第77話 料理ができない夜
昼前、源田屋へ行った。
晴海の商店街を抜けて、路地に入る。
源田屋は看板も出ていない店だった。
引き戸を開けるとゲン爺が棚の前にいた。
古い容器を布で拭いていた。
「来たか、坊主」
「来ました」
ゲン爺は振り返って、俺を見た。
「……顔色が悪いな」
「そうですか」
「そうだ。座れ」
ゲン爺が湯を沸かし始めた。
俺は奥のカウンターに座った。
いつも座る位置だった。
木のカウンターが少し温かかった。
古いものが持っている温度だった。
* * *
ゲン爺が茶を出した。
緑茶だった。
ゆっくり入れた茶で薄すぎず濃すぎなかった。
「配信が止まってるな」
「カメラが壊れて」
「壊れた、か」
ゲン爺は少し黙った。
「自分で壊したわけじゃないだろうな」
「ぶつかって壊れました」
「誰かに」
「……そういうことです」
ゲン爺は頷いた。それ以上は聞かなかった。
「炎上の件は聞いた。グリーンモスの話」
「有希さんから?」
「ここに顔出す子は多い。漏れてくる」
俺は茶を飲んだ。
温かかった。
「ゲン爺が話したいというのは炎上の件ですか」
「ちがう」
ゲン爺は俺の向かいに座った。
「坊主。お前、最近何を考えてる」
「……いろいろ」
「戦闘のことか」
俺はゲン爺を見た。
「……そうかもしれない」
「やっぱりな」
ゲン爺は茶をゆっくり飲んだ。
急かさなかった。
何も言わず、ただ、茶を飲んだ。
その間に俺は何を言うべきか考えた。
「採取Sがあって、料理Sがあって、動画が伸びて。でも、黒葉とぶつかってカメラが壊れて、東和に潰されそうになって。そのとき思ったんだろ。戦えたら違ったって」
俺は返事をしなかった。
それが答えだった。
「……そうか」
ゲン爺は目を細めた。
「お前の親父も一度そういう顔をしたことがある」
* * *
「父が?」
「最浅層で採取してた頃、三十代の半ばだったと思う。東和の前身の会社が最浅層に口出しを始めた頃だ。健次郎は当時、JAGLに異議を出していた。採取データの独占に反対してな」
「……はい。文書で見ました」
「そのとき、何度か嫌がらせを受けた。仲間が一人、離れた。装備を勝手に調べられたこともあった。そのとき健次郎は、一度だけ、こう言った」
ゲン爺は茶を置いた。
「『戦えたら、守れるのか』って」
俺は息を止めた。
同じ言葉だった。
俺が今日まで心の中で言っていた言葉と同じだった。
同じだと思ったとき、胸の奥が一拍、ひゅっと細くなった。
重くはなかった。
ただ、そこにあるという感覚だった。
父も同じ場所で迷っていた。
それが「よかった」とも「つらい」とも違う、何か別の言葉を必要とする重さで来た。
ゲン爺は何も言わずに茶を飲んでいた。
「本人は冗談のように言った。でもワシは分かった。本気でそう思ってたんだ。採取Sでも料理Sでも、相手がその気になって動き始めたとき、戦闘が使えなかったら守れない、ってな」
「……」
「それから一か月後、健次郎はまた来た。そのとき言ったのは『急がないんで』だった」
俺はゲン爺を見た。
「同じことを言うと思った」
ゲン爺は静かに言った。
「お前と親父は同じとこで迷って、同じとこで踏ん張った。血は正直だな」
左手が前髪に向かって、動いていた。
気づいたときもう掻き上げていた。
俺はカウンターの上の茶碗を見た。
父も同じ迷いを持っていた。
戦えたら守れるのかと。
その問いにどう向き合ったのか。
「急がないんで」と言って、一か月後に戻ってきた。
戻ってきたということは、踏み止まったということだ。
でも、父はその後どうなったか。
それを俺はまだ知らない。
父のザックを開けて、地図を見て、ゲン爺から話を聞いた。
でも、父が「急がないんで」と言った日からどんな時間を生きたか。
それがまだ分からなかった。
* * *
「ゲン爺」
「何だ」
「御崎カナメとぶつかりました」
「そうか」
「俺の言い方が悪かった」
「うん」
ゲン爺は余計なことを言わなかった。
「……謝りたいけど、何を謝ればいいか、まだ分からない」
ゲン爺はしばらく黙った。
「坊主、一つ聞いていいか」
「はい」
「御崎のことは何か知ってるか。あの子とお前の親父のこと」
俺は首を振った。
「何も」
「そうか」
ゲン爺は窓の外を見た。
路地に夕方の光が入り始めていた。
「……いつか、御崎の子に聞いてみるといい。あの子がなぜお前のそばにいるのかを」
「どういう意味ですか」
「今はそれだけだ」
俺は問い返したかった。
でも、ゲン爺が「今はそれだけだ」と言うとき、それ以上は出てこないことを知っていた。
急がない。
聞くなら、次に来たときだった。
* * *
源田屋を出た。
空が暗くなっていた。
西の端に薄い橙が残っていた。
ゲン爺の言葉が頭に残っていた。
「お前と親父は同じとこで迷った」。
父も同じ問いを持っていた。
その父が、どうなったか。
採取Sが静かだった。
何も告げなかった。
答えを持っていないのか、それとも言わないのか。
分からなかった。
帰宅した。
ピコがいなかった。
部屋を見回した。
窓の桟で青緑の光が揺れていた。
「……いたか」
ピコがこちらを向いた。
「ぴこ」
一声。
俺は台所に立った。
冷蔵庫を開けた。
昨日のグリーンモスが残っていた。
袋のラベルには、B2グリーンモス、JAGL食用登録済み、加熱用、と書いてある。
フライパンを取り出した。
火をつけた。
バターを入れた。
そこで手が止まった。
バターが溶けていく。
甘い匂いが立ち始めた。
いつもなら、ピコが来る頃だった。
カウンターの端で鼻をひくつかせる頃だった。
今日は来なかった。
台所が急に広くなった気がした。
来ないということに気づいた瞬間、火を消した。
グリーンモスを冷蔵庫に戻した。
スライムゼリーを出した。
冷たいまま食べた。
プルリとした甘さが舌に来た。
料理をする気が出なかった。
動画を撮る気も。
カナメに連絡する気も。
何もかもが遠かった。
夜が来て、暗くなって、それでも何も変わらなかった。
父が最浅層で探索し続けた理由がまだ分からなかった。
父の死んだ場所がどこだったか。
俺はずっと知ろうとしなかった。
知らないまま、十二年が過ぎた。
知ろうとしないことで、何かから目を逸らしていた気がした。
父が行った場所を俺が行けば、何かが変わるのかもしれなかった。
ゲン爺の「御崎の子に聞いてみるといい」という言葉が頭に残り続けた。
カナメがなぜ俺のそばにいるのか。
そのことを俺は一度も考えたことがなかった。
いて当然だと思っていた。
幼馴染だからと。
でも、それだけじゃない何かがあるのかもしれなかった。
スマホを確認した。
短い更新動画のコメントがまた増えていた。
「ゆっくり待ってます」「また来たとき、B2の様子教えてください」「最浅層なんでを久しぶりに聞いた気がした」。
見知らぬ名前が並んでいた。
炎上の頃に来た人たちとは違う声だった。
そのことに今日初めて気づいた。
スライムゼリーの最後の一口を飲み込んだ。
甘くて、冷たかった。
それだけが今日の味だった。
ピコが窓の桟から降りてきた。
俺の膝の上に乗った。
羽が低く、青緑に光っている。
「……ゲン爺がカナメに聞いてみろと言った」
「ぴこ」
一声だけ、返った。
分かっているという声だった。
カナメがなぜ俺のそばにいるのか。
十二年間、一度も聞いたことがなかった。
幼馴染だから。隣に住んでいるから。
ゲン爺は、そこに何かあると言った。
でも、今のカナメとは言い合いをしてしまった。
しばらく連絡しないとカナメは言った。
俺から謝ることができていない。
何を謝ればいいか、まだ分からない。
でも、「分からない」と言い続けることも止まっているということだ。
急がなくていい。
でも、聞かないままでいることとは違う。
料理すら、今夜はできなかった。
でも、ゼリーを食べた。
冷たくて、甘かった。
変わらず美味い。
父も最浅層の素材を採っていた。
同じゼリーを食べていたかもしれない。
プルリとした食感がまだ舌に残っていた。
冷えたゼリーは後味が薄い。
甘みが来て、すぐに引く。
なのに、飽きない。
何度食べても同じ感想で終わる。
「うまかった」。
それだけで翌日もまた食べたくなる。
父が「急がないんで」と言って、戻ってきた。
その父もこういう食材を食べていたのか。
戻ってくる理由が何か食べ物に関係していたのか。
分からなかった。
でも、食べ続けてきたのは確かだった。
俺も戻る。
まだその時がいつか、分からない。
でも、「ここで終わり」とは思っていなかった。
それだけが今夜の確かなことだった。
登録者:三万七千五百十二人。
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