第79話 ピコがいない
ピコを探した。
玄関で名前を呼んだ。
返事はなかった。
窓の桟、台所のカウンター、冷蔵庫の上、押し入れ、ベッドの下。
全部見た。
小さな青緑の光はどこにもない。
昨日の朝、スライムゼリーを分けた皿は洗ってある。
カウンターの端には、ピコがいつも座っていた跡だけが残っている気がした。
跡といっても、実際には何もない。
木の色が少し明るく見えるだけだ。
それでも、そこを見てしまう。
採取Sは、部屋の中で何も拾わなかった。
素材の熱も、苔の匂いも、青緑の細い反応もない。
ただ、部屋が静かだった。
俺は靴を履いた。
外へ出た。
* * *
アパートの廊下を見た。
階段を降りた。
玄関先の路地を見た。
夜の街に、ピコの光はなかった。
風が冷たかった。
街灯の下に、薄い虫が一匹飛んでいる。
ピコなら、あの虫を追ったかもしれない。
でも、そういう遊びの気配ではなかった。
採取Sに意識を向ける。
ピコがどこにいるか、ではない。
この場所に残った青緑の熱が、どちらへ薄く伸びているか。
それだけを探した。
返ってきた感覚は細かった。
ダンジョンの方角。
それ以上は分からない。
B2なのか。
B3なのか。
それとも、もっと奥なのか。
採取Sは答えをくれなかった。
ただ、方角だけが指先に残った。
俺はしばらく路地に立っていた。
ピコが、自分でダンジョンへ向かったように思えた。
そう考えるしかなかった。
* * *
夜間の入場許可を確認した。
今日の俺が入れるのはB2まで。
B3以深へは行けない。
B4はなおさらだ。
JAGL晴海支部の夜間受付でカードを通し、入場ログを残した。
「B2まででお願いします」
受付の職員が確認した。
「分かっています」
俺は答えた。
B1へ降りる。
そこからB2への転移魔法陣を通った。
夜のB2は静かだった。
昼よりも壁の苔が目立つ。
青緑の光が、岩の凹みに薄く溜まっていた。
ピコの色に似ている。
似すぎていて、目をそらしたくなった。
でも、そらさなかった。
入口側の岩棚に手を置く。
採取Sが、苔の夜間反応を拾った。
昼より水気が多い。
発光が少し強い。
葉の先に、細い甘さがある。
素材の情報は返ってくる。
でも、ピコの理由は返ってこない。
それでいい。
理由までスキルに聞いたら、たぶん俺は自分で考えなくなる。
* * *
通路の奥へ行きかけて、足を止めた。
B2の許可範囲の端だった。
その先の階段は、今夜の俺の範囲ではない。
指先には、まだ細い青緑の熱が残っている。
奥へ続いている気がする。
でも、気がするだけで越えていい理由にはならない。
俺は壁に背中をつけ、座り込んだ。
冷たい岩盤が背中に当たる。
B2の苔が天井で薄く光っていた。
いつもなら、ピコがその高さを飛んでいた。
料理の匂いがすると、カウンターから鼻をひくつかせた。
B2では、バッグの口から顔を出していた。
帰り道は肩に乗った。
それがいつものことだった。
いつものことがない。
それだけで、B2が広く見えた。
カメラが壊れたときは、修理に出せば戻ると思えた。
カナメとぶつかったことは、言葉を探せばいつか戻れるかもしれないと思えた。
でも、ピコは違う。
何をすれば戻るのか分からない。
俺は膝に腕を乗せた。
B2の冷たさが、服越しにゆっくり入ってくる。
スマホを出しかけて、やめた。
ピコがいないことを、誰に送るのか分からなかった。
カナメにはまだ連絡できない。
母に送れば心配させる。
有希さんに送るには、説明できる情報が足りない。
JAGLへ報告するにも、ピコが登録上どう扱われる存在なのか、自分でもまだ言葉にできない。
俺はスマホをポケットに戻した。
代わりに手帳を開いた。
B2夜間。
青緑の熱、許可範囲の先。
ピコ不在。
この三行だけを書く。
書いても、ピコは戻らない。
それでも、記録にしないと、今夜の感覚までなくなりそうだった。
* * *
三十年前の文書が頭にあった。
B4第三採石エリアの岩の熱が、指先にまだ残っていた。
カナメのことも。
有希さんのことも。
全部が頭の中にある。
でも、ピコがいないという事実だけは、ほかと違った。
カメラが壊れた夜も、ピコはいた。
カナメとぶつかった後も、ピコはいた。
玄関で待っていた。
「ぴこぴこ」と言いながら。
それだけで、何かが持ちこたえていた。
今日は、その声がない。
胸の中に、空白ができた。
温かいものが抜けた後みたいな空白だった。
採取Sが、奥へ流れる細い熱を拾っている。
それは、ピコの目的を教えてくれるものではない。
戻ってくる保証でもない。
ただ、痕跡がある。
その痕跡が、ダンジョンの奥へ向いている。
分かるのは、それだけだった。
俺はそれだけを手帳に書いた。
青緑の熱。
B2許可範囲の先。
追わない。
追えない。
その下に、もう一行だけ足した。
勝手に深追いしない。
誰かに見せるためではない。
自分の手を止めるための文字だった。
書くと、少しだけ呼吸が戻った。
* * *
B2を出た。
地上に戻り、帰還報告を入れる。
B2入口側のみ。
採取なし。
異常なし。
ピコのことは報告欄には書かなかった。
魔物紛失として届けるべきなのか、未知の小さな生き物の失踪として相談すべきなのか、判断できなかった。
明日、ゲン爺に話す。
そう決めた。
源田屋なら、ピコのことをただの迷子として扱わない。
古い最浅層のことも、父の地図のことも知っている。
必要なら、そのあとJAGLにも相談する。
俺一人で名前を呼び続けるより、明日、言葉にして渡す方がいい。
そう思わないと、今夜また許可範囲の先へ足を出しそうだった。
帰宅すると、台所のカウンターは空いていた。
木の表面がいつもより冷たく見える。
ピコが乗っていた場所を、指で触った。
当然、何も残っていない。
それでも触った。
台所に立つ。
グリーンモスを出した。
袋のラベルを見る。
B2グリーンモス。
JAGL食用登録済み。
加熱用。
鍋に水を入れ、昆布を沈める。
沸くまでの時間が長かった。
いつもなら、ピコがカウンターの端で鍋を見ている。
今日は、鍋の音だけだった。
湯気が上がる前の水面は、黒く見えた。
鍋底に小さな泡がつく。
その泡が増えていくのを、ただ見ていた。
ピコがいれば、羽を少し動かして、泡の数を追っていたはずだった。
沸くまでの時間が、こんなに長いものだと初めて知った。
ことことと音がし始めた頃、昆布を引き上げ、刻んだグリーンモスを入れた。
苔の香りが立つ。
B2の底にある、少し甘い空気に似た匂い。
塩を少し入れて、器に注いだ。
一人で食べた。
昆布の旨みと苔の青みが、静かに舌へ広がる。
喉を通る温度だけは、いつもと同じだった。
胃の奥に落ちると、少しだけ体が戻ってくる。
そこにピコの声が重ならない。
味は同じなのに、食べる時間だけが違っていた。
うまかった。
でも、うまかっただけだった。
ピコに分ける小皿を出しかけて、手を止める。
小皿は棚に戻した。
その音が、やけに大きかった。
* * *
洗い物をした。
水の音が台所に響く。
ピコがいれば、その音にも反応していた。
「ぴこぴこ」と興味深そうに鳴いて、排水口をのぞこうとした。
今日は水の音だけだった。
それでも、水は温かかった。
手が温まる。
それだけが今夜の確かなものだった。
スマホを確認した。
短い更新動画に、新しいコメントが来ていた。
「またB2の様子を聞かせてください。待ってます」
見ている人がいる。
停滞していても、ここに残っている人がいる。
ピコがいない夜でも、チャンネルは消えていない。
俺は布巾を畳み、カウンターの端に置いた。
ピコがいつも座っていた場所だった。
「明日、ゲン爺に話す」
声に出した。
返事はなかった。
でも、言葉にしたことで少しだけ決まった。
今日は追わない。
追えない場所へは行かない。
明日、分かる人に聞く。
ピコの光がない台所で、俺はそう決めた。
登録者:三万六千九百十八人。
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