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第8話 視聴者ゼロの一週間

 四本目を上げてから七日経って、再生数は、まだ三人しか動かしていない日があった。


 その間に、五本目(ピンクスライムゼリーの寒天仕立て)と、六本目(B1の淡水貝、酒蒸し)と、七本目(グリーンモスのおにぎり巻き)を撮って、上げた。タイトルは三本とも、第七話で決めた『断言型』に揃えた。『甘い、を、固める。ピンクゼリー寒天』。『誰も食わなかった淡水貝、酒蒸し』。『苔のおにぎり、海苔の代わりに』。


 数字を、紙のメモに書いた。スマホの画面の上では、毎日見ている。でも、紙に書くと、距離が、別の意味で見える。


 ・四本目(B2苔炒め):四十八時間で再生十八、コメント一(mi_kana)。新規登録者ゼロ。

 ・五本目(ピンク寒天):四十八時間で再生十四、コメント〇。新規登録者ゼロ。

 ・六本目(淡水貝):四十八時間で再生九、コメント〇。新規登録者ゼロ。

 ・七本目(苔おにぎり):四十八時間で再生三、コメント〇。新規登録者ゼロ。


 じわじわ、減っていた。


 DungeonTubeのアルゴリズムは、新規動画を最初の四十八時間で評価する。再生が伸びない動画は、おすすめ欄から外される。一本目の数字が伸びないと、二本目はその影に埋もれる。連投すればするほど、累計の地盤は厚くなるが、一本ずつの吸引力は薄まる。配信のことは、ほぼ独学で、知ったばかりの理屈だ。間違っているかもしれない。でも、数字は、嘘をつかない。


 収益化ラインは、登録者五百人プラス総視聴時間四千時間。今、登録者は一人。動画七本の総視聴時間は、たぶん、二時間に満たない。


 遠かった。遠さが、紙の上で、はっきりした。


 * * *


 月曜日の朝、母は早く出ていった。


「ユウ、今日の動画、何撮るの」


「……まだ、決めてない」


「決まったら、教えて。帰ったら見る」


 母は、カバンを肩にかけて、玄関で振り返った。


「あんたの動画、最近、家で観てる」


 俺は、台所のシンクで、手を止めた。


「いつから」


「四本目から。父さんに、似てるから」


 それだけ言って、母は出ていった。


 台所の換気扇が、低く唸っていた。何か言い返したかったが、言葉は、出てこなかった。


 ——父さんに、似てる。母の前で、俺の手元が、父の手元と重なって見えていた、ということだ。十二年、母は、その重なりを見ないようにしてきた。それが、四本目から、見ても大丈夫になった。なぜ、四本目から、なのかは、聞けない。聞かなくても、たぶん、『不味いを上書きする』タイトルが、父の口癖と重なったのだろう。


 手元の塩を、一粒、皿の縁に落とした。母が観ているなら、塩の振り方も、もう、雑には出来ない。


 * * *


 火曜日。B1へ行った。ブルースライム二匹、ピンクスライム一匹、淡水貝を七つ。


 淡水貝はB1の岩場の隅、誰も覗き込まない場所に、ひっそりと張り付いていた。ナイフで剥がして、ジップ袋へ。匂いは、川の砂と、薄い塩。「食材可能だが、誰も試さない」と資料に書いてあった。


 水曜日。B2へ行った。グリーンモス三百グラム、光柱の粉、追加。光柱の粉は、相変わらず、ガラス瓶の中で、白い砂のように、静かにしている。机の上に、もう三日、置いたままだ。採取Sは、用途を、まだ教えてくれない。


 木曜日。撮影日。


 淡水貝を白ワインで蒸して、酒蒸しにした。貝の身は、思っていたより小さく、プリッとした弾力で、塩は最低限でいい。スープの方に、貝の旨味が、はっきり出た。「誰も食わなかった」のは、きっと、量が小さくて売り物にならないから——なのだろう。動画では、貝のスープを最後に飲み干した。タイトル、決めた。撮って、上げた。


 ピンクの寒天は、火曜の夜にもう撮ってあった。冷やして固めて、賽の目に切って、ガラスの器に並べた。桜色が、ガラスの中で、子供の頃の金平糖みたいに、軽くなった。——母に試食を頼まなかった。これは、誰かに見せる前の、配信用の試作だった。それが、たぶん、軽さの理由だ。


 苔のおにぎりは、木曜の夜。乾燥させた苔をそぼろ状に砕いて、塩むすびの表面に貼り付ける。海苔より、青い。匂いは、磯と、土の中間。一口食べて、いける、と思った。


 * * *


 金曜日の朝、再生数を見た。七本目、苔おにぎりは、十二時間で、再生三。


 俺は、しばらく、画面を見ていた。


 昨日の自分が「いける」と言った皿が、世界の中で、三人にしか届いていない。一人は、たぶん俺自身。一人は、たぶんカナメ。残り一人は、誰だか、分からない。


 ゲンさんは、おそらく、見ている。でもコメントは、ずっと、増えていない。あの七年前の一行が、まだ、画面の下で、待っている。


 俺は、台所に戻って、洗い物をした。手の動きで、頭の中の数字を、一回、流した。流しても、戻ってきた。


 * * *


 金曜日の夜、カナメから、はじめて、LINEで動画の感想が来た。


 『おにぎり、いいね。でも、再生数、伸びてないでしょ』


 『うん』


 『焦ってないなら、いい。焦ってる?』


 『……たぶん、少し』


 『焦るな、とは言わない。私が代わりに焦ってあげるから、ユウは続けて』


 返事に、十分かかった。


 返事を打ちかけて、消した。打ち直して、また消した。十分の間、俺は、台所の床に座り込んでいた。膝に額をつけて、息だけ、していた。——カナメは、たぶん、俺の十分間を、向こう側で、見ている。


 『うん。続けます』


 既読のあと、もう一通来た。


 『私、A級ルートの実戦練習、来週から。一週間、こっちから連絡できないと思う。動画は、夜に、まとめて見る』


 返事は、書かなかった。書かない方が、たぶん、いい。


 でも、カナメが「代わりに焦ってあげる」と書いた一行は、スマホを閉じても、台所の暗がりの中に、薄く、残っていた気がした。


 * * *


 土曜日の朝、五時半に目が覚めた。


 冷蔵庫を開けた。最初の白い筋のゼリー——あれから九日経った——の袋を、取り出した。白い筋は、もう数えるのが難しいくらい、増えていた。ぱっと見で、十二本。袋の青色は、明らかに、深くなっている。表面には、薄い膜のような層が、内側から張りはじめている。


 俺はジップ袋の口を開けて、匂いを嗅いだ。


 甘い。


 最初に舐めた時の、砂糖になる前の甘さ——それが、九日経って、はっきり甘い。腐っていない。むしろ、熟している。


 舐める前に、止めた。これは、撮るべきだ。発見の瞬間を、誰も見ていないところで終わらせるのは、料理人の癖と、配信者の癖が、両方、許さない。


 でも、撮影を始める前に、もう一つ、考えていることがあった。


 冷蔵庫の上段、ピンクゼリーのストックがまだ二袋ある。ブルーと並べたら、桜色と、青と、二色になる。——いつか、二色を一緒に何かに使う日が来る、たぶん。今日じゃない。でも、頭の隅に、置いておく。


 * * *


 玄関の隅、父のザック。


 九日前まで、視線が、棚の角まで、二歩だった。今日、視線は、ザックの肩紐の上に、ある。手は、まだ、動いていない。でも、視線が、はじめて、ザックの「中身」を見ようとしている。


 母の言葉が、月曜日の朝から、ずっと頭の隅にあった。


 父さんに、似てるから。


 父の料理を、俺は知らない。母の言うとおりなら、ザックの中に、何か、あるかもしれない。父が「誰もやってないから、俺が書いとく」と言っていたものが——


 左手で前髪を掻き上げた。


 今日は、ザックの肩紐に、指が触れた。


 革は、思っていたより、冷たかった。十二年分の埃が、薄く、指先に残った。


 ジッパーには、小さな鍵が掛かっていた。鍵穴の周りに、錆。


 鍵は、たぶん、家のどこかにある。母なら、知っている。聞かないといけない。今夜、繁忙期の母が帰ってきたら、聞かないといけない。


 俺は、ザックから、手を、引いた。


 でも、ザックには、確かに、触れた。十二年で、はじめてだった。


 * * *


 台所に戻って、白い筋のゼリーを、まな板に、そっと出した。


 録画ボタンを押した。


「えーと……『最浅層ごはん』、八本目、になります。先週、B1で取ったブルースライムゼリーを、九日間、冷蔵庫で寝かせていました」


 声は、自分でも分かるくらい、落ち着いていなかった。一週間の停滞が、声に出ている。それでも、続けた。


「白い筋が、最初は一本だったのが、今、十二本まで増えています。匂いは、甘いです。腐っていません。たぶん、これは、熟成です」


 言いきった。言いきってから、息を吐いた。


 ジップ袋から、ゼリーを取り出して、白い筋を、ナイフで一本、切り分けてみた。


 断面が、内側で、一瞬、光った気がした。前より、少しだけ、長く残った気がした。指先がぴりっと鳴った。通電の気配は、最初に舐めた日と、似ている。少しだけ、強い気もする。


 俺は、息を止めた。録画は、回り続けていた。気のせい、では、たぶんない。でも、断言は、まだ、しない。


 今、世界で、ほとんど誰も知らない映像を、俺一人が、撮っている。三人にしか届かないチャンネルで。


 ……これは、上げる。八本目は、編集してから、夜にアップする。タイトルは、たぶん、『熟成、しているらしい。九日間のブルースライムゼリー』。検証としては、不完全だ。でも、検証の途中も、撮って、上げる。それが、独学の配信者の、誠実さだ。


 誰が見ようが、見まいが、関係ない。続けろ、というゲンさんの一行と、焦るな、というカナメのLINEと、父さんに似てる、という母の声が、台所に、同時に、聞こえている気がした。


 * * *


 夜、母が帰ってきた。


「ユウ」


「うん」


「父さんのザックの鍵、私の引き出しの、いちばん下」


 俺は、流しの前で、手を止めた。


「……気づいてた?」


「今朝、朝から、あんたが何度かザックの方、見てたから」


「いつ、開けていい?」


「いつでも。十二年、待ってた」


 母は、それだけ言って、自分の部屋に消えた。


 台所のシンクの上、八本目の動画は、今夜、編集してアップする。タイトルも、たぶん、決まる。


 でも、九本目は、明日の話だ。


 明日の話の前に、俺には、開ける扉が、一つある。父のザックの、十二年動かなかった、ジッパーだ。


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