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第9話 父の書斎で見つけたもの

 日曜日の朝、八時。母の引き出しのいちばん下から、小さな鍵を取り出した。


 真鍮の、四センチほどの鍵。鍵の頭に、蝕んだような黒い斑点が浮いている。十二年、引き出しの底で、誰にも回されないまま、待っていた鍵だ。


 手のひらに乗せると、想像していたよりも、ずっと軽かった。


 * * *


 二階の北側、廊下のいちばん奥に、十二年閉じている扉が一つある。


 俺が子供の頃、父が「書斎」と呼んでいた部屋。母が「健次郎の部屋」と呼ぶようになったのは、父がいなくなった翌週からで、それからはただ、「あの部屋」になった。


 扉のノブは、銀色の光を、表面の塗装の下に、薄く残していた。回した。動かなかった。十二年使われていない蝶番が、軋む音を、扉の中に閉じ込めたまま、止まっている。


 もう一度、力を入れて回した。乾いた音と一緒に、扉が、五センチ、内側に開いた。


 埃の匂いが、廊下に流れ出した。


 甘い匂いではなかった。乾いた紙と、革と、男の汗が薄く染み付いた古い椅子の、なつかしいような、なつかしいと言うには俺の記憶が幼すぎる、そういう匂いだった。


 * * *


 扉を、全部、開けた。


 六畳ほどの部屋。窓のカーテンは閉じられたまま、隙間から、薄い朝の光が、床のフローリングに、一本の線を引いていた。


 左の壁に、本棚。ダンジョン関連の専門書、古い地図帳、そして、料理本。料理本が、思っていたより多い。和食、中華、フランス料理、家庭料理、ダンジョン素材の解説書。背表紙の高さが揃っていない。父が読んだ順に、たぶん、入れていった本たち。


 正面に、机。机の上には、何もない。きれいに片付けられている。母が、ここだけは、年に一度くらい拭いていたのかもしれない。


 机の下、椅子の脇に、黒革のザックが置いてあった。


 ——玄関のザックは、今朝、棚から下ろして、ここに運んできた。中身を、この部屋で、開ける。それが、俺なりの、礼儀のつもりだった。


 * * *


 ザックを、机の上に乗せた。鍵穴に、鍵を、差し入れた。


 錆が、薄く軋んだ。回した。


 カチ、と、十二年動かなかった音が、ジッパーの内側で、開いた。


 ジッパーを、ゆっくり、引いた。


 左手で前髪を掻き上げた。今日は、その手が、ザックの蓋に、伸びた。


 中には、三つのものが、入っていた。


 ・革表紙のノート——一冊。表紙は黒、角は擦り切れている。

 ・折り畳まれた古い紙——一枚。広げる前から、地図だと、輪郭で分かった。

 ・もう一つの、薄いノート——表紙は布張りで、シミが点々と落ちている。表紙の手書きの文字は、消えかけているが、『調』とだけ、読めた。


 順番に、見ていく。


 * * *


 まず、革表紙のノート。


 開いた最初のページに、父の字で、日付が書かれていた。二〇一三年、四月十二日。十二年と、少し前。


 その下に、続く文字は、半分が日本語、半分が、見たことのない記号と図形だった。


 円と、三角と、点。二、三の漢字。そして、矢印。所々に、英語の単語。化学式に似た構造図。


 俺は、ページをめくった。同じ調子で、二十ページ、三十ページ続いていた。日本語の部分だけ、拾い読みしてみる。


 『B4、苔の発光、再現性なし。条件、湿度より、別の要素』

 『B5、石碑、文字、似ている。誰の文字でもない』

 『継承——可能性』


 継承。父は、何を、継承していたのか。俺は、ページの上の指を、止めた。


 次のページに、図と、矢印。中央に、円が一つ。円の中に、三角と点。


 ……三角と、点。


 オリエンの日、相良さんが、俺のIDカードの備考欄を、指で一度だけ、なぞった印。あの形と、よく似ている。たぶん、同じ印だ。


 俺は、ノートを閉じた。一度に、全部、読めるノートではない。今日、読めない。たぶん、来月でも、来年でも、俺一人では、読めない。誰かが、解読してくれる日が、いつか、要る。


 * * *


 次に、古地図。


 広げると、机の上いっぱいに広がった。和紙のような厚手の紙に、墨と朱の、二色で描かれている。


 ダンジョンの、深い場所の地図だった。最浅層B1からB5、そして、その下の——B6から、B30まで。中層と深層の、すべての階層が、一枚に収まっている。父が、これを描いたのか、誰かから受け取ったのかは、分からない。


 B5の中央付近に、朱の丸が、一つだけ、つけてあった。丸の脇に、小さく、『崩れた石碑』と、父の字。


 崩れた石碑、という地名は、JAGLの公式マップには、無い。たぶん、父の世代の探索者だけが、知っていた、非公式の名称だ。


 俺は、地図を、ゆっくり、畳んだ。今、行ける場所ではない。F級の俺が、B5まで一人で潜るのは、ランク剥奪以前に、たぶん、死ぬ。


 でも、地図は、ある。場所は、書かれている。いつか、俺の足が、そこに届く日が来る、かもしれない。


 * * *


 最後に、薄いノート。表紙の『調』の文字は、たぶん『調理』の最初の一字だ。


 開いた。


 最初のページから、レシピが、書かれていた。父の字で。


 『塩と、苔のスープ。B2のグリーンモス、二百グラム。乾燥、十五分。鶏ガラ、薄く。塩、最後に。炒めるより、煮る方が、青さが奥に沈む』


 俺は、息を、止めた。


 B2のグリーンモス。乾燥、十五分。塩、最後。——昨日まで、俺が、フライパンで、何度も試して、辿り着いた手順と、ほとんど、同じだった。違うのは、父が「煮る」を選んでいた、ということだけ。


 俺は、炒めた。父は、煮た。同じ素材の、同じ前処理から、出口が、二つに分かれた。


 次のページ。『淡水貝の、すまし汁。B1岩場の、小粒のやつ。誰も拾わない』


 淡水貝。誰も拾わない。——これも、俺が、六本目で、撮った素材だ。


 次のページ。次のページ。次のページ。


 父のレシピ帳には、俺が、四本目から、八本目まで、撮ってきた素材が、ほとんど、入っていた。あるいは、そのバリエーションが。


 父は、十二年前に、同じ場所を、歩いていた。


 * * *


 俺は、椅子に、座り込んだ。


 書斎の椅子は、十二年、動かなかった。座ったのは、たぶん、父以来、俺が二人目だ。木の座面が、俺の体重に、軽く軋んだ。


 母が、扉のところに、立っていた。いつから、いたのか、分からない。


「あった?」


「……うん」


「何が」


「料理のノート。父さんの」


 母は、扉の枠に、軽く、もたれた。


「父さん、最後の一年、毎晩、ここに籠ってた。何か書いてた、って、知ってた。でも、見せてくれなかった。私には、たぶん、まだ、まとまってなかったから」


「……そう」


「ユウ、続けて」


 母は、それだけ言って、扉を閉めた。閉めながら、もう一言、加えた。


「父さんも、たぶん、続けて、って、言うよ」


 扉が閉まる音は、開けた時より、軽かった。


 * * *


 書斎に、一人、残った。


 父のレシピ帳の、ページを、一枚、めくった。


 最後の方のページに、走り書きで、図が描いてあった。グラスの絵。中に、二色の、層。下が薄い色、上が濃い色。脇に小さく、『二色を、並べる。下に、何か、ザクザクするものを敷く。上に、緑、一葉』。


 ……二色を、並べる。


 俺は、ページを、もう一度、見直した。父は、これを、料理として完成させる前に、いなくなった。図は、図のまま、十二年、誰の手にも、取られなかった。


 ピンクスライムゼリー。ブルースライムゼリー。冷蔵庫に、二色、並んでいる。下に敷くもの——たぶん、家にあるグラノーラで、いける。上の、緑、一葉。——ミントなら、母が、ベランダで、毎年、植えている。


 父の図と、俺の冷蔵庫が、十二年越しに、つながった。


 明日、撮る。九本目。父の図を、俺の手で、完成させる。


 * * *


 ザックの三つの中身を、机の上に、並べたまま、俺は、書斎を出た。鍵は、もう、かけなかった。


 左手で前髪を掻き上げた。今日は、ザックも、書斎も、十二年で、はじめて、開いた。


 昨日アップした八本目の動画——『熟成、しているらしい。九日間のブルースライムゼリー』——の再生数は、朝で、七。コメントは、ゼロ。じわじわは、続いている。


 でも、九本目は、違う気がする。父のレシピ帳の、最後のページの、二色のグラスの図が、俺の頭の中で、すでに、形を持ち始めていた。


 たぶん、これは、誰かに、届く。


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