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第3話 スライムは食材か

 冷蔵庫の下段、ジップ袋の中で、昨日倒したブルースライムのゼリーが静かに揺れていた。


 袋の表面、透けた青の中に、細い白い筋が浮いている。朝は一本だった。今は二本。一晩のあいだに、何かが一本ぶん、増えていた。


 指先の、ぴりぴりは、昨夜のうちに消えていた。舐めた場所は何ともない。死ななかった。でも、袋の中では、ゼリーが動いている。


 気のせい、と、自分に言い聞かせた。


 カナメからのLINEに、短く返事を打つ。『生きてる。ドローン呼ばなくていい』。既読は、すぐに付いた。返信は来なかった。たぶん、A級ルートの研修で忙しい。


 * * *


 夜の七時。母はまだ帰らない。会計士事務所の四月は、法人決算が複数重なると深夜帰宅になると、去年の母が愚痴っていた。帰宅は十時過ぎだ。


 台所のタイル壁に、スマホを立てかけた。


 録画ボタンに指を乗せる直前、わずかに、動きが止まった。カメラに向かって一人で喋るのは、今日で二日目だ。慣れるには遠い。


 息を一度、吐いた。それから、ボタンを押す。画角の中に、まな板と俺の手。


「えーと……『最浅層ごはん』二本目、ブルースライムゼリーの実験です」


 声は、自分で思うより落ち着いていた。一度動き出すと、意外と回る。


 左手で前髪を掻き上げた。


 JAGLから受け取った《採取スペシャリスト認定》(料理適性Sを併記)の付属資料を、台の端に置いた。『食用安全リスト/最浅層』。認定者にだけ配られる、JAGL内部資料だ。ブルースライムのゼリーの頁には、「加熱・冷却ともに食用可/個人取扱自己責任」と明記されている。


 昨日の別れ際、相良さんは小さく付け加えた。「リストに載っているものは、基本的には家庭調理もOKということになっています」。制度の言葉で喋った、そのあとに、目元だけが緩んだ。あの緩みが無ければ、俺は冷蔵庫を開けるのを一度ためらっていたと思う。


 * * *


 まず、そのまま。


 小皿に、指先くらいの一切れを落とした。台所の換気扇が低く唸っている。冷蔵庫のコンプレッサーが、ことり、と音を立てた。家の中の、夜の静けさの粒。


 つるりと光を返すゼリーにスプーンを入れて、口に運ぶ。


 昨日最浅層で舐めた時は、砂糖になる前の、原材料の甘さだけだった。今は、違う。舌の先に、ほんの少しだけ鉱物に近い塩気が先に乗って、後から甘みが追いかけてくる。冷やされて寝かされた分、味に順番ができている。


 寒天なら、噛んだ位置で崩れる。これは崩れない。奥歯で押して、ようやく張りが折れる。


 寒天より硬い。一晩で、硬くなった。


 次、冷凍庫で二十分。


 取り出すと、表面は霜と水の境目みたいな白がうっすら回って、張りが明らかに増している。スプーンで押すと、押し戻してくる。氷でこの粘りは出ない。


 包丁を入れた瞬間、断面が一瞬、きらりと光を返した気がした。


 もう一度切る。今度は、何も起こらない。


 見なかったことにして、食べる。


 甘みが、冷やす前の二倍強い。寒天と葛切りの、ちょうど中間。


「……あ、これ、いける」


 独り言が、声になっていた。


 カメラの方を向いて、言い直す。


「冷やすと、甘さが立ちます。食感は、寒天と葛切りの中間」


 口角が、ほんの少しだけ上がった。


 * * *


 次は、火。


 最後のゼリーを、指の爪くらいに切って、フライパンにオリーブオイルを薄く引いた。中火、二十秒ほど温めてから、ゼリーをそっと置く。


 じゅっ、と音が跳ねた。水分の多いゼリーを熱に乗せれば当然だ、と、頭の片隅で思う。


 想像より早く、ゼリーは縮んだ。爪の大きさだったのが、米粒ほどになる。表面の透明度が増して、端が水飴寄りの茶に変わり始めた。水分が油の中で、細かく跳ねる。


 いける、と判断した瞬間——


 ゼリーの芯に、小さな明るみが差した。


 一拍だけ。蛍光灯でも街灯でもない、内側から漏れる種類の、弱い発光。


 目を凝らす。もう、明るみは差さない。録画を止めて確認するか迷って、止めなかった。料理は、待ってくれない。


 焼き色はほとんど付かず、表面だけ半透明、中身は冷やした時と似た張り。端の茶を潰さないよう、そっと皿に移した。


 塩を指先でひとつまみ、落とした。粒が、皿の白の上で一度だけ弾む。


 一口。


 ……美味い。


 甘みが焼くことで角を落とし、塩で輪郭がつく。舌に乗った瞬間、温度がじわっと広がって、鼻に抜ける香りが、蜂蜜と海藻の間のどこかだった。


 あ、これ、母さんに食べさせたい。


 反射的な思考が、俺の手より先に動いていた。


 * * *


 録画を止めた。三十五分。編集すれば五分は切れる。


 動画フォルダに「1-1_ゼリー塩焼き」と名前をつけて保存。『最浅層ごはん』の下書きフォルダに入れる。


 冷蔵庫の上段、残ったゼリーの袋を見た。白い筋は、朝より一本増えて、三本になっている。


 ……これは、何だろう。


 スマホで検索した。『ブルースライム ゼリー 保存 白い筋』。結果はゼロ。


 『スライム 料理』で検索し直す。ヒットは、ゲームの攻略記事と、過去のアニメの感想ばかり。現実のダンジョン素材を料理する実用系の記事は、一件も見つからない。


 DungeonTubeの検索欄にも、同じ言葉を入れた。出てきた動画は、異世界ファンタジー飯のチャンネルが大半。上位ランカーの『赤龍のユウ』も『黒葉レン』も、少なくとも検索結果の一ページ目にはいない。スクロールすると、下の方に一本だけ、登録者二百の個人チャンネルが引っかかった。「最浅層のおじさん」。七年前の動画。再生数は三桁。コメントはゼロ。


 七年前——俺が十一歳の年だ。父がいなくなって、五年後。なぜか、その数字のことを少しだけ考えた。


 画面を閉じる前、俺はしばらく、検索結果の「0件」という灰色の文字を見ていた。


 0件、ということは、俺が最初にやれる、ということだ。


 誰もやらなかったから無価値なのか、誰もやらなかったから開いていないのか。


 判定は、まだできない。


 『動画をアップロード』のボタンに、指をかけた。今夜のうちに、上げてしまおう——母の反応は、アップしてから見ればいい。動画のタイトルは『ブルースライムゼリー、冷やして焼いてみた』。サムネは、塩の粒が皿に跳ねた瞬間のカット。


 公開ボタンを押した。


 アップロードのプログレスバーが、台所の暗い画面の下で、ゆっくり右に進んでいく。完了。視聴者は、まだ、ゼロ。


 * * *


 メモ帳を開いた。


 『冷→固さ増す/甘さ二倍。焼→縮む・端水飴色・中は張り残る』

 『白い筋:朝1→夜3。保存で増える方向』

 『DungeonTubeに「最浅層の素材を料理」の現行チャンネル、実質ゼロ』


 一行、空ける。


 『塩焼き——母さんに試食を頼む』


 指が、そこで止まった。


 玄関の下駄箱の上、父のザックの黒い革が、頭の端にだけ浮かぶ。今日は、触らなかった。昨日も。たぶん、明日も——ただ、ザックを置いた棚の角に、昨日より一センチだけ、視線が長く止まった。


 ザックの中に、あと何が残っているのか、俺は十二年、確かめていない。


 左手で、前髪に触れた。掻き上げずに、落とした。


 * * *


 玄関のドアの音が聞こえた。いつもより早い。時計の針は、二十一時半を指している。


「ただいま」


「お帰り」


 台所から顔を出すと、母がパンプスを脱ぎながら、目の下のクマを指で軽く押していた。ペットボトルの麦茶を冷蔵庫から取り出して、口をつける。繁忙期の母は、グラスに注がない。


「なに、台所、甘い匂い」


「実験、してた」


「実験?」


 母の目が、一瞬、台所の奥のフライパンに向いた。油の跳ねた跡。まな板の上の、空の小皿。視線の端が、止まって、動いた。


「……うん、明日、朝ごはんの前に、一口だけ、試してほしいものがある」


 母は麦茶のキャップを締めて、少しだけ眉を上げた。


「スライム?」


「うん、ブルー」


「安全?」


「そこは自己責任」


 母の返事は、ひと呼吸、遅れた。息の長さ半分くらいの、遅れ。


「……あんたが先に食べて、大丈夫だったなら、いいよ」


 それだけ言って、母はパンプスを揃え直した。シャワー室へ歩く背中が、父のザックの棚の前で、ほんの少しだけ歩幅を落とした。


 しばらくして、シャワーの音が聞こえ始めた。


 * * *


 冷蔵庫の前で、俺は小さく笑った。


 まあ、いいか。今日、スライムは、食材になった。


 袋の中のゼリー。白い筋は、いつの間にかもう一本、四本目が浮いている。


 今夜はもう、数えない。いや、数えたくない、が正しい。


 明日の朝、母はこれを食べる。動画はもう、世界に出ている。


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