第80話 小さな光
翌日、源田屋に行った。
寝た気がしなかった。
目を閉じると、B2の天井に薄く残っていた青緑の光が浮かんだ。
目を開けると、台所のカウンターにピコがいなかった。
その二つを何度も行き来したまま朝になった。
引き戸を開けると、ゲン爺は棚の前にいた。
俺の顔を見て、眉だけを動かした。
「座れ」
それだけ言って、湯を沸かし始めた。
茶の缶を棚から出す。
茶碗を温める。
いつもの所作だった。
何も聞かずに準備を始めることで、ここで話していいと言っていた。
俺はカウンターに座った。
湯気が細く上がる。
茶の匂いが、昨日のB2の冷たさを少しだけ押し戻した。
* * *
「ピコがいなくなった」
言葉にすると、胸の中の空白が少し重くなった。
ゲン爺は茶碗を置いた。
「いつからだ」
「昨日、B4から戻ったあとです。部屋のどこにもいなくて、夜にB2まで確認に行きました」
「B2まで、だな」
「はい。夜間許可の範囲はB2までだったので、そこで止まりました。入場ログも帰還報告も残してあります」
ゲン爺は小さく頷いた。
「なら、まずはそれでいい」
「よくはないです」
「分かってる。だが、奥へ勝手に行かなかった。そこは間違えるな」
茶碗を握る手に力が入った。
指先が熱い。
「青緑の熱が、許可範囲の先へ続いている感じがありました。でも、ピコの理由は分かりません。採取Sは、そこまでは教えてくれませんでした」
「教えない方がいい」
ゲン爺は低く言った。
「道具が人の代わりに全部決め始めたら、そいつはもう道具じゃない」
「……はい」
「それで、JAGLにはどう言った」
「B2入口側のみ、採取なし、異常なし、とだけ。ピコのことは、どう扱えばいいか判断できませんでした。魔物紛失なのか、未知の小さな生き物の相談なのか、自分では分からなくて」
「それでワシのところに来た」
「はい。必要なら、このあとJAGLにも相談します」
ゲン爺は腕を組んだ。
しばらく、茶の湯気だけが動いた。
「坊主。ピコみたいな青緑の小さい光の話は、昔の記録にもある」
「本当ですか」
「本当かどうかも含めて、古い話だ。第一世代の採取屋の聞き書きに、何度か出てくる。小さな光。食い物の匂いに寄る。最浅層の古い場所でだけ姿を見せる」
俺は茶碗を置いた。
音が思ったより大きかった。
「ピコは、何なんですか」
「分からん」
即答だった。
期待していた答えではなかった。
でも、嘘ではなかった。
「分からんが、敵として記録されたものではない。持ち主の言うことを聞く道具としても記録されていない。近づく相手は、だいたい決まっている」
「採取Sですか」
「採取が異様に高い人間だ。昔の記録は今のランク表記と違うが、そう読める」
ゲン爺は俺を見た。
「だからといって、戻るとは言えん」
「……はい」
「だが、失くしたと決めるのも早い。ああいうものは、人間の都合ではなく、場所の都合で動くことがある」
場所の都合。
B2の許可範囲の先。
昨日、手帳に書いた文字が頭に浮かんだ。
追わない。
追えない。
勝手に深追いしない。
その文字が、今も手を止めていた。
* * *
「ゲン爺。もう一つ聞いていいですか」
「何だ」
「父は、何を守ろうとしていたんですか」
ゲン爺は答えなかった。
店の奥で古い時計が鳴った。
一回だけ。
昼にはまだ早い時間だった。
棚には、擦り減ったロープと、古い採取袋が並んでいる。
その間に、俺の父がいた時間も残っているように見えた。
「採取データの独占に反対していた文書は見ました。父の名前も、槇原太郎の名前も」
「見たか」
「でも、父が守りたかったものがデータだけだったとは思えません」
「データも大事だ」
ゲン爺は言った。
「だが、健次郎が一番嫌っていたのは、最浅層を数字だけにされることだった」
「数字だけ」
「採れる量。売れる値段。成分表。独占できる権利。そういうものだけで、最浅層を見ることだ」
茶が冷めていく。
俺はまだ飲めなかった。
「最浅層には、誰も見向きもしないものがある。食べたら不味いと言われたもの。使い道がないと言われたもの。採る価値がないと言われたもの」
「グリーンモスみたいに」
「そうだ」
ゲン爺は目を細めた。
「健次郎は言っていた。誰かがいつか、それを美味いと言う日が来る。美味いと言って、記録して、また食べる人間が来る。そいつが来たら、最浅層はただの低階層じゃなくなる、と」
息が止まった。
美味いと言って、記録して、また食べる。
それは、俺がしてきたことだった。
父が俺を知っていたわけではない。
俺が動画を始めることも、ピコと出会うことも、グリーンモスをスープにすることも知らなかったはずだ。
それでも、父の言葉が先に置かれていた。
俺が歩いてきた道の、少し前に。
「父は、俺を待っていたんですか」
「違う」
ゲン爺はきっぱり言った。
その声で、胸がまた詰まった。
「健次郎は、まだ見ぬ誰かを待っていた。お前個人を予言したわけじゃない」
「……はい」
「だからこそ、重いんだ。たまたま息子だったから受け取るんじゃない。美味いと言って続けた人間だから、今ここに座っている」
喉の奥が細くなった。
言葉が出なかった。
茶碗を持ち上げた。
冷めかけた茶が舌に触れる。
渋みがあった。
その渋みで、ようやく息が戻った。
* * *
「坊主」
「はい」
「今日は奥へ行くな」
「行きません」
「御崎の子とのことも、ピコのことも、JAGLの相談もある。地図だけで動くな」
その名前で、胸の奥が少し痛んだ。
カナメには、まだ連絡できていない。
でも、いつまでも避けていられる相手でもなかった。
「分かっています」
「本当に分かってるか」
「昨日、B2の端で止まりました」
ゲン爺は俺の顔を見た。
それから、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「なら、今日も止まれる」
その言葉は、慰めではなかった。
確認だった。
「帰ります。家で、父の地図をもう一度見ます」
「見てもいい。だが、決めるのは明日以降だ」
「はい」
「腹に何か入れろ。空っぽのまま地図を見ると、ろくなことを考えん」
「最浅層の助言っぽくないですね」
「腹が空いた人間は判断を間違える。ダンジョンでも地上でも同じだ」
それは妙に納得できた。
俺は茶を飲み干し、頭を下げた。
「ありがとうございました」
「また来い」
引き戸を開ける前に、ゲン爺が言った。
「ピコのことは、ただの迷子にするな。だが、失った話にもするな」
俺は振り返った。
「はい」
それだけ答えた。
* * *
帰宅した。
部屋は静かだった。
ピコはいない。
それは昨日と同じだった。
でも、昨日と違って、俺はまず台所に立った。
鍋に残っていたグリーンモススープを温め直す。
JAGL食用登録済み。
加熱用。
昨日、自分で確認したラベルをもう一度見た。
火にかけると、昆布の匂いが先に立った。
その後から、グリーンモスの青い香りがゆっくり戻ってくる。
鍋底で小さな泡が揺れた。
ことことという音が、台所に置かれる。
ピコの声はない。
でも、音はある。
匂いもある。
俺は器にスープを注いだ。
昨日より少しだけ塩を足した。
ひと口飲む。
温度が喉を通り、胃の奥へ落ちる。
青さの後に、昆布の旨みが残った。
「……美味い」
声に出した。
ピコはいない。
でも、美味いと言うことはできた。
その声が、台所に残った。
* * *
引き出しから父の古地図を取り出した。
父のザックに入っていた、読めない記号だらけの古地図だ。
以前、源田屋でゲン爺に見てもらったことがある。
紙は少しざらついている。
角が丸い。
父の筆跡ではない線と、父が後から足したらしい印が混じっていた。
俺は地図をテーブルに広げた。
採取Sを動かす。
何を意味しているかを聞くためではない。
どこへ行くべきかを決めさせるためでもない。
紙の上に残る素材の反応を、指先で確かめるためだった。
人差し指をゆっくり滑らせる。
何もない記号は、ただ紙の冷たさだけを返した。
△の印。
丸で囲まれた点。
斜めに伸びる線。
その中の一つで、指先が止まった。
冷たい紙の下に、細い熱があった。
B2の苔の熱ではない。
昨日、B4の岩壁で触れた熱とも少し違う。
もっと古く、もっと奥に沈んだものの、残り火のような感覚だった。
俺は指を離した。
記号の縁が、青みがかった光を帯びて見えた。
見間違いだと思った。
目を閉じる。
息を数える。
もう一度開く。
光はまだそこにあった。
強い光ではない。
台所の蛍光灯に負けそうな、細い光だった。
でも、消えなかった。
「ここに、何かがある」
採取Sが言ったのではない。
俺が言った。
指先の熱と、地図の光と、父の残した印を合わせて、そう思った。
父が行こうとしていた場所かもしれない。
ピコの青緑の熱と、つながっている場所かもしれない。
まだ、どちらも断定できない。
でも、見ないふりはできなかった。
手帳を開いた。
光る記号。
青み。
指先に古い熱。
意味は未確定。
ゲン爺へ再確認。
必要ならJAGLへ相談。
最後に、もう一行書いた。
今日は行かない。
書いてから、息を吐いた。
小さな光は、まだ地図の上にあった。
絶望の底に落ちたままではない。
でも、救われたわけでもない。
ただ、暗い台所のテーブルに、消えない点が一つある。
それだけで、今夜は十分だった。
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