第82話 B5へ降りる
朝、出発前に二通送った。
母には、JAGL巡回員同行でB5の確認に行くこと。
十時入場、二十分、採取なし、撮影なし、帰還後すぐ連絡すること。
カナメには、もっと短く書いた。
「今日、B5の確認に行く。JAGL同行。帰ったら、ちゃんと話す」
送信ボタンの上で、指が止まった。
助けて、と書けなかった。
でも、何も言わずに行くのは違う。
昨日、手帳にそう書いた。
俺は送信した。
すぐに既読はつかなかった。
それでいい。
返事を待つ時間ではなかった。
父の古地図と、JAGLの承認画面と、緊急ビーコンを確認する。
ピコは、いない。
カウンターの端は空いている。
それでも、出る。
今日は探しに行くのではない。
光っている記号が何を示すのか、条件の中で確かめに行く。
* * *
JAGL晴海支部の受付で、カードを通した。
職員が承認画面を確認する。
「B5第六採掘エリア、北側壁面入口側まで。採取なし、撮影なし、活動時間二十分。巡回員同行。間違いありませんね」
「はい」
「位置情報、緊急ビーコン、音声通信、すべてオンです。現地判断は巡回員の指示を優先してください」
「分かっています」
巡回員は、四十代くらいの男性だった。
短く会釈をして、俺の装備を見た。
「ヘッドランプは持っていますか」
「あります。でも、使わない予定です」
「シャドウバットが反応するので、こちらの遮光灯を最低出力で使います。あなたは採取Sで壁の反応を見る。危険個体の判断はこちらがします」
はっきり分けられた。
俺が見るもの。
巡回員が見るもの。
そこを混ぜないための同行だった。
受付の奥で、転移魔法陣が青く光っている。
B1。
B2。
B3。
B4。
いつもなら、どこかで止まる。
今日は止まらなかった。
巡回員が先に魔法陣へ入る。
俺は一拍遅れて、その後に入った。
B5の文字が、足元で冷たく光った。
* * *
転移の瞬間、空気が変わった。
B4の石英の微光が消える。
次に来たのは、黒い空気だった。
光が少ない、ではない。
光が飲まれる感じがした。
巡回員の遮光灯が、足元だけを赤く照らしている。
壁は黒い。
天井も黒い。
床も黒い。
同じ黒なのに、触る前から重さが違うように見えた。
B2の苔の湿った匂いはない。
B4の石英の乾いた匂いとも違う。
古い金属と、乾いた石を混ぜたような匂いがした。
息を吸うと、喉の奥が少し冷える。
「足元注意」
巡回員が低く言った。
声も小さい。
俺は頷いた。
声を出さない。
採取Sを動かす。
見えるものを増やすためではない。
壁の位置、床の段差、素材の反応を指先で拾うためだった。
右手をわずかに開く。
黒い壁の輪郭が、手のひらの外側に触れた。
床の凹みが、足裏に来る前に指先へ響く。
昨夜、部屋で読めなかった小さな紙片のことを思い出す。
全部は拾えない。
生き物は別。
戦闘はできない。
その三つを、頭の中で繰り返した。
* * *
第六採掘エリアまでは、八分ほどだった。
巡回員の腕時計が、小さく振動する。
「残り十二分」
短い報告だった。
通路の途中で、天井に黒い塊が見えた。
シャドウバットだった。
六体。
翼を畳み、逆さまに止まっている。
巡回員が手を上げる。
停止。
俺は足を止めた。
呼吸も浅くする。
採取Sは、天井の生き物の意図を教えてくれない。
ただ、空気の流れと、羽のわずかな揺れが、そこにいると知らせるだけだ。
巡回員が指で合図した。
通過。
一歩。
もう一歩。
靴底を置く場所を、指先で選ぶ。
小石が一つ、足の横で転がった。
音は小さかった。
それでも、天井の影が一つ、ぴくりと動いた。
巡回員が再び手を上げる。
停止。
十秒。
二十秒。
翼は開かなかった。
影はまた、天井に沈んだ。
俺は息を吐いた。
胸の中で、音が大きい。
ここで戦う力はない。
だから、音を立てずに通る。
それは逃げではなかった。
今日の条件だった。
* * *
第六採掘エリアの入口には、腐食した金属標識が立っていた。
巡回員の遮光灯が、文字の端だけを照らす。
第六採掘区。
新しい看板ではない。
大発現直後の旧規格に見えた。
俺は触らない。
採取なし。
削らない。
持ち帰らない。
見るだけ。
エリアの中は、通路より少し広かった。
壁の表面には、工具で削った跡が残っている。
床には低い段差がある。
掘った跡と、埋め戻した跡。
三十年前、誰かがここで手を動かした。
父も、その一人だったのかもしれない。
そう思った瞬間、胸が熱くなる。
でも、決めつけない。
父がここに来た証拠は、まだない。
地図の記号と、ゲン爺の控えと、今の光。
あるのはその三つだけだ。
北側の壁へ近づく。
巡回員が腕時計を確認した。
「残り七分」
「はい」
壁の前で、俺は止まった。
古地図を出す。
撮影はしない。
紙を壁に当てることもしない。
ただ、光る記号と壁の印を見比べる。
壁には、同じ形の記号があった。
▽の右に短い線。
地図と同じ形。
暗闇の中で、薄く青く光っている。
指先が、じわりと温かくなった。
採取Sが拾ったのは、壁の向こうから来る冷たい空洞のような反応だった。
何かがある。
そう思った。
でも、何があるかは分からない。
安全かどうかも分からない。
父が触れたかどうかも分からない。
壁の向こうに行けるかどうかも、今日の俺には分からない。
分からないことばかりだった。
それでも、地図の光と壁の光は同じだった。
今日は、それを確認するために来た。
「確認できました」
俺は小声で言った。
巡回員が頷く。
「撤退します」
その言葉に、体の奥が反射的に反発した。
もう少し見たい。
壁に触りたい。
押せる場所がないか探したい。
でも、今日の条件はそこまでではない。
俺は古地図を畳んだ。
「撤退します」
自分でもう一度言った。
* * *
帰り道の方が長く感じた。
シャドウバットの下を通るとき、今度は小石を踏まなかった。
採取Sで床の凹みを拾い、巡回員の合図に合わせて歩く。
魔法陣の青い光が見えたとき、膝から力が抜けそうになった。
でも、座らなかった。
地上へ戻るまでが、確認枠だった。
B4の石英の微光が、一瞬、眩しく見えた。
B3の空気は生き物の匂いがした。
B2の青緑は、昨日までより明るく見えた。
B1の水音が聞こえたとき、ようやく息が深く入った。
地上の受付で、帰還報告を入れる。
B5第六採掘エリア北側壁面入口側。
採取なし。
撮影なし。
壁面記号の目視確認のみ。
異常接触なし。
シャドウバット活動、低。
巡回員が内容を確認し、承認した。
「次回、壁面調査を希望する場合は、別申請です」
「はい」
「今日はここまでです」
「分かっています」
今度は、少しだけ笑えた。
今日はここまで。
その言葉は、止める言葉ではなく、戻ってきた証拠だった。
* * *
母に「戻った。怪我なし。JAGL報告済み」と送った。
すぐに既読がついた。
「よかった」
その五文字を見てから、カナメのトーク画面を開いた。
既読がついていた。
返事はなかった。
それでも、俺はもう一行送った。
「戻った。怪我なし。今度、ちゃんと話したい」
送信したあと、スマホを伏せた。
逃げなかった。
それだけで、胸の奥が少し痛かった。
台所に立つ。
昨日のグリーンモスがまだ少し残っていた。
袋のラベルを確認する。
B2グリーンモス。
JAGL食用登録済み。
加熱用。
フライパンにバターを落とす。
じゅっと音が立った。
B5の暗闇では、音を立てないように歩いた。
ここでは、音がしていい。
バターの泡が広がり、刻んだグリーンモスが香る。
青い匂いと、焦がしバターの甘さ。
それを皿に盛って、一人で食べた。
うまかった。
B5の黒い空気が、少しずつ体から抜けていく。
ピコの声はない。
でも、カウンターの端に布巾を畳んで置いた。
戻る場所は、まだここにある。
父の古地図と同じ記号は、B5の壁にあった。
壁の向こうに、何かがある。
今日はそれだけを持って帰った。
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