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第4話 母の反応

 再生三、高評価一、コメント一。


 起きてすぐ、DungeonTubeのアプリを開いた。


 昨夜アップした『ブルースライムゼリー、冷やして焼いてみた』——


 再生数:3

 高評価:1

 コメント:1


 ほんの少しだけ、動いていた。


 コメント欄を開く。


 mi_kana —— いい画だと思う。塩の粒のサムネ、わかる人にはわかるよ。朝、食べた結果、報告して


 カナメだった。夜中に見て、朝を待っている。


 再生3のうち、一つは自分、一つはカナメ、もう一つは誰なのか。画面の端に、『新規登録者:0』とだけ出ている。登録はしないでコメントだけ残した幼馴染。それが第二の視聴者の形だった。


 * * *


 まな板の上に、昨日の塩焼きゼリーを三切れ並べた。親指大が三つ。


 母はまだ寝ている。起きるのは七時十五分だ。あと四十三分。


 動画をもう一度、六時半から見返していた。加熱の瞬間——映像では一瞬だけ、しかし確かに、ゼリーの芯が内側から灯っている。画質を上げても変わらない。ただの反射ではない。


 これは何だろう、と、改めて思った。でも、答えは急がない。今朝は先に、母だ。


 * * *


 七時十三分。二分早く、母が起きてきた。


 パジャマのまま、髪は寝癖のついたポニーテールで、眠そうな目をしている。冷蔵庫の前で立ち止まり、ペットボトルの麦茶を一口。繁忙期の母は、グラスに注がない。


「おはよう」


「おはよう」


 俺は並べたゼリーを小皿ごと差し出した。皿の白の上で、ゼリーは半透明に光っている。塩の粒が、角度によってきらりと反射する。


「これ?」


「これ。昨日のスライム」


「……本当に食材」


 母は小皿を顔の前に持ち上げた。繁忙期の目の下のクマが、うっすら影を落としている。


「甘い匂いするね」


「焼くと甘くなる」


 母は爪楊枝でゼリーを刺した。口元に運ぶ直前——指先が、ほんの一瞬、震えた。一秒にならない、半拍の遅れ。息が一度止まった気配。


 十二年前、父が最後にダンジョンから持ち帰った素材は、たしか中層の苔だったと聞いている。俺は六歳で、覚えていない。母は覚えている。今、口に入れようとしているのは、その父の領域の、いちばん浅い場所の素材だ。


 母の指先が、もう一度、動いた。


 それから、口に入れた。


 * * *


 母の表情は、ゆっくり動いた。


 眉が、わずかに上がる。舌が口の中で動くのが、頬のふくらみで分かった。咀嚼、三回。喉が、小さく動く。


 母は皿を見た。残りの二切れを。


 それから、俺を見た。


「……美味しい」


 声が、思ったよりかすれていた。


 俺は、息を吐いた。吐いてから、自分が息を止めていたのに気づいた。


「本当?」


「本当。塩加減、ちょうどいい。甘さが、後から来る」


 母は二切れ目に手を伸ばした。


「父さんがね」


 一拍、置いて。


「昔、帰ってきたあとに、何か新しいのを食べさせる時、こういう顔してた」


「……こういう顔?」


「自信なさそうに、でも、食べてほしそうな顔。今、あんたが、その顔してる」


 俺は、返事を持っていなかった。


 持っていない代わりに、左手で前髪に触れた。掻き上げずに、落とした。


 父のザックの、黒い革。触れないまま十二年経った棚の角。その距離が、今朝だけ、少しだけ、近かった。気のせいではない。


 * * *


 三切れ、全部、母は食べた。


 俺はその間、何も言えずに、母の口元だけを見ていた。戦闘Fと言われた夜、母は黙って卵焼きを焼いた。最浅層に行った朝、母は封筒を差し出した。今朝、母は三切れ全部食べた。——言葉にしない肯定が、十二年でいちばん近い距離で、手のひらに落ちてきた気がした。


 * * *


 母は食べ終わって、麦茶をもう一口飲んでから、言った。


「ユウ、これ、動画にしたんでしょ」


「……うん」


「昨日の夜、もう、上げた?」


「うん」


「じゃあ、反応は」


「再生三、コメント一。カナメから」


 母は、ふっ、と笑った。


「カナメちゃん、寝てないのね」


「A級の研修で、忙しいはずなんだけど」


「あの子は忙しい時ほど、あんたのこと見てるよ」


 母は新聞を取りながら、事務的な声で続けた。


「採取Sと料理S、両方載ってるんだっけ、あのカード」


「……うん」


「会計でね、数字二つ並ぶと、強いの。一つだけより、相互に効く。載せ続けなさい」


 それだけ言って、母は新聞を広げ始めた。


 母の目は、もう新聞に落ちていた。でも、視線の端で、フライパンの洗い跡を一秒だけ見ていた。気づかれないふりをしていたが、気づいていた。


 * * *


 母が身支度に入った頃、俺はリビングの窓際で、スマホを開いた。


 昨日のメモ。『塩焼き——母さんに試食を頼む』の横に、チェックマークを入れた。


 その下に、新しい行を足す。


 『「美味しい」。母。三切れ完食。——父さんの顔、してたと』


 たった数文字だけど、書き終えてから、しばらく画面を見ていた。


 窓の外、桜の花びらはもう、ほとんど散り切っている。代わりに、新緑のうっすらした緑が、街路樹の先に見え始めていた。


 * * *


 DungeonTubeの画面に戻った。もう一度、コメント欄。


 mi_kanaの下に、一つ、新しいコメントが増えていた。投稿は三十分前。俺が母の試食を撮り逃している間に、誰かが、これを書いていた。


 ゲン_zero —— 七年前、似たことをやった。続けてみなさい


 ハンドル名を、二度見た。


 ゲン_zero。


 七年前。「最浅層のおじさん」のチャンネルは、七年前で動画が止まっていた。登録者二百、再生三桁、コメントゼロ。


 ——続けてみなさい。


 指先が、昨日と同じ場所で、ぴりっと鳴った。


 気のせい、ではなかった。


 * * *


 玄関を出る時、母に声をかけた。


「今日、B1にもう一回行ってくる」


「うん」


「ゼリー、もう少し持って帰ってくる。種類、違うのも、探す」


「……気をつけて行っておいで」


 母の声が、ほんの少しだけ、十二年前の抑揚に近かった。


 ドアを閉める瞬間、父のザックが視界の隅に入った。触れなかった。でも、昨日より、棚の角に、指先一本ぶん、近い位置で立ち止まっていた。


 今夜、二本目を撮る。ゲンさんの返信より先に、動画で返事をする。


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