第78話 父の場所へ
父が死んだ場所を、初めて母に聞こうとしていた。
翌朝、時計が八時を少し過ぎたところでスマホを手に取った。
母は会計事務所に向かう準備をしている時間だ。
迷惑だと思った。
でも、夜まで待つとまた聞けなくなる気がした。
着信音が三回鳴った後で、母が出た。
「ユウ?」
「……母さん。一つ聞いていいか」
「どうしたの、こんな朝に」
声が少し緊張していた。
俺から朝に電話することは滅多にない。
「父さんが事故にあった場所、知ってるか」
間があった。
「……知ってる」
「教えてほしい」
また、間があった。
長い間だった。
母が、言うか言わないかを決めている間だった。
* * *
父は、B4の第三採石エリアで見つかったらしい。
母はそう言った。
当時、俺は六歳だった。
事故報告書は見せてもらえなかった。
母も、詳しい状況までは知らなかった。
「ダンジョン内の崩落事故という記録だったと聞いています。壁の一部が崩れて、巻き込まれたと」
「……そう」
母の声が揺れた。
俺は、母にこの話をさせている。
そのことが遅れて胸に来た。
父がいなくなったとき、母は一人で俺を育てる側に残された。
父の話をしなかったのではない。
できなかったのだと、今は分かる。
「ユウ、何かあったの」
「昨日、ゲン爺に父さんの話を聞いた」
「源田さんに?」
「うん。父さんも、戦えたら守れるのかって言ったことがあるって」
電話の向こうで、母が息を吸う音がした。
「少し、行ってみたい」
「一人で?」
「B4だから、条件を確認する。勝手には行かない」
それを先に言わないと、母に余計な心配をさせる。
母はしばらく黙った。
「……気をつけてね」
「うん」
「帰ったら、連絡して」
「分かった」
電話が切れた。
父の死んだ場所が、初めて具体的な名前になった。
B4、第三採石エリア。
そこに、父はいた。
* * *
JAGLアプリを開いた。
B4は俺一人で自由に入れる階層ではない。
B1からB3まではF級単独推奨範囲内。
B4以深は、申請、同行、特例審査のいずれかが必要になる。
カナメには連絡できなかった。
だから、特殊スペシャリスト認定の短時間確認枠を使う。
目的は採取ではない。
撮影でもない。
事故記録に関係する地点の現地確認。
活動範囲はB4第三採石エリアの入口側だけ。
滞在は二十分。
戦闘禁止。
採取禁止。
魔物反応、崩落音、巡回員の指示があれば即撤退。
俺は申請文を何度も読み直してから送った。
昼前、JAGLから承認通知が来た。
条件つき。
B4入口まではJAGL巡回員が同行。
第三採石エリア入口で巡回員が待機。
奥へは入らない。
位置詳細は公開しない。
それでいい。
今日は動画にしない。
父がいた場所を、俺が一度だけ見る。
それだけでよかった。
出発前、冷蔵庫からスライムゼリーを出した。
料理をする時間ではない。
透明な通常部位を小さく切って、塩を少しだけ振る。
ピコがカウンターに来た。
「ぴこぴこ」
二声。
いつもの朝の声だった。
俺は小皿に分けた。
ピコが先に食べる。
羽の光が、皿の縁で小さく揺れた。
俺も一口食べた。
冷たくて、淡く甘い。
いつもの味だった。
父の場所へ行く前に、いつもの味を口に入れておきたかった。
* * *
午後、ダンジョンに入った。
JAGLの巡回員と合流し、入場ログを残す。
B1を通り、B2を抜け、B3の入口側を進む。
B4へ降りる階段の手前で、巡回員が確認した。
「第三採石エリア入口まで。二十分。採取なし。撮影なし。異常があれば戻ります」
「はい」
B4の空気は冷たかった。
蛍火の間とは違う方向へ進む。
以前、ホタルトンボを採ったときは、カナメが前にいた。
今日は巡回員が少し離れて後ろにいる。
カメラもない。
巡回員は視界の端に入る距離で止まり、俺だけを先に行かせすぎない。
けれど、壁に触れる瞬間の声までは聞こえない。
その距離がありがたかった。
父の場所へ向かうだけだった。
通路を二つ曲がると、天井が低くなった。
壁面に石英が混じっている。
B4第三採石エリア。
採取物としての価値は低い。
石英は安い。
生き物もほとんどいない。
だから、普段は人が来ない。
静かな場所だった。
足を踏み入れた瞬間、指先が熱を持った。
いつもの「良品」や「問題なし」とは違う。
細い熱が、岩の奥へ沈んでいく。
採取Sの感覚は、場所の中にあった。
人の気持ちでも、過去の答えでもない。
ただ、古いものが岩の中に残っている。
そういう手触りだった。
* * *
壁に触れた。
岩盤は冷たい。
でも、冷たさの奥で、細い振動が返ってくる。
石英の白い筋が、少しだけ青みを帯びていた。
自然な発光なのか、B4の湿度のせいなのか。
分からない。
ただ、指先に来る熱は深かった。
階層の深さではない。
時間の深さに似ていた。
父は十二年前、ここにいた。
同じ壁に触れたかもしれない。
同じ冷たさを手に受けたかもしれない。
「……父さん」
声に出した。
返事はない。
巡回員の靴音が、少し離れた場所で止まっている。
俺は、もう一度壁に触れた。
胸の奥が、一拍、細くなった。
ここで何があったのか、俺は知らない。
父が何を見つけていたのかも知らない。
でも、ここを知らないまま父の話を聞いていた。
十二年、知らないままにしていた。
それを、今日やっと認めた。
* * *
ゲン爺の声が頭に残っていた。
「戦えたら、守れるのか」
父が言った言葉。
俺が、カメラが壊れた夜から飲み込んでいた言葉。
父も同じ問いを持っていた。
でも、父は一か月後に「急がないんで」と戻ってきた。
逃げなかった。
戦えるようになったから戻ったわけではない。
採取師として戻った。
その事実が、壁の冷たさと一緒に手に残った。
採取Sがまた、岩の奥の熱を拾った。
深い。
古い。
まだ見えていない。
言葉にすれば、それだけだった。
でも、それだけで十分だった。
今日は答えを取りに来たわけじゃない。
父が立った場所に、俺も立つために来た。
巡回員が腕時計を見た。
「残り五分です」
「分かりました」
俺は壁から手を離した。
指先に、温度だけが残っていた。
* * *
帰り道、B4を出るまで何も話さなかった。
巡回員は余計なことを聞かなかった。
地上へ戻り、JAGLアプリで帰還報告を出す。
採取なし。
撮影なし。
異常なし。
第三採石エリア入口側、二十分以内。
記録を送信して、受付完了の画面を保存した。
これは動画に出すものではない。
正確な場所も、入場時刻も、公開する情報ではない。
でも、条件を守って戻った記録としては残しておく。
カナメがいたら、たぶんそう言った。
母には「戻った。怪我なし。JAGL報告済み」と送った。
すぐに既読がついた。
「よかった」
その五文字を見て、足が止まった。
母は十二年前から、ずっと戻らない人を待った側だった。
俺は今日、戻ったと送れた。
それだけのことが、喉の奥に残った。
カナメには、まだ送れなかった。
何を伝えるべきか、まだ分からなかった。
* * *
帰宅した。
玄関で、いつもの声がしなかった。
「ピコ?」
返事はない。
靴を脱ぐ前に、部屋の奥を見た。
窓の桟。
台所のカウンター。
冷蔵庫の上。
どこにも青緑の光がない。
押し入れを開けた。
ベッドの下を覗いた。
洗面所、台所、ザックの中まで確認した。
いない。
部屋が、いつもより一段暗かった。
さっきまで指先に残っていたB4の熱が、急に遠くなる。
スマホを握ったまま、立ち尽くした。
ピコの羽音がない。
カウンターに小さな光がない。
それだけで、部屋の形が変わって見えた。
採取Sは、窓の外の方へ細く反応していた。
ダンジョンの方角だった。
深さは分からない。
理由も分からない。
でも、部屋にはいない。
俺は玄関に立ったまま、もう一度名前を呼んだ。
「ピコ」
返事はなかった。
登録者:三万七千二百十八人。
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