第81話 光る古地図
地図の記号は、朝になっても光っていた。
夜中に一度、明け方にもう一度、確認した。
消えていなかった。
テーブルに広げると、青みがかった細い光が、紙の上に残っている。
強い光ではない。
窓から入る朝の光に紛れそうな、小さな点だった。
でも、そこだけが沈まなかった。
採取Sを動かす。
意味を聞くためではない。
行けと言わせるためでもない。
指先に残る反応を確かめるためだった。
光る記号の上に触れると、紙の冷たさの下に、古い熱があった。
B2の苔とも、B4第三採石エリアの岩壁とも違う。
もっと乾いて、もっと奥で眠っていた熱。
分かるのは、それだけだった。
場所の名前も、行き方も、何があるかも分からない。
だから、俺は地図を畳んだ。
ゲン爺に見てもらう。
昨日の手帳に書いたとおり、まず再確認する。
* * *
源田屋へ向かった。
朝の商店街は、まだシャッターの下りている店が多かった。
通りの端に、掃除をしている人がいる。
昨日より、足は重くなかった。
軽いわけでもない。
ただ、目的地があった。
引き戸を開けると、ゲン爺は帳簿に向かっていた。
俺を見ると、帳簿を閉じた。
「光ったか」
「まだ光っています」
俺は地図をカウンターに置いた。
ゲン爺は茶を出すより先に、地図を開いた。
紙の上の細い光を見て、しばらく黙った。
「昨日よりはっきりしているな」
「これ、何の記号ですか」
「ワシ一人では読めん」
ゲン爺はそう言って、棚の奥へ行った。
古いファイルを持って戻る。
黒い表紙の端が白く擦れていた。
「健次郎に教えてもらった記号の控えだ。全部じゃない。あいつは、最後まで全部は見せなかった」
ファイルの中には、手書きの対応表が挟まっていた。
△。
◎。
▽。
父の地図に散っている印と同じ形が、何種類も並んでいる。
ゲン爺は、対応表と地図を横に置いた。
太い指が、紙の上をゆっくり動く。
光っている記号の前で止まった。
「▽の右に短い線。これなら、採掘区画の印だ」
「採掘区画」
「今のJAGL地図で言うなら、B5第六採掘エリア。北側の突き当たりに近い」
B5。
言葉だけで、背中が固くなった。
B4より下。
父の事故の記録よりも、さらに奥へつながる場所。
ゲン爺はすぐに続けた。
「ただし、古い地図だ。今の通路名や警戒区分と完全に一致するとは限らん。光がそこを示しているのか、そこに関係する何かを示しているのかも、まだ分からん」
その言い方に、少しだけ息が戻った。
分からない。
でも、候補は出た。
それで十分だった。
* * *
「父は、そこへ行こうとしていたんですか」
聞くと、ゲン爺は目を細めた。
「行こうとしていた。少なくとも、調べようとしていた」
「行けたんですか」
「分からん」
また、分からないだった。
でも昨日と同じように、その答えは正直だった。
「健次郎は慎重だった。ワシにも、必要なところまでしか話さなかった。話すと巻き込む、と言ってな」
「巻き込む」
「そういう顔をしていた。怖がっている顔じゃない。守るために黙る顔だ」
父の顔を思い出そうとした。
六歳の俺が覚えているのは、台所で笑う顔と、ザックを背負って出ていく背中だけだ。
守るために黙る顔は、思い出せなかった。
それが少し悔しかった。
「行きたいです」
口に出すと、ゲン爺はすぐに首を振った。
「行きたいだけでは駄目だ」
「分かっています」
「B5はF級単独で行く場所じゃない。今の坊主にはピコもいない。採取Sは壁や素材の反応を拾えるが、シャドウバットの攻撃を止めてはくれん」
「はい」
「戦えないことを忘れるな」
その言葉は痛かった。
でも、必要だった。
「忘れません」
「なら、手順を踏め。JAGLへ申請する。採取なし、撮影なし、確認範囲は入口側から北側壁面まで。巡回員同行。活動時間は短く。異常があれば即撤退」
昨日、B4へ行ったときの条件に似ていた。
でもB5は、もっと重い。
俺はスマホを出した。
JAGLアプリを開く。
特殊スペシャリスト確認枠。
申請理由の欄で、指が止まった。
父の地図、と書くべきか。
ピコの光、と書くべきか。
どちらも、そのまま書くには足りなかった。
ゲン爺が言った。
「古地図の記号反応確認。B5第六採掘エリア北側。採取なし。撮影なし。同行希望。まずはそれでいい」
俺はそのまま入力した。
送信する前に、深く息を吸った。
送信。
画面に、審査中の文字が出た。
* * *
申請結果は、昼過ぎに届いた。
条件付き承認。
翌朝十時。
B5第六採掘エリア、北側壁面の入口側まで。
JAGL巡回員同行。
活動時間二十分。
採取なし。
撮影なし。
戦闘発生時は即撤退。
シャドウバットの活動が強い場合は中止。
そのあと、支部職員から確認電話が来た。
「佐々木さん、今回の確認は通常採取ではありません。現地で光や記号を見つけても、壁面を削る、持ち帰る、配信に映す、位置を公開する行為はできません」
「分かっています」
「戦闘Fであることを前提に、巡回員の停止指示が出たら即時撤退です。緊急ビーコンと位置共有は常時オン。ご家族にも帰還予定時刻を共有してください」
淡々とした確認だった。
だからこそ、胸に入った。
B5へ行くという言葉が、冒険ではなく手続きになる。
それは少し冷たい。
でも、冷たい手続きがあるから、俺は自分の熱だけで奥へ進まずに済む。
「母には、出発前に送ります」
「お願いします。帰還報告が遅れた場合は、支部から確認連絡を入れます」
電話を切ると、手のひらが汗ばんでいた。
怖くないわけではない。
むしろ、怖いから条件が必要だった。
表示された条件を、俺は一つずつ手帳へ写した。
写すたびに、胸の中の熱が少し落ち着いた。
行ける。
でも、勝手には行けない。
その二つが同時にあることが、今は大事だった。
カナメに連絡するか、しばらく迷った。
A級の彼女なら、B5の危険を知っている。
でも、今の俺は、まだ彼女に助けてと言える形に戻れていなかった。
言い訳だと分かっている。
それでも、今日のところは手帳に一行だけ書いた。
御崎カナメへ相談すること。
逃げるためではない。
忘れないためだった。
出発前に送る文面だけは作る。
送れるかどうかは、まだ分からない。
それでも、何も書かないまま行く選択だけは消した。
* * *
アパートに戻り、部屋の電気を消した。
B5へ行く準備ではない。
採取Sだけで全部できると思い込まないための確認だった。
目を閉じる。
部屋の空気が暗くなる。
指先をゆっくり前へ出す。
壁の位置は、少し分かった。
机の角も分かった。
椅子の背も、近づくと分かった。
でも、足元の小さな紙片には気づけなかった。
踏んで、音で分かった。
俺は電気をつけた。
手帳に書く。
壁は読める。
机は読める。
床の小物は見落とす。
生き物は別。
戦闘はできない。
書いてみると、できることより、できないことの方が大事に見えた。
それでいい。
できないことを見落としたら、B5では戻れない。
* * *
台所に立った。
冷蔵庫に、グリーンモスが残っている。
袋のラベルを見る。
B2グリーンモス。
JAGL食用登録済み。
加熱用。
フライパンを熱し、バターを落とした。
じゅっと音が立つ。
黄色い泡が端から広がる。
刻んだグリーンモスを入れると、青い香りが立った。
昨日のスープより強い。
バターの甘い匂いと混じって、台所が少しだけ明るくなる。
パチパチと音が鳴る。
水気が抜け、色が濃くなる。
塩を振る。
皿に盛る。
一人で食べた。
焦がしバターの甘さのあとに、グリーンモスの青さが来る。
噛むと、細い繊維がほどけた。
苦味はほとんどない。
うまい。
ピコがいたら、たぶんカウンターの端で羽を震わせた。
半音上がる声で、鍋の方を覗き込んだ。
その声はない。
でも、俺は覚えている。
忘れないことは、戻る保証ではない。
それでも、戻る場所をなくさないことにはなる。
皿を洗い、布巾を畳んだ。
カウンターの端に置く。
ピコがいつも座っていた場所だった。
地図はまだ、テーブルの上で光っていた。
明日、B5第六採掘エリアの入口側へ行く。
許可条件を守って、光っている記号が何を示すのかを確かめる。
登録者:三万六千六百十二人。
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