第7話 はじめての料理動画
冷蔵庫の白い筋のゼリー、今朝、六本。夜中にまた一本、増えた。
数えないと決めたのに、目が、勝手に数えていた。
俺は、五時半に目が覚めた。今日、はじめての本気の料理動画を、世に出す。
夜のうちに編集を進めて、グリーンモス炒めの動画は、ほぼ形になっていた。まだ投稿していない。切り株の上で、もう一度、素材のカットだけ撮り直す。今日の動画は、料理動画にする。採取報告でも、実験ログでもない、『不味いを上書きした』一皿を見せるための、本気の一本。
台所の隅、ざるの上の乾燥しかけた苔を、もう一度、香りだけ嗅いだ。青さはまだ残っているが、昨日より、一段だけ奥に引っ込んでいる。乾燥で、苦味はこれ以上抜けない。炒めの火加減で、もう一歩引き下げる。
ジップ袋のもう一つ、光柱の粉も、ガラス瓶に移し替えてある。今日は使わない。でも、机の上に置いておく。採取Sが、忘れるな、と言った気がした。
今日、もう一度、B2に行く。撮り直しと、追加採取のために。
* * *
七時二十分。母が起きてきた。
昨日のB2苔炒めは、冷蔵庫に保存分を一つ残してあった。小皿に載せ直す。
「おはよう」
「おはよう。——また、試食?」
「うん。B2の苔」
「昨日と違うね」
「違う、素材」
母はゼリーの時と同じように、一秒だけ躊躇って、それから、爪楊枝で一口、口に入れた。咀嚼、四回。昨日より、一回、多い。
母の眉が、少しだけ動いた。
「……あ、これ、ちょっと、懐かしいかも」
俺は、爪楊枝を止めた。
「懐かしい?」
「昔、父さんが一度だけ、似たの、作ったことある。名前は、忘れた。ニンニクと、緑のなにか。私が『こんなの食べられるの?』って、笑った」
母の目が、新聞を取りに行く手前で、止まった。
「父さんは、『お前が食べられるなら、誰でも食える』って、言ってた」
それから、母はもう一口、苔を食べた。眉の動きは、昨日の『美味しい』より、少しだけ、奥の筋肉が動いていた。
「美味しいよ。昨日のより、好き」
俺は、カメラを立てていなかった。でも、この一言は、今日、編集しない動画の中に、そのまま残った。
* * *
父のザックの前を通った。
今日は、視線が止まった先で、俺の右手が、一度だけ、動きかけた。伸ばすか、伸ばさないか、迷って、結局、止めた。——でも、手が動きかけた、というのは、はじめてのことだった。
左手で前髪を掻き上げた。気のせいかもしれない。でも、ザックと俺の距離は、目盛りで計れる範囲に入ってきている。
玄関を出る前、カナメにLINEを一行打った。
『続けてます』
既読はすぐに付いた。返信は、五分後。
『知ってる。動画、上がるのを待ってる』
* * *
B2「苔の森」、二回目。八時半、出発。一時間半の往復で、十時前には戻る予定。
昨日と同じ階段を降りる。二日目、というだけで、体の動きが一段スムーズになる。採取Sが、身体のどこかで、前日の動きを覚えている感じがする。
古い切り株の前に、折り畳みミニ三脚を立てた。家を出る前、ロビーの売店で買った。千円。配信用の入門装備、三十万円には、まだ程遠い。
切り株の上に、皿を置く想定の位置を、白のペンで印をつけた。光柱の一本が、切り株の脇に落ちている。地面の苔は、昨日と同じく、その光の下だけ、ゆっくり、息をするように揺れていた。時間帯を選べば、皿に光が当たる角度が作れる。
撮影位置を決めてから、苔の追加採取。さっきよりは、慎重に、多めに。今回は、四百グラム。これで母の試食分と、編集の予備カットと、保存実験用が揃う。
* * *
十一時、帰宅。すぐに撮影本番に入る。
手元カメラを固定。グリーンモスを水で軽く洗う。土の匂いと、青さの匂い。絞ると、湿った海苔の匂いが立ち上がる。それから、ざるに並べて、十五分、扇風機の弱風で乾燥。葉が、緊張するように、ゆっくり縮んで、指先くらいの大きさになる。
ニンニクをスライス。オリーブオイルを薄く引いた弱火のフライパンに、薄い金色の輪を並べる。じわ、と、油の表面が音を立てて広がる。香りが、台所いっぱいに、ゆっくり昇る。
乾いた苔を投入。じゃっ、と、昨日と同じ乾いた音。塩をひとつまみ、胡椒を一振り。三十秒で、火を止める。
最後の皿盛り。切り株の上で撮影する構図を、台所のまな板の上で再現する。まな板の下に、切り株の画像を出力して敷く。原物は無い。でも、絵の配色としては、緑と、茶と、塩の白、のコントラストになる。光柱の粉のガラス瓶を、画角の隅にちらりと置いてみた——いや、まだ早い。下げた。
カメラを切って、ナレーションを別録りした。
「B2の苔、『グリーンモス』を、乾燥させてから、ニンニクと炒めました。二年前、バトル配信のランカーが『不味い』と放送で言った素材です。俺は料理Sです。素材に罪はないと思って、料理してみました。——結果、美味いです」
原稿は書かなかった。一発で、そのまま入れた。四回撮り直したが、四回目で「今のがいちばん、嘘がない」と、自分で思った。
編集で、音声をかぶせる。無音の調理映像に、ナレーションと、フライパンの音だけ。BGMは、入れなかった。まだ、入れる技術がない。でも、無音の方が、素材の音が立つ。
タイトル、考える。
候補:
『B2の苔、料理してみた』——普通。
『不味いと言われた苔、料理で上書き』——長い。でも、内容が一目で分かる。
『B2苔炒め/料理Sが作る』——固い。
『不味い素材、調理の問題でした』——断言が、強すぎる気もする。でも、本編で言ったことを、タイトルでもう一度、言い切る。
一度、打ち込んで、止めた。打ち直して、また、止めた。
決めた。
『不味い素材、調理の問題でした。B2苔炒め』
断言の方が、観る理由が生まれる。バトル配信ランカーの二年前の一言を、タイトルで真正面から受け返す。
タグ:『最浅層』『B2』『グリーンモス』『料理』『最浅層ごはん』。サムネは、仕上がりの皿の、光柱の下の角度。
公開ボタンを押した。十二時四十分、四本目、世に出る。
視聴者は、まだ、ゼロ。昨日アップした三本目は、今朝の時点で再生十一、コメントはmi_kanaの一件のみ。今、四本目が、その並びに加わる。
* * *
午後の四時。再生数を確認する。四本目、再生五。三本目、十二。一日で、合計、わずかに十七。
ゲン_zeroへのコメント欄返信は、書かなかった。動画で返した、つもりだった。伝わるかは、分からない。コメント欄は、まだ静かだ。
晩ごはんの支度をしながら、二日分の出来事を、メモに整理した。
『三本目:ピンクゼリーの桜色——再生12、コメント1、新規登録0』
『四本目:B2の苔炒め——公開4時間、再生5、コメント0』
『白い筋ゼリー:朝6本(夜は確認しない、と決めた)』
『B2苔の呼応:2回目、3m先で確認』
『光柱の粉:未使用、用途不明』
『母:昨日「美味しい」、今日「好き」。父さんの似た料理の記憶』
最後の一行は、少し長く、手が止まった。父さんの料理。母が、少しだけ、十二年前に戻る声で、話した。十二年、俺は父の料理を食べた記憶がない。たぶん、一度は食べているはずだ。六歳までに、何度も。でも、記憶に無い。味の方が、俺より先に、身体のどこかに残っているのかもしれない。
* * *
夜の九時。母が帰宅した。
いつもより、さらに遅い。繁忙期のピーク、というやつだ。
母は、冷蔵庫を開けて、昨日の苔炒めの残りを、自分で温め直した。俺が台所に居るのに、頼まなかった。
「ユウ、動画、今日は、上げた?」
「上げた。四本目」
「タイトル、教えて」
「『不味い素材、調理の問題でした。B2苔炒め』」
母は、温めた苔を一口、口に運んで、それから、珍しく笑った。繁忙期のクマが、少しだけ、薄くなった気がした。気のせい、かもしれない。
「父さんも、似たタイトル、付けそう」
「え、父さんも、動画、撮ってたの?」
「撮ってない。でも、帰ってきたあとに、いつも言ってた。『これ、誰もやってないから、俺が書いとく』って」
母は、ノートの話を、一度もしたことがなかった。
俺は、ザックの方を、ちらっと見た。——でも、今日はもう、手は動かなかった。明日か、来週か、いつか。ザックを開ける日は、俺の中で、一センチずつ、近づいてきている。
* * *
十一時、就寝前に、もう一度、DungeonTubeを開いた。
四本目の再生数:十二。三本目の再生数:十五。十二時間で、計、九増。新規登録者、ゼロ。コメントは、ゼロから一増えていた。
mi_kana —— B2、行ったんだ。乾燥させてから炒めるの、誰が教えた? ああ、誰も教えてないのか
返事は、動画で返す。まだ、言葉では書かない。
ゲン_zeroのコメントは、増えていない。でも、七年前の一行は、画面の下の方で、まだ光っている。『続けてみなさい』。
続けます、と、俺は、コメント欄にではなく、スマホのメモに打ち込んだ。
冷蔵庫の白い筋のゼリー、見ない、と決めたのに、見た。今夜は、八本。一日で二本、増えている。今までの倍のペースだ。袋の青色も、心持ち、深くなった気がする。
数字が、二つ、別の方向に動いている。再生は、じわじわ、上に。冷蔵庫の中は、じわじわ、何か別の方向に。どちらも、気のせい、では、もう、ない。
ザックの棚の角、今日は、手が動きかけた。
父の料理、母が昔笑った緑の皿。
これから一週間、たぶん、再生数はあまり動かない。それでも、毎日一本、撮る。撮って、上書きする。冷蔵庫の白い筋が、その間に、何本まで増えるか——それも、たぶん、誰も知らない。




