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第2話 冒険者登録、最浅層へ

 戦闘F、採取S、料理S——前例のない歪な判定を携えて、今日、俺は最浅層B1へ降りる。


 母の封筒、触れられない父のザック、A級の幼馴染からのLINE。折り畳みナイフ一本で、スライムの前に膝をつく。


 チャンネル『最浅層ごはん』——視聴者ゼロからの、最初の一本の話。


 * * *


 最浅層に潜る朝でも、食卓の卵焼きはいつも通り二切れ多い。


「今日、オリエンテーションでしょ」


 母がエプロンのポケットから封筒を取り出した。中には一万円札が二枚。


「いいよ、いらない」


「装備、買うんでしょ」


「……入門装備、三十万するんだよ」


「分かってる。でも、何も持たずに潜るのは、心配だから」


 母の目の下のクマは、昨日より薄くなっていた。浅い階層は、戻れる側。父の時と違うと、母はたぶん、そう思っている。


「行ってきます」


 封筒は受け取った。ポケットに入れると、紙の厚みがやけに軽く感じられた。


 玄関の隅、父のザック。黒革の肩紐に、深い擦り傷。触れない。戦闘Fの手で触れていい気がしなかった。左手で前髪を掻き上げて、扉を開けた。


 桜はもう三割ほど散っていた。


 電車の中、スマホのメッセージに気づいた。カナメからだった。


 『A級ルートは九時集合。ユウ、オリエン何時?』


 『十時』


 『じゃあね、帰り、時間合ったら』


 A級ルートの集合時間。俺とは別の扉。返事を打ちかけて、やめた。既読はまだ、つけない側にしておく。


 * * *


 JAGL晴海支部のオリエンテーション室は、三階の会議室だった。吹き抜けの廊下をエレベーターで上がると、昨日と同じガラス張りのロビーを見下ろせた。ロビーの奥、薄い青色の魔法陣が、呼吸するように明滅している。あれがダンジョン入口だ。


 長机が六列。受験番号順に、F級以上の判定をもらった者が並ぶ。A級ルートの連中は別室だから、カナメの姿は無い。


 左隣の金髪の男が、チラリとこちらを見た。


「あれ、お前さ、昨日採取Sだったやつ?」


「あ、うん」


「へぇ、戦闘は?」


「……F」


 男の眉が小さく動いて、それから薄く笑った。


「マジか。Fで採取S? え、何、採るやつは最浅層か」


 声が大きかった。周りの何人かが目の端でこちらを見た。


 否定する言葉は、出てこなかった。男より先に、俺が思っていたからだ。


「まあ、最浅層なら誰にも邪魔されないな」


 男はそう言って前を向いた。悪気は無さそうだった。それがかえって、今日いちばん刺さった。


 右隣の女子が、小さく会釈をくれた。


「採取S、凄いですよ」


 小声だった。凄いなら、こんな声量にはならない。賞賛なら、もっと言い切る。こぼれていたのは、たぶん、励ましのほうだった。


 * * *


 壇上に相良真帆さんが立った。昨日の担当職員だ。


「F級の推奨活動階層は、B1からB3です。B4以深に単独で入る場合、登録の一時停止対象になりますので、気をつけてください」


 相良さんは淡々と続けた。


「中層以深はパーティ必須、C級以上が一名必要です。F級単独で挑める階層は、実質B1からB3まで、と思ってください」


 B1からB3。浅層の、さらに浅いところ。そう、それでいい。誰にも邪魔されないなら、どこだって同じだ。


 保険の説明は続いた。F級の死亡補償は、五十万円。


 五十万。父の補償は、たしか二千万ぐらいだったと聞いた気がする。桁が違う。でも、数字は数字だ。帰ってくる父は、どちらでも帰ってこない。


 * * *


 IDカードの受け取りは、一人ずつ。


「佐々木ユウトさん」


 相良さんが、透明ケースに入ったカードを手渡した。プラスチックの表面に、俺の顔写真と、《冒険者登録:F級/採取・料理スペシャリスト認定》の文字。


「スペシャリスト認定があると、採取物持ち帰り時の手数料が五%優遇されます」


「……最浅層の素材でも?」


 相良さんの指が、カードの縁で一瞬止まった。


「最浅層のものを、ちゃんと持ち帰って来た人は、まだ、多くありません」


 それだけだった。でも目元が、昨日の『三角形と点』の印をなぞった時と、同じ緩み方だった。俺はカードを受け取った。手のひらの中で、ひんやりと重い。


 * * *


 エレベーターで一階に降りた。


 ロビーの売店で、折り畳みナイフを一本と、ジップ袋の五枚セットを買った。ナイフは千五百円。戦闘用ではない、キャンプ用の小さな刃。一万円が九千円弱の釣りに変わって戻ってくる。残った分は、動画編集ソフトの月額に回す。そう決めていた。


 入門装備三十万円には、程遠い。でも、素手よりは、まし。


 売店の壁の前で、ベンチに座った。スマホのDungeonTubeアプリを開く。チャンネルの新規作成画面。アイコンは後で決める。まずは名前だ。


 候補をメモに打ち込む。


 『佐々木ユウト配信所』——違う。顔を売りたいわけじゃない。

 『最浅層採取日誌』——固い。誰も踏まない。

 『スライム食堂』——まだ、店は開いてない。


 指が止まった。


 タイトルに「最浅層」を入れる。戦闘Fで、そこしか居場所がなかった俺が、そこを「居場所」と呼び直すために。


 打ち込んだ。


 『最浅層ごはん』


 登録者数:ゼロ。動画:ゼロ。今日、最初の一本を撮りに行く。


 スマホをしまって、立ち上がった。


 * * *


 魔法陣の縁に立った。


 直径十五メートル。薄い青い光が呼吸のように明滅している。係員の男性職員がタブレットを操作した。


「新人さんは魔法陣でそのままB1へ飛びます。戻る時は、B1入口の初心者用エレベーターで」


「はい」


 魔法陣に踏み込む。耳の奥で、ぽん、と空気が抜ける音。視界が一瞬、白に飲まれた。


 次の瞬間、気温が上がり、湿度が上がり、空気の匂いが変わった。


 B1「浅瀬の間」。


 天井一面に、弱く発光する苔。頭上のドームの縁が、薄明かりの向こうで霞んでいる。足元の砂利はしっとり濡れていて、数歩先に、水たまりが鏡のように広がっていた。


 音が、少ない。


 地上の雑踏が嘘みたいに、遠い滴の音だけがときどき落ちる。ぽつ、と一つ。ぽつ、と一つ。


 空気を、深く吸った。湿った土と、鉱物の冷たさ。


 その奥に、甘い匂いが、一筋。


 砂糖じゃない。砂糖になる前の、果物にもなれなかった、原材料の甘さ。厨房の片隅で、湯気の中にだけ立ち上がる匂いに、似ている。


 ……職場でもないのに、鼻が勝手に仕事を始めた。


 スマホを取り出して、録画ボタンを押した。DungeonTube配信予約の画面は閉じたまま——今日はアーカイブ投稿にする。画角を確認し、苔の光が入るよう、少し上に向けた。


「えーと……佐々木ユウトです。『最浅層ごはん』、B1初回」


 声が少しかすれた。カメラが回ると、やっぱり緊張する。でも、昨日よりはましだった。


「今日は、見て、回します。何があるか。あと——食えるものが、あるか」


 最後の一言は、独り言に近かった。カメラの向こうに、誰かがいるふりをする。まだ誰もいない。それでも、いるふりをする。


 * * *


 スライムは、すぐに見つかった。


 水たまりの縁、直径二十センチほどの青いゼリー。ぷるりと揺れている。ブルースライム。最頻出の最下位モンスター。核を潰すか、ゼリーの半分以上を切れば活動停止——さっきの資料の受け売りだ。


 折り畳みナイフを開いた。刃渡り八センチ。


 近づくと、スライムが気づいた。水面に小さな波紋が立ち、三十センチほど、こちらに寄ってくる。


 心臓が一度だけ、大きく鳴った。


 踏み出す。苔に足を滑らせた。片膝が水に落ちる。冷たい。スライムの縁が靴先に触れた。靴底を這って、上がってきそうな気配があった。


 ——あ、死ぬかもしれない。


 一瞬、そう思った。視界が、ほんの少しだけ狭くなる。震える手で、ナイフを突き出した。


 刃先がゼリーに沈んだ。手応えは、豆腐に刺すより軽い。そのまま一文字に引く。青い膜が張力を失って、地面にだらしなく広がる。


 ……終わった。


 膝の水を払った。体の震えが、遅れて追いついてきた。倒すのは一瞬だったのに、近づくまでに膝をついた。戦闘F、ブルースライム一匹。情けないのか、助かったのか、判定が出ない。


 崩れたゼリーを、ジップ袋に集める。


 指で掬った瞬間、ぴりっ、と指先が鳴った。静電気とは違う。もっと柔らかくて、熱とも冷たさともつかない、妙な通電の気配。


 え、何これ。


 指先を目の前に持ってきた。薄い青の液が、爪の間で光を弾く。


 嗅いだ。ほぼ無臭。かすかに、B1の空気に混じっていた甘さと、同じ香り。


 ——父の顔が一瞬だけ浮かんだ。が、手が先に動いた。


 気づくと、指先を舐めていた。


 バイト先の癖だ。新しい素材が来たら、まず触れて、嗅いで、舐める。高校の夏、定食屋の厨房で、店長がそうしていた。俺も真似して、叱られて、それから続けた。


 舌の上で、一瞬だけ何かが溶けた。無味、ではない。後味だけ、ほのかに甘い。さっき鼻で拾った匂いと、同じ輪郭の甘さが、舌の奥にも一筋だけ残った。


 冷やしたら寒天みたいに固まるかもしれない。塩を一粒、乗せたら。砂糖を、少しだけ、足したら。


 カメラの方を向いた。録画は、まだ回っている。


「……拾えました。青いゼリー、一匹ぶん」


 声が、自分でも驚くほど、穏やかに出た。


「味は、ほぼ無い。でも、後味が甘い。これ、冷やしたら、寒天みたいになる気がします。塩、ひとつまみで、食える側に寄るかもしれない」


 言いきった。言いきってから、指先がまた、ぴりっとした。


 * * *


 帰りの電車は、来た時より一本遅いのに乗った。


 スマホを開いて、撮った動画を三倍速で確認する。入場シーン、スライム討伐、ゼリー回収。——途中、指が止まった。


 スライムを倒した直後。カメラが水たまりを映した一瞬。


 画面の隅、天井の苔の発光が、確かに一度だけ揺らいでいた。


 拡大してみる。十フレームほどの、薄い色の波。他の苔は揺れていない。そのスライムの、真上だけが揺らいでいた。


 ただの光のゆらぎ、かもしれない。


 保存して、念のため編集画面に取り込む。


 袋の中のゼリーは、揺れながら微かに青い。その表面に、さっきまで無かった、薄い白の筋が一本、浮かんでいた。指先は、まだ、ぴりぴりしていた。


 駅に着く前に、動画を短く切り出した。B1の苔、スライム、ゼリーを舐める手元、「食える側に寄るかもしれない」のカット。合計で、一分半。


 DungeonTubeの投稿画面。タグ欄に『最浅層』『B1』『スライム』『採取』『料理予告』と打ち込む。サムネイルは、舐める直前の、指先のカット。


 『非公開にしますか?』


 ボタンを、公開の方に倒した。視聴者ゼロでも、公開。見られないうちに、形にしておきたかった。


 動画タイトルは、短くした。


 『ブルースライムゼリー、拾えた。たぶん、食える』


 アップロードのゲージが、ゆっくり伸びていく。


 * * *


 家に着く頃、通知が一件、鳴った。


 『登録者:1』


 続けて、もう一件。


 『新しいコメントがあります』


 DungeonTubeの画面を開いた。コメント欄は、まだ空色のまま、一行だけ。


  mi_kana —— 食べるの、やめときなよ。あれ、まだ誰も食ってないやつだよ


 ユーザー名で分かった。カナメだ。


 直後にLINEも来た。


 『ユウ、見たよ。一応言うけど、本気で毒出たらA級権限で医療ドローン呼ぶから、住所共有しといて』


 A級冒険者に救援ドローン呼ばれる戦闘F。最浅層ごはん、登録者一人。


 ——遅いよ。もう、舐めた。


 指先のぴりぴりは、まだ消えていない。ゼリーの白い筋は、帰宅までに、もう一本、増えていた。


 スマホのメモに、一行だけ打ち込んだ。


 『ブルースライムゼリー。冷やして固める。塩ひとつまみ。加熱したら、何が起きる?』


 明日、これを、料理する。食えるか食えないかは、明日の俺が答える。

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