔だった。
「お前のことだよ」
「ぴこ」
一声。
低い。
不満そうだった。
その声を聞いて、少し笑った。
カメラを取り出した。
角度を決める。
保存容器は映さない。
ピコはカウンターの端にいる。
スープの器も、今日は映さない。
まず、俺の顔だけでいい。
録画ボタンに指を置く。
まだ少しだけ、ピコが帰ってきた実感を自分の中に置いておきたかった。
でも、待っている人がいる。
ピコを待っていたのは俺だけではない。
俺は録画ボタンを押した。
「ピコが帰ってきました。元気です。詳しいことは、確認が終わってから話します」
言えた。
声は震えていなかった。
録画を止めた。
再生して確認する。
画面には俺の顔だけがあった。
青緑の光も、保存容器も、スープの器も映っていない。
保存容器は映っていない。
台所の奥も映っていない。
ピコがどこへ行っていたか、何を持っていたかも話していない。
ただ、帰ってきたことだけを言っている。
これなら出せる。
タイトルは短くした。
「ピコ、帰ってきました」
概要欄には、体調観察中、詳細確認中、未確認情報は出さない、とだけ入れた。
投稿ボタンを押す前に、カナメへ同じ文面を送った。
「ピコ戻った。元気。詳しいものはJAGL確認待ち。動画は帰還報告だけ出す」
すぐに返事が来た。
「よかった。出していい範囲で出せ」
それを見てから、投稿ボタンを押した。
公開直後、コメントが流れた。
「ピコおおお」
「帰ってきた」
「よかった」
「無事ならそれでいい」
短い言葉ばかりだった。
でも、画面の向こうで待っていた人がいた。
俺だけではなかった。
ピコがカウンターの端からスマホの画面を覗いた。
「ぴこ」
一声。
低かった。
「みんな待ってたんだよ」
「ぴこぴこ」
二声。
半音、上がった。
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