第2話 冒険者登録、最浅層へ
最浅層に潜る朝でも、食卓の卵焼きはいつも通り二切れ多かった。
「ユウ、今日、オリエンテーションでしょ」
母がエプロンのポケットから封筒を取り出した。
中には一万円札が二枚。
「いいよ、いらない」
目を卵焼きの皿に逃がした。
「装備、買うんでしょ」
「……入門装備、三十万するんだよ」
二万円。
三十万には届かない。
届かないのを母も知っていて、それでも財布から二万円を抜いた。
その温度だけが封筒の中にある。
「分かってる。でも、何も持たずに潜るのは心配だから」
母の目の下のクマは昨日より薄くなっていた。
浅い階層は戻れる側。
父の時と違うと、母はたぶんそう思っている。
「行ってきます」
封筒は受け取った。
ポケットに入れると紙の厚みがやけに軽く感じられた。
玄関の隅、父のザック。
黒革の肩紐に深い擦り傷。
手は今日もザックの手前で止まった。
戦闘Fの手で触れていい気がしない。
扉を開けた。
桜はもう三割ほど散っていた。
電車の中、スマホのメッセージに気づいた。
カナメからだった。
『A級ルートは九時集合。ユウ、オリエン何時?』
『十時』
『じゃあね、帰り、時間合ったら』
A級ルートの集合時間。
俺とは別の扉。
返事を打ちかけて、やめた。
通知だけ閉じて、スマホを伏せた。
* * *
JAGL晴海支部のオリエンテーション室は三階の会議室だった。
吹き抜けの廊下をエレベーターで上がると、昨日と同じガラス張りのロビーを見下ろせた。
ロビーの奥、薄い青色の魔法陣が呼吸するように明滅している。
あれがダンジョン入口だ。
長机が六列。
受験番号順にF級以上の判定をもらった者が並ぶ。
A級ルートの連中は別室だから、カナメの姿は無い。
左隣の金髪の男がチラリとこちらを見た。
「あれ、お前さ、昨日の採取試験で係員が驚いてたやつ?」
「あ、うん」
昨日の判定紙の重さがポケットの底で蘇った。
「へぇ、結果どうだったの。戦闘は?」
「……F」
番号札の角を指でなぞった。
先に「F」と言わせない言い方はまだ覚えていなかった。
男の眉が小さく動いて、それから薄く笑った。
「マジか。Fだと、採るやつは最浅層か」
声が大きかった。周りの何人かが目の端でこちらを見た。
否定する言葉は出てこなかった。男より先に俺が思っていたからだ。
「まあ、最浅層なら誰にも邪魔されないな」
男はそう言って前を向いた。
悪気は無さそうだった。
それがかえって、今日いちばん刺さった。
誰にも邪魔されないは、誰にも見られないとほとんど同じ意味に聞こえた。
右隣の女子が小さく会釈をくれた。
「昨日の採取試験、凄かったですよ」
小声だった。
凄いなら、こんな声量にはならない。
賞賛ならもっと言い切る。
こぼれていたのはたぶん励ましのほうだった。
* * *
壇上に相良真帆さんが立った。昨日の担当職員だ。
「F級の推奨活動階層はB1からB3です。B4以深に単独で入る場合、登録の一時停止対象になりますので、気をつけてください」
相良さんは淡々と続けた。
「中層以深はパーティ必須、C級以上が一名必要です。F級単独で挑める階層は実質B1からB3までと思ってください」
B1からB3。
最浅層のさらに浅いところ。
それでいい。
誰にも邪魔されないなら、どこだって同じだ。
特殊スペシャリスト認定があっても、B4以深は申請か同行者、あるいは特例審査が要る。
相良さんはそう付け加えた。
保険の説明は続いた。
F級の死亡補償は五十万円。
五十万。
父の補償はたしか二千万ほどだったはずだ。
桁が違う。
でも、補償額がいくら違っても、父は帰ってこない。
* * *
IDカードの受け取りは一人ずつ。
「佐々木ユウトさん」
相良さんが透明ケースに入ったカードを手渡した。
プラスチックの表面に俺の顔写真と《冒険者登録:F級/特殊スペシャリスト認定》の文字。
「スペシャリスト認定があると採取物持ち帰り時の手数料が五%優遇されます」
「……最浅層の素材でも?」
言ってから自分でも、語尾が上がっていたことに気づいた。
期待していたわけじゃない。
ただ、もしかしたらと思ってしまっただけ。
相良さんの指がカードの縁で一瞬止まった。
「S判定者がB1素材を食材用途で、状態を保って持ち帰った例はほとんどありません」
それだけだった。
でも目元が昨日の『三角形と点』の印をなぞった時と同じ緩み方だった。
俺はカードを受け取った。
手のひらの中でひんやりと重い。
* * *
エレベーターで一階に降りた。
ロビーの売店で折り畳みナイフを一本とジップ袋の五枚セットを買った。
ナイフは千五百円、ジップ袋は二百円。
戦闘用ではない、キャンプ用の小さな刃。
一万円が八千円ちょっとの釣りに変わって戻ってくる。
残った分は動画編集ソフトの月額に回す。
そう決めていた。
入門装備三十万円には程遠い。
でも、素手よりはまし。
売店の壁の前でベンチに座った。
スマホのDungeonTubeアプリを開く。
チャンネルの新規作成画面。
アイコンは後で決める。
まずは名前だ。
候補をメモに打ち込む。
『佐々木ユウト配信所』。違う。顔を売りたいわけじゃない。
『最浅層採取日誌』。固い。誰も踏まない。
『スライム食堂』。まだ店は開いてない。
指が止まった。
タイトルに「最浅層」を入れる。
戦闘Fでそこしか居場所がなかった俺がそこを「居場所」と呼び直すために。
打ち込んだ。
『最浅層ごはん』
登録者数:ゼロ。
動画:ゼロ。
今日、最初の一本を撮りに行く。
スマホをしまって、立ち上がった。
* * *
魔法陣の縁に立った。
直径十五メートル。
薄い青い光が呼吸のように明滅している。
係員の男性職員がタブレットを操作した。
「新人さんは魔法陣でそのままB1へ飛びます。戻る時はB1入口の初心者用エレベーターで」
「はい」
魔法陣に踏み込む。
耳の奥でぽんと空気が抜ける音。
視界が一瞬白に飲まれた。
次の瞬間、気温が上がり、湿度が上がり、空気の匂いが変わった。
B1「浅瀬の間」。
天井一面に弱く発光する苔。
頭上のドームの縁が薄明かりの向こうで霞んでいる。
足元の砂利はしっとり濡れていて、数歩先に水たまりが鏡のように広がっていた。
音が少ない。
地上の雑踏が嘘みたいに遠い。
滴の音だけがときどき落ちる。
ぽつと一つ。
ぽつと一つ。
空気を深く吸った。
湿った土と鉱物の冷たさ。
肌に張り付く、少し重い湿気。
地上とは全然、違う。
その奥に甘い匂いが一筋。
果物にもなれなかった、原材料の甘さ。
厨房の隅、湯気の中にだけ立ち上がる類の匂い。
胸の奥が一拍、詰まった。
この匂いを知っている。
知らないはずなのに、知っている。
……職場でもないのに、鼻が勝手に仕事を始めた。
スマホを取り出して、録画ボタンを押した。
DungeonTube配信予約の画面は閉じたまま、今日はアーカイブ投稿にする。
画角を確認し、苔の光が入るよう、少し上に向けた。
「えーと……佐々木ユウトです。『最浅層ごはん』、B1初回」
声が少しかすれた。
カメラが回るとやっぱり緊張する。
でも、昨日よりはましだった。
「今日は、見て回ります。何があるか。あと、食えるものがあるか」
最後の一言は独り言に近かった。
カメラの向こうに誰かがいるふりをする。
まだ誰もいない。
それでも、いるふりをする。
* * *
スライムはすぐに見つかった。
水たまりの縁、直径二十センチほどの青いゼリー。
ぷるりと揺れている。
ブルースライム。
最頻出の最下位モンスター。
核を潰すか、ゼリーの半分以上を切れば活動停止、さっきの資料の受け売りだ。
折り畳みナイフを開いた。
刃渡り八センチ。
近づくとスライムが気づいた。
水面に小さな波紋が立ち、三十センチほど、こちらに寄ってくる。
心臓が一度だけ、大きく鳴った。
踏み出す。
苔に足を滑らせた。
片膝が水に落ちる。
冷たい。
スライムの縁が靴先に触れた。
靴底を這って、上がってきそうな気配があった。
あ、死ぬかもしれない。
一瞬そう思った。
視界がほんの少しだけ狭くなる。
震える手でナイフを突き出した。
刃先がゼリーに沈んだ。
手応えは豆腐に刺すより軽い。
そのまま一文字に引く。
青い膜が張力を失って、地面にだらしなく広がる。
……終わった。
膝の水を払った。
体の震えが遅れて追いついてきた。
倒すのは一瞬だったのに、近づくまでに膝をついた。
戦闘F、ブルースライム一匹。
情けないのか、助かったのか、判定が出ない。
崩れたゼリーをジップ袋に集める。
指で掬った瞬間、ぴりっと指先が鳴った。
静電気とは違う。
もっと柔らかくて、熱とも冷たさともつかない、妙な通電の気配。
え、何これ。
手が一度止まった。
袋を持つ指先が細かく震えた。
指先を目の前に持ってきた。
薄い青の液が爪の間で光を弾く。
嗅いだ。
ほぼ無臭。
かすかにB1の空気に混じっていた甘さと同じ香り。
父の顔が一瞬だけ浮かんだ。
止まっていたはずの手が今日は先に動いた。
資料のブルースライムの欄には「ゼリー部位、加熱・冷却可。少量試食は個人取扱自己責任」とあった。
個人取扱は自己責任。
頭の隅で、その一行を読み直す。
気づくと指先を舐めていた。
バイト先の癖だ。
新しい素材が来たら、まず触れて、嗅いで舐める。
高校の夏、定食屋の厨房で店長がそうしていた。
俺も真似して、叱られて、それから続けた。
舌の上で一瞬だけ何かが溶けた。
無味ではない。
後味だけ、ほのかに甘い。
さっき鼻で拾った匂いと同じ輪郭の甘さが舌の奥にも一筋だけ残った。
指先のぴりぴりが少しだけ強くなった。
冷やしたら寒天みたいに固まるかもしれない。
塩を一粒、乗せたら。
砂糖を少しだけ足したら。
カメラの方を向いた。
録画はまだ回っている。
「……拾えました。青いゼリー、一匹ぶん」
声が自分でも驚くほど、穏やかに出た。
「JAGL資料で確認済みのB1ブルースライムだけです。真似する時は、リストと手順を確認してください」
「味はほぼ無い。でも、後味が甘い。これ、冷やしたら、寒天みたいになる気がします。塩、ひとつまみで食える側に寄るかもしれない」
言いきった。
言いきってから指先がまた、ぴりっとした。
* * *
帰りの電車は来た時より一本遅いのに乗った。
スマホを開いて、撮った動画を三倍速で確認する。
入場シーン、スライム討伐、ゼリー回収。
途中で指が止まった。
スライムを倒した直後。カメラが水たまりを映した一瞬。
画面の隅、天井の苔の発光が確かに一度だけ揺らいでいた。
拡大してみる。
十フレームほどの薄い色の波。
他の苔は揺れていない。
そのスライムの真上だけが揺らいでいた。
ただの光のゆらぎかもしれない。
保存して、念のため編集画面に取り込む。
袋の中のゼリーは揺れながら微かに青い。
その表面にさっきまで無かった、薄い白の筋が一本、浮かんでいた。
指先はまだぴりぴりしていた。
駅に着く前に動画を短く切り出した。
B1の苔、スライム、ゼリー回収、JAGL資料確認済みという一言。
合計で一分半。
DungeonTubeの投稿画面。
タグ欄に『最浅層』『B1』『スライム』『採取』『料理予告』と打ち込む。
サムネイルは、青いゼリーの入ったジップ袋とB1の苔が同じ画面に入ったカット。
『非公開にしますか?』
ボタンを公開の方に倒した。
視聴者ゼロでも、公開。
見られないうちに形にしておきたかった。
動画タイトルは短くした。
『ブルースライムゼリー、拾えた。資料を確認して持ち帰る』
アップロードのゲージがゆっくり伸びていく。
* * *
家に着く頃、通知が一件、鳴った。
『登録者:1』
続けてもう一件。
『新しいコメントがあります』
DungeonTubeの画面を開いた。
コメント欄はまだ空色のまま、一行だけ。
mi_kana:「それ、安全確認した?」
ユーザー名で分かった。カナメだ。
直後にLINEも来た。
『ユウ、見たよ。一応言うけど、変な症状出たらJAGL救急に繋ぐから、位置情報オンにしといて』
A級冒険者にJAGL救急を心配される戦闘F。
最浅層ごはん、登録者一人。
遅いよ。もう、舐めた。
指先のぴりぴりはまだ消えていない。
ゼリーの白い筋は帰宅までにもう一本、増えていた。
スマホのメモに一行だけ打ち込んだ。
『ブルースライムゼリー。冷やして固める。塩ひとつまみ。加熱したら、何が起きる?』
スマホの画面を伏せた。
明日、これを料理する。
食えるか食えないかは明日の俺が答える。
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