第6話 B2の苔を持ち帰る
朝、DungeonTubeのアプリを開いた。
昨夜アップした三本目——『ピンクスライムゼリー、桜色の謎』——の再生数は、朝で七になっていた。新規コメント、一件。
mi_kana —— 桜色、綺麗。でもB2は明日だよね。気をつけて
昨日の別れ際の会話を、そのまま覚えている。カナメは、返事の動画を、ちゃんと返事として受け取ってくれた。
ゲン_zeroからのコメントは、増えていない。でも、昨日の七年前からの一行が、画面の下の方で、まだ待っている。
俺は、スマホを閉じた。今日、B2に行く。
* * *
玄関の隅、父のザック。
今日は、棚の角まで、もう二歩、近づいた。触れなかった。でも、視線は前より長く止まった。十二年前、父が最後にダンジョンから持ち帰ったのは、中層の苔だったと母は言った。今日、俺が取りに行くのは、最浅層の苔だ。父の領域ではない。でも、苔、という言葉は同じだった。
左手で前髪を掻き上げた。
扉を閉める前に、母の声が台所から聞こえた。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
昨日までと、ほんの少しだけ抑揚が違う。俺もたぶん、違うのだろう。そのまま、外に出た。
* * *
JAGL晴海支部。オリエンが終わって、三日目の登録者として、もう少しだけ勝手が分かる。相良さんは受付にいなかった。別の職員が、IDカードを通してくれた。
ダンジョン入口の魔法陣に立つ。B1までの転送は、もう慣れた。でも、今日はそこが目的地じゃない。
B1「浅瀬の間」に着いてから、苔の壁に沿って、下り階段を歩いた。空気が、一段階、濃くなる。湿度が上がり、温度も上がる。B1の二十度から、二十二度くらいに。
階段の突き当たりに、光柱が一本、差し込んでいた。
天井の隙間から地上の日差しみたいに、真っ白い光が床の石畳に落ちている。光柱の由来は、F級の資料には載っていない。A級の講習でも、たぶん、習わない。
光柱を避けて、階段を下りきった。
B2「苔の森」。
* * *
湿度が、肌に張り付いた。
見上げると、天井まで十メートルはある、巨木と巨大シダのドーム。木の葉の隙間から、さっきと同じような光柱があちこちに落ちている。落ちた先では、地面の苔が、その部分だけ少しだけ色を濃くして、息をするように、ゆっくり揺れていた。
音は、B1とは違う。滴の音は少ない。代わりに、葉が擦れる音、虫のような翅音、遠くでツリースネイクが幹を登る、布を引きずるような音。
空気の中に、甘い匂いは、薄い。
代わりに、土と、青くて苦い何か、の匂いが濃い。ピーマンを丸ごと割った瞬間の、あの青くささに、もう少し重い湿り気が乗った感じ。
……ああ、これだ。
『不味い』と言われる素材の、最初の匂い。
スマホを取り出して、録画ボタンを押した。今日の動画は、たぶん、すぐにはアップしない。まずは、素材の挨拶を、自分の目で確かめる。
「……B2、初回です。『最浅層ごはん』、四本目、予定」
声は、昨日より、さらに落ち着いていた。カメラを意識する時間が、少しずつ短くなっている。
* * *
グリーンモスは、すぐに見つかった。
倒木の根元、湿った石の隙間、苔の束の真ん中に、一匹。見た目はただの苔の塊だが、よく見ると、ゆっくり、地面の上を這っている。のろい。逃げない。F級でも戦える、B2の最弱。
折り畳みナイフは、昨日のと同じ八センチ。
近づいても、グリーンモスは動きを変えない。苔の表面が、静かに波打っている。葉っぱの揺れ、というより、生き物の呼吸の動き。
刃を、苔の「体」の縁に入れた。抵抗は、濡れた海苔を切るより、少しだけ軽い。半分ほど切ると、内側から、薄緑の樹液みたいな汁が滲む。それで、グリーンモスは動かなくなった。
採取する。手袋の上から、苔の塊をひっぱがすと、下の石の表面に、薄い緑の筋が残った。白い筋じゃない。緑の、もっと生々しい筋。
ジップ袋に、二百グラムくらい。指先に、少しだけ樹液が付いた。
——指先が、ぴりっと、なった。
昨日のスライムゼリーと、同じ場所で、同じ種類の、通電の気配。
今度は、すぐに舐めなかった。バイト先の癖より先に、昨日のコメントが頭をよぎった。ゲン_zero——俺の頭の中で、もう勝手に『ゲンさん』に変わっているハンドル名——の、あの一行。続けてみなさい。続けろ、は、急げ、じゃない。
代わりに、嗅いだ。
苦い。青い。——でも、匂いのいちばん奥に、ほんの微かに、甘さがある。B1の空気の奥にあったのと、同じ輪郭の甘さが、苔の、苦さの底に、沈んでいる。
口に入れる前に、録画を一旦止めた。まだ、見せる段階ではない。
* * *
採取ついでに、古い切り株の前まで歩いた。直径三メートル、年輪は数えられない。この上なら、次の動画の撮影台にちょうどいい、と、ぼんやり思った。料理を載せる皿として、この切り株は、絵になる。
「古い切り株」と、心の中でだけ、名前をつけた。
光柱の一本が、切り株の脇に落ちている。光の中に、細かい粒が、ゆっくり舞っていた。光柱の粉、と資料には書いてあった。未研究、用途不明。拾っていっても、売値はつかない。
拾った。ジップ袋の、空いているほうに。
料理に使うかは、分からない。でも、採取Sが、拾え、と言った気がした。
* * *
B2からの帰りは、階段でB1まで戻り、B1入口の初心者用エレベーターで地上へ。一時間半の往復。行きより、息が上がった。
帰りの電車で、また動画を三倍速で確認した。
B2の光柱。苔の採取。——そして、ナイフを入れた瞬間、画面の端、別の苔の群生が、一瞬だけ、揺らいだ。
B1の時と、同じ揺らぎ方。
カナメが、等倍に落として、『内側からの揺れ方』と言った、あの揺らぎだ。
今回は、ナイフの苔の真上ではなかった。三メートルほど離れた、別の苔の群生が、俺が採取した瞬間に、呼応するように、一度だけ、光を揺らしていた。
偶然かもしれない。でも、気のせい、とは言い切れなかった。今はまだ、誰にも言わない。カナメにも、ゲンさんにも。もう少し、自分の手で、確かめてから。
ポケットのジップ袋が、二つ。緑の苔と、光柱の粉。
* * *
家に着いたのは、十五時過ぎ。母はまだ仕事だ。
台所に、苔を置いた。水で、軽く洗う。土と小さな虫を落とす。絞ると、濡れた手ぬぐいみたいに、意外としっかり絞れた。水気を切った苔は、緑のうすい束になる。
そのまま、一口、かじってみる。
……不味い。
青くて、苦くて、奥歯で噛むと、繊維が口の中に残る。舌の奥に、針のような苦味が、しばらく消えない。
バトル配信のランカーが放送で「不味い」と言った理由が、分かった。これは、そのまま食う素材じゃない。
——『不味いから、誰もやらない』。——『それは、ただの怠慢ではないのか』。
俺は、一度、水を飲んだ。口をすすぐ。
考える。青さを抜く方法。茹でる? 湯通しすると、栄養素が抜けるかもしれない。塩で揉む? これも繊維を壊しすぎるかも。
指が、勝手に動いていた。
苔を、ざるに広げて、台所の隅、換気扇の下に置く。乾燥させる。湿度を抜いてから、炒める。青さの多くは水分に溶ける種類の苦味だ。水分を抜けば、苦味と一緒に飛ぶ部分がある。残るのは、繊維のシャキシャキと、奥の甘さだけ。たぶん。
試作用に、半分だけ、先に軽く乾かす。キッチンペーパーで水気を吸い、予熱した弱火のフライパンに、十秒ずつ、裏表。葉が、指先くらいの大きさに、縮んで、緊張していく。
別のフライパン。オリーブオイル、薄く。ニンニクをスライスして、弱火で香りを出す。きつね色になる前に、乾かした苔を、一掴み。
じゃっ、と、音が跳ねた。B1のゼリーとは違う、もっと乾いた音。水分が飛び切った苔が、油を弾いている。
塩を、指先でひとつまみ。仕上げに、黒胡椒を一振り。
皿に取る。
一口。
……美味い。
嘘みたいに、美味い。
青さは、七割消えた。奥の甘さが、ニンニクの香りと寄り添って、一段高く上がる。繊維のシャキシャキは、歯ごたえとして残る。塩が、輪郭を作る。
「……うん。いける」
独り言が、カメラのないところで、声になっていた。
不味い、を、上書きした。
ランカーが放送で言った一言が、二年間、この素材のラベルだったのだが、俺のフライパンの上で、今、剥がれていく。『不味い』は、調理の問題だった。ただ、そこを、誰も試さなかっただけだ。
* * *
スマホのメモに、打ち込んだ。
『グリーンモス。乾燥→ニンニク炒め。青さ七割減。甘さ残る。繊維シャキ。塩で輪郭。上書きできた』
下に、一行、追加した。
『光柱の粉。採取Sが拾えと言った。用途は、まだ』
残った苔の半分は、試食用に皿の上。明日の朝、母に一口、頼む。昨日と、同じだけど、違う素材で。
録画を、もう一度、始めた。完成品の皿のカット、一番綺麗な角度。塩の粒が、緑の苔の上で、一度だけ光る。タイトルは、まだ決めていない。候補だけ、頭に浮かぶ。
『不味いと言われたB2の苔、料理してみた』
長すぎる。明日、切り株の上で撮り直してから、短く決める。
冷蔵庫の下段、昨日の白い筋のゼリーの袋。今日は、五本。増えている。数えないと決めたのに、数えてしまった。気のせい、では、もう、ない。
ザックの棚の角。視線は、もう一センチ、近い。でも、まだ、触れない。
ゲンさんへの返事の動画は、今夜、編集する。mi_kanaへの返事は、動画のコメント欄に、一行だけ書くかもしれない。
続けています、と。




