第5話 カナメとの再会
B1から戻ったのは、夕方の五時過ぎだった。
今日はブルースライム三匹と、ピンクスライム一匹を仕留めた。ピンクの方はブルーより小粒で、ゼリーは薄い桜色をしていた。
昨日と違って転ばなかった。膝も濡れていない。
ピンクスライムの近くでは、空気中の甘い匂いが、ほんの少しだけ濃くなる。気のせいかもしれない——でも、今日はメモが増えた。
帰り際にスマホを確認した。朝見たコメント欄に、返信は増えていない。mi_kanaとゲン_zeroの二つだけ。俺は、返事をまだ書いていない。書く代わりに、今夜、二本目を撮る。ピンクゼリーの発見を映像で返事にする。そう決めて、支部を出た。
* * *
JAGLの建物を出て、駅に向かう歩道を歩いていた。
前方の信号機の下、黒いポニーテールが、夕陽を受けて赤く跳ねていた。
「ユウ」
カナメだった。
A級ルートの帰りらしい。支部の裏口の方向から歩いてきた。スリムな戦闘装備の上に薄手のジャケットを羽織って、腰に短剣の柄が見えた。戦闘の疲れが、肩の後ろに一枚、張り付いている。A級の一日は、F級の一日とは違う重さで終わる。
「……お疲れ」
「うん」
信号が青に変わった。二人で渡る。
「ユウ、二本目、いい画だった。朝、食べた結果、教えてもらってないけど」
カナメは前を向いたまま、そう言った。
——mi_kana、ってお前だよな、とは聞かなかった。聞くまでもない。カナメは隠してもいないし、俺も隠すふりをしない。ただ、ハンドル名とこちらの距離感の一呼吸を、お互いに尊重する。そういう関係の形だと、昨日のうちに決まった気がしていた。
「母さんが、美味いって」
「ほんとに?」
「三切れすべて完食」
カナメは、半拍だけ笑った。笑いが、信号の青の中で、一度だけ揺れた。
「よかったね」
それだけだった。
* * *
駅前のコンビニに、二人で入った。
カナメは迷わず冷蔵コーナーから麦茶とおにぎりを二つ取って、俺の前で片方を差し出した。
「食べな」
「いや、家で食うよ」
「いつ?」
「……帰ってから」
「今、何時?」
「五時半」
「帰りの電車で立ったら倒れる。食べときな」
俺はおにぎりを受け取った。
「金、返す」
「いい。A級の初任給、今日入った。後輩に奢るくらいさせて」
カナメがちょっとだけ自慢げに見えたのは、たぶん気のせいじゃない。
包装を開けて、ひとくち噛んだ。梅だ。
「美味い?」
「……うん」
カナメはペットボトルの麦茶を半分、一気に飲んだ。喉が鳴った。疲れの抜け方が、俺とは違う。
* * *
コンビニを出て、駅のホームまで一緒に歩いた。ベンチの端に、二人で座る。風がホームを抜けて、桜の残り花びらを、線路の向こうに運んでいく。
「ユウ、一本目、もう一回見せて」
「一本目? B1で撮ったやつ?」
「動画では見たけど、あんたの隣で、一緒にもう一回見たい。ほんとの画角で」
俺は、少しだけ躊躇った。でも、カナメなら、いい気がした。
スマホを出して、一本目のB1の動画を開いた。カナメは身を寄せて、画面を覗き込んだ。香水ではない、戦闘装備の革と布と、ほんの少しの土の匂いがした。
* * *
カナメは、三倍速で流し見した。最後の方、苔の揺らぎのシーンで、一秒、巻き戻した。そこから、等倍に落とした。
……これ、と、カナメは小さく言った。息が、半拍、止まった。
「光、揺れてる」
「かもしれない」
「A級の講習で、苔の発光は階層の気圧と湿度で動くって、習った気がする。だけど、この揺れ方——」
カナメは、眉を寄せた。指先が、画面の光の上で、止まった。
「習ったのと、違う。気圧でも湿度でもない、もっと、内側からの揺れ方」
カナメはスマホを返した。返す手が、ほんの少し遅かった。
「ユウ、もう一回、同じ場所で撮ってみて。同じ時間帯に」
「……なんで」
「気になるから」
カナメは、それ以上言わなかった。
気になる理由を、カナメは自分で分かっていて、俺には言わない。昔からそうだ。——でも今日は、その『自分で分かっていて言わない』部分の輪郭が、いつもより少し濃く見えた。A級の研修で、何かを知ったのかもしれない。
俺は、頷いた。
* * *
電車のアナウンスが、ホームに響いた。駅のメロディが、夕方の低いスピーカーから、少しだけ歪んで流れている。
「明日、B2、見てみる」
俺は、自分から口にした。ピンクを見つけた勢いが、まだ抜けていなかった。
「B2?」
「ちょっと、覗くだけ」
カナメは、一瞬こちらを見た。眉の動きが、止まって、それから、ゆっくり戻った。
「B2の苔、知ってる?」
「苔」
「食えるらしい、って、噂がある。でも、二年前に、バトル配信のランカーが一度ネタで試して、『不味い』って、放送で放った。それで、もう誰も試してない」
不味い、と、カナメは言った。ランカーの言葉を伝える形で、でもカナメ自身の口から出ていた。
俺の頭の中で、何かが、はっきりと、動いた。
不味いから、誰もやらない。——それは、俺が探していた、たった一つの言葉だった。
「……行く」
「うん、気をつけて」
カナメも、止めなかった。
電車が、滑り込んできた。
* * *
カナメは扉の前で一度だけ振り返って、小さく手を振った。
「ユウ、ちゃんと食べてる?」
昔と同じ台詞だった。小学校の昇降口で、弁当の袋を俺に押し付けた日の、同じ声の高さ。
俺は、頷いた。おにぎりの袋を、軽く振って見せた。
カナメは、笑った。扉が閉まる直前、唇が動いた。音にならなかったが、『続けなよ』と言った気がした。
——ゲンさんのコメントと、同じ言葉だった。
* * *
家までの帰り道、俺はずっと、同じ言葉を考えていた。
不味いから、誰もやらない。
あくまでかんでしかないのだが、それは、たぶん、調理の問題だ。素材に罪はない。舌に合わない形で出したのはランカーの都合だ。俺は料理Sで、採取Sで、時間ならある。
左手で前髪を掻き上げた。今日は、掻き上げられた。
スマホのメモに、一行打った。
『B2の苔。不味い、と誰もが言う素材。料理で、その評価を、上書きする』
ポケットの中のゼリーの袋——青と桜色の二色——が、帰宅までに、また少しだけ、重くなった気がした。
今夜、二本目の動画を撮る。ピンクゼリーの、桜色の発見を、ゲンさんと、mi_kanaと、まだ見ぬ三人目の視聴者に、返事の代わりに届ける。




