第83話 暗闇の通路
三日後、再びB5へ降りた。
今回は、前回とは別の申請だった。
B5第六採掘エリア北側壁面、追加確認。
採取なし。
撮影はJAGL記録端末のみ。
公開禁止。
壁面を削らない。
可動部が見つかった場合は、巡回員と調査員の判断で、入口側の安全確認まで。
奥へ進む場合は五メートル以内。
それ以上は、別申請。
条件を手帳に写したとき、前回よりも字が小さくなった。
怖いからだと思った。
怖いなら、大きく書くべきだったのかもしれない。
でも、小さくても、書いた。
母には出発時刻と帰還予定を送った。
カナメにも送った。
「今日、壁の追加確認に行く。JAGL同行。無理はしない」
返事は短かった。
「分かった。戻ったら教えて」
それだけだった。
それでも、返ってきた。
まだ会って話せてはいない。
これは仲直りの返事ではなく、行き先を黙らなかったことへの返事だった。
俺はその画面を一度だけ見て、スマホをしまった。
台所で、昨日のグリーンモスを少しだけ入れたおにぎりを食べた。
JAGL食用登録済み。
加熱済み。
冷めても、青い香りが米の中に残っていた。
腹に入れる。
ゲン爺の言葉を思い出す。
空っぽのまま地図を見ると、ろくなことを考えない。
今日は空っぽでは行かない。
* * *
B5の空気は、前回と同じように黒かった。
巡回員は前回と同じ男性。
今日はもう一人、JAGLの調査員がいた。
調査員は薄いケースに入った記録端末を持っている。
「佐々木さんは壁面に触れる前に申告してください」
「はい」
「反応があっても、単独判断で押さない。こちらが確認してからです」
「分かっています」
言われなくても、と思いかけて、やめた。
言われる必要があるから、ここに人がいる。
俺は採取Sを動かした。
暗闇を見通すためではない。
床の凹みと、壁の距離と、素材の反応を拾うため。
前回の通路を進む。
シャドウバットの下では、巡回員が手を上げた。
停止。
天井の影は、前回よりも二体多かった。
採取Sは、その影の意図を教えない。
羽の膜が空気を押す微かな動きだけが、指先に来る。
巡回員が遮光灯の角度を変え、影の端を確認した。
通過。
合図を見て、俺は一歩ずつ進んだ。
七分で通るつもりだった。
今日は九分かかった。
前回より遅い。
でも、音は立てなかった。
速く進むことより、起こさないことの方が大事だった。
* * *
北側壁面の記号は、まだ光っていた。
▽の右に短い線。
古地図と同じ印。
JAGLの調査員が記録端末を構えた。
「公開用ではなく内部記録です」
「はい」
俺は古地図を取り出した。
紙を壁には当てない。
ただ、同じ形であることを目で確認する。
それから、壁の前で手を止めた。
「触れます」
巡回員が頷く。
調査員も頷いた。
俺は記号の横、前回より温かく感じた部分に指を置いた。
石は冷たい。
その下に、別の温度がある。
薄い膜の向こうで、水が流れているような温度。
採取Sが拾ったのは、壁の向こうの空気だった。
狭い。
でも、空洞がある。
その程度しか分からない。
「ここ、奥に空気があります」
俺は言った。
調査員が端末を壁に近づける。
「気圧差、微量。可動部の可能性あり」
巡回員が俺を見た。
「押す場所は分かりますか」
「分かる、というより、温度が違う場所があります」
「こちらで確認します」
調査員が手袋をつけ、記号の端を押した。
何も起きない。
もう一度、少し位置を変える。
石の中で、低い振動があった。
音はほとんどしなかった。
ただ、壁の一部が奥へ沈む。
最初からそう動くように作ってあった。
偶然壊れたのではない。
誰かが、開くように作った。
隙間から、冷たい風が出た。
B5の乾いた石の匂いとは違う。
古い。
でも、澱んでいない。
かすかに甘い。
スライムゼリーを初めて切ったときの、あの薄い甘さに似ていた。
もっと遠く、もっと乾いた甘さだった。
* * *
「入口側だけ確認します」
巡回員が言った。
調査員が端末を隙間に向け、酸素濃度と異常ガスの表示を確認した。
「入口側、数値は許容範囲です」
「佐々木さんは中央。私は後ろ。調査員は入口で記録。五メートルで停止」
「はい」
俺は隙間に体を入れた。
肩が石に触れないよう、採取袋を胸の前に抱える。
中は、思ったより広かった。
B5の低い天井ではない。
頭上に空間がある。
巡回員の遮光灯が、白い壁を照らした。
白い。
岩盤ではなかった。
石に似ているのに、石の冷たさがない。
触る前から、少し温かい。
調査員が入口から声を落とした。
「人工構造物の可能性」
その言葉で、背中がぞくりとした。
人工。
ダンジョンの中に、人が作ったような空間。
でも、大発現後のJAGL設備ではない。
三十年前の採掘跡とも違う。
採取Sが拾う温度は、もっと古かった。
年数は分からない。
何百年なのか、もっと前なのかも分からない。
ただ、B5の岩盤とは別物だということだけは分かった。
壁には、細い線が刻まれていた。
文字のようにも見える。
模様のようにも見える。
日本語ではない。
採取Sで意味を読むことはできない。
でも、線の並びには用途があった。
同じ形が何度も出る。
箱を示すような形。
積まれた記録を示すような形。
俺は手帳に、見たままを書いた。
記録。
保管。
継ぐ。
これは翻訳ではない。
そう感じた用途のメモだった。
調査員が端末で壁を撮る。
巡回員が腕時計を見た。
「残り三分。奥は見ますか」
俺は頷いた。
進めるのは五メートルまで。
その先に何があっても、今日は触らない。
* * *
通路の先に、低い台のような影があった。
白い床の上に、同じ白の台。
その上で、細い光が息をしていた。
青でも、緑でもない。
白い光。
でも、ピコの光を思い出した。
なぜかは分からない。
光の中心に、薄い板のようなものが置かれている。
形までは、まだはっきりしない。
手を伸ばせば届く距離ではない。
五メートルの線の向こうだった。
採取Sが、強く反応した。
食材を見つけたときの反応ではない。
鉱石を見つけたときの反応でもない。
もっと深い場所で、長い時間閉じられていたものが、空気に触れている反応だった。
俺は一歩、出そうとして止めた。
巡回員の手が横に上がっている。
停止。
五メートル。
ここまで。
胸の奥が、引っ張られた。
行きたい。
何なのか見たい。
でも、今日の条件はここまでだ。
俺は手帳に書いた。
白い通路。
人工構造物の可能性。
記録、保管、継ぐ。
五メートル先、白い台。
薄い板のようなもの。
触らない。
持ち帰らない。
次回、別申請。
書いてから、ようやく息を吐いた。
「戻ります」
自分で言った。
巡回員が頷いた。
調査員が端末を閉じた。
壁の外へ戻ると、B5の黒い空気が急に重く感じた。
さっきまで、あの白い通路の空気を吸っていたからだ。
父がここを見たかったのかもしれない。
ピコがここへ向かったのかもしれない。
どちらも、まだ分からない。
でも、通路はあった。
白い台もあった。
今日は、それを持って帰る。
* * *
地上へ戻るまで、誰も大きな声を出さなかった。
B5の魔法陣を出て、B4の微光が見えたとき、胸の奥がようやく広がった。
B3、B2、B1。
階層を上がるたびに、空気の匂いが変わる。
B2の青い苔の匂いがした瞬間、少しだけ膝の力が抜けた。
地上の受付で、調査員が記録端末を提出した。
巡回員が報告欄を読み上げる。
B5第六採掘エリア北側壁面。
可動部確認。
入口側五メートルまで進入。
人工構造物の可能性。
白色壁面、文字状模様、低い台状構造物を視認。
採取なし。
持ち帰りなし。
公開撮影なし。
異常接触なし。
次回調査は別申請。
俺は一つずつ頷いた。
自分の体で見てきたことが、報告欄の言葉になる。
それだけで、少し現実に戻ってくる。
「佐々木さん、次回申請を出す場合、単独申請ではなく調査同行枠になります」
受付の職員が言った。
「分かりました」
「今日の内部記録は公開できません。動画やコメント欄で、B5の位置、可動部、通路の詳細に触れないでください」
「触れません」
スマホを出し、母に戻ったと送った。
続けてカナメにも送る。
「戻った。怪我なし。話したいことが増えた」
返事はまだない。
でも、今度は待てた。
戻ってきたからだ。
登録者:三万七千二百四人。
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